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2005年09月05日
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知らないという事は、おそろしい。

歴史については、自分がどれほど何も知らないのか。最近つくづく
世の中がみえていなかったと、痛感することが多い。

三浦梧楼という人物がいる。



山口生まれ。陸軍軍人、政治家。父は萩藩士。藩校明倫館に学ぶ。
奇兵隊へ入隊し、第2次長州征討、戊辰戦争で活躍。兵部権大丞、東京鎮台司令官、
広島鎮台司令官を歴任。西南戦争時は第3旅団司令官として従軍。

明治17年(1884)大山巌に随行し欧州各国の兵制を視察。21年(1888)藩閥勢力と対立し、
予備役に編入される。同年11月、学習院長に就任。23年(1890)貴族院子爵議員。

28年(1895)朝鮮国駐在特命全権公使に就任。閔妃暗殺に関与。のち枢密顧問官。
政党勢力を重視するようになり、第2次護憲運動では3党首会談を仲介した。



この人物、検索すると並大抵のひとではない。

とりわけ、「閔妃暗殺」というのは凄惨である。たとえば、東京の皇居にアメリカの
特殊部隊が急襲して取り囲み、皇居におられる美智子皇后陛下を拉致監禁。特殊コマンド
が美智子皇后陛下を殺害のうえ、皇居の林の中に埋葬した、などというような事態があれば
日本国民は、どのように驚愕するだろうか。1895年(明治28年)、よく似た真似を
行った人物がいたらしい。

のちに、日本側で軍法会議がとりおこなわれ、三浦梧楼陸軍中将(当時駐朝公使)と同じく
公使館一等書記官であった杉村濬(ふかし)などが被告として、予審取調べを受けた。その
陳述で、この流血劇を「朝鮮内政改革」と呼称している。『尋常の手段』では不可能である
ことは当然ながら、当時の日本政府も知っており、彼の地での軍事クーデター計画は政府に
より『黙認されたることと推測』して実行したと堂々述べている。この殺害劇が、日本政府
に衝撃を与えたことは事実としても、公使として三浦悟楼を韓国に送り込んだ際、この方針
を携えるべく意趣を伝えておらなければむしろ不自然かもしれないという。なぜならば形式
的に三浦、杉村は日本本国に呼び戻されたが、かたちだけの逮捕であり証拠不十分で釈放を
されている。当時の日本政府の方針を体現したのは、間違いなさそうである。

いずれにせよ、こんな血なまぐさい事件で立役者として後世に知られている人物である。

彼が、随行した欧州各国の兵制視察の大山巌陸軍大臣枢密院顧問官といえば、あの大西郷の
従弟である。理念としての征韓論を身をもって体現した中心だと言えばご立派であるが、
行ったことは凄惨としか述べようがない。

この三浦梧楼陸軍中将が、萩藩士出身で、あの高杉晋作の奇兵隊小隊指令という出自である
事を考えると、明治新政府という運動は、実に一筋縄では理解できないという気がしてなら
ない。どうやら、長州出身者の陸軍中将でありながら、薩長連合に終生違和感を抱いていた
ものらしい。

明治34、5年頃(1901年)というから、ちょうど20世紀の始まりの年。
この三浦梧楼が、とんでもない大技を仕掛ける。閔妃暗殺の6年後のことである。

これが、自分的には閔妃暗殺を遥かに凌駕するほどの驚きを生じる。

よりによって、山県有朋に対して会津容保亡き後の会津松平家に対して財政支援を要望して
大反対の山県らを説得して、巨額の財政支援を実行させたらしい。会津松平家といえば、
あの新撰組の近藤勇、土方歳三らの後見役となった会津容保。京都守護職として幕末の
治安維持に腐心し、戊辰戦争では賊軍として明治新政府の官軍に駆逐。白虎隊の自刃劇に
いたる「朝敵」である。華族令で、取り繕うように子爵家として認めているが、明治の
冒頭で新政府は、到底旧大名家とは思われぬほどその資産をことごとく奪い取って虐待に
つぐ虐待で遇している。よりによって財政支援とは、度外れた工作を行ったものという
しかない。

