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2005年10月06日
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え~?
ますますこんがらかって来ちゃいました~ 笑
それにしても「ソ・連」てたなぼた国家だったんですね?
マリィ ジョー ♪さん




では私の話の筋を、誤解を恐れず単純化しましょう。

かつてレオナルド・ダビンチは、鏡で写せば読めるという文字が
自在に書けたそうです。わたしの述べていることは、たぶん鏡に映すと
「なんだ、そんなことか」というぐらいばかばかしいほど簡単な事なのだ
という気がします。


わたしは、内ゲバが全盛時期に大学周辺で激しい殺戮行為が挙行されて
いるのを何度か目撃しました。同じ学部の他学科の学生の中には、内ゲバ
の流れで警察にも襲撃を加えて警官を二人殺した奴もいます。あの狂気は
一体なんなのだろうと考えたものです。


「弱者の戦略」というものは、ようするに「強者への諂い」ではないでしょうか。

強者と対立することはリスクです。そこで、まず自分たちより下位の弱者を
叩くわけです。ことと次第では、殲滅することになるのでしょう。


暴力は二重の場面で犠牲を産出する。根源的な場面、すなわち、秩序生成の場面
で犠牲をつくりだし、ついで権力と秩序の場面で犠牲をつくりだす。犠牲の生産
の視点からいえば、暴力の本質とは、いたるところで犠牲を生産することだと
定義できる。犠牲者とは、排除されたる存在者である。犠牲生産的暴力は、排除
する力である。                  今村仁司「排除の構造」




ひとたび「秩序」が暴力的なまでに形成されてしまうと、その秩序の隊伍の中で
弱者は、くりかえし同列の弱者を暴力的に駆逐して「秩序」(強者)へ諂いをする。
それが弱者にとって生き残りをかけた生存を維持するための戦略となるわけです。



♪ゴマを~すりまぁ~しょう
陽気にゴマをねっ(あっ・・・すれすれ!)
口からでまかせ出放題~

手間もかからず 元でもいらず~
すれば~この世に チョイト(チョイト!)チョイト(チョイト!)
春~が~来~る

エライ奴ちゃ、おだてろ。ゴマすってのせろい
すれすれすれゴマすってのせろ♪
               「日本一のゴマすり男」作詞 青島幸男








60年代反米安保闘争で、潰えた広汎な市民や学生の実力闘争。その夢想し、要求する
国民的秩序は日米政治権力の圧倒的だか、辛勝だったかはともかくも結果において
壊滅的なまでに親米政権の示す秩序の下に封殺された。しかし、社会的には経済成長期日本の
企業群の中へ怒涛の如くに流れ込んだ大衆の底抜けの「諂い」(=ごますり)が闘争の第二ステージと
して、次々と反権力を払底させることになりました。わたしなどの年代は、これを身をもって
その過程で翻弄されたという思いがあります。

実は、哲学者今村仁司の述べる「排除の構造」とは、ひとつにはこのゴマスリという
大衆が無意識に採用する心的な機制にみられる、継続的で恒常的な「芽むしり仔撃ち」
的な暴力の深化(暴力の慣習化)がわれわれの日常であって、企業や地域の既存秩序にひたすら
順化し適応するという普段着のありかた、そのものがひとつの暴力の拡大再生産であると
いう視点。さほど嘘臭い話ではないでしょう。


学生時代、警察官を殺害してまでも学生権力による新秩序を目指していたほどの男達が、
企業社会に転じては女房子どものためだと平然と職場にあって上司に媚へつらいをする。
その瞬間、常態的に企業が暴力的に切り捨てるさまざまな現場に眼をそむけて、経済社会
の暴力的狂奔についての一切の異議申し立てを放擲してまでも、自身の生活と家庭を
秩序内部に編成しようとしてきた。

そして、その見事な成果がこれではありませんか。




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最終更新日  2005