容保の晩年は、ほとんど人と交際せず、終日ものをいわない日も多かった。
ただ時に過去をおもうとき激情やるかたない日があったと思われる。
ある日、一詩を作った。旧臣たちはその詩をみて世に洩れることをおそれ、
門外に出さなかった。

なんすれぞ大樹 蓮枝をなげうつ
断腸す 三顧(さんこ)身を持するの日
涙をふるう 南柯(なんか)夢に入るとき
万死報告の志 いまだとげず
半途にして逆行 恨みなんぞ果てん
暗に知る 地運の推移し去るを
目黒橋頭 杜鵑(とけん)啼く

大樹、とは慶喜のことてせある。なぜ徳川家門の自分をあのように残酷な運命の
中に投げ込んだのか、とのべ、さらにひるがえって孝明天皇の恩に報いるところ
がなかったわが身の逆運をうらみ、この二つの恨みはついに果てない、という
怨念の詩といえよう。

容保は逸話の少ない人間であった。ただ、この怨念については逸話がある。
晩年の容保は無口でもの静かな隠居にすぎなかったが、肌身に妙なものをつけていた。
長さ20センチばかりの細い竹筒であった。これにひもをつけ、首から胸に垂らし、
その上から衣服をつけていた。就寝のときもはずさず、ただ入湯のときだけはずした。
たれも、その竹筒のなかになにが入っているかを知らず、容保自身それを話したこと
もなかった。

容保が死んだとき、遺臣がその竹筒の始末をどうすべきか相談した。
容保は京都時代、独身であった。維新後はじめて内妻として身辺に女性を置いた。

その女性が五男一女を生んだ。かれらが通夜の夜、その竹筒をあけてみた。
意外にも手紙が入っていた。ただの手紙ではなかった。宸翰(しんかん=天皇直筆の手紙)
であった。

一通は、孝明帝が容保を信頼し、その忠誠をよろこび、無二の者に思う、という意味の
御私信であり、他の一通は、長州とその系累の公卿を奸賊として罵倒された文意のもの
であった。

維新政府から逆賊として遇された容保は、維新後何ら抗弁せず、ただこの二通の宸翰を
肌身につけることによってひそやかに自分を慰めつつ余生を送った。

明治の中期、第五高等学校教授になった旧臣・秋月悌次郎がこのことに異様なものを感じ、
長州出身の三浦梧楼将軍に語った。三浦はそれを長州閥の総師山県有朋に話した。三浦
にすればほんの座興のつもりの話であったが山県は驚愕した。

「捨てておけぬ」。

山県にすれば、その宸翰が世に存在する限り、維新史における長州藩の立場が、後世どの
ように評価されるかわからない。人をやって松平子爵家へ行かせ、それを買い取りたい、
と交渉させた。額は五万円であったという。
が…、宸翰は山県の手に入らなかった。松平家はそれを婉曲に拒絶し、その後銀行に預けた。





歴史の深奥にふれるような記述を読み進み仰天する思いが湧く。

あの明治戊辰戦争とは、いったい何事だったのだろうか。尊王攘夷派の根拠ともなろう
孝明天皇からよりによって直筆の親書(宸翰)を付与されていた松平容保を、賊軍として
薩長が討伐した。

、、、映画「壬生義士伝」や、テレビドラマ「燃えよ剣」の世界が、一瞬にして価値倒錯
を起こす。眩暈のするような世界である。事実は、歴史の闇の中にあるとはいえ、あまり
にも極端な歴史認識の転回に眼が眩む。この背景に、おびただしい流血沙汰が存在している
ことを考えれば、歴史の刻み方とは何という非情さであろうか。





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最終更新日  2005年09月05日 07時04分00秒
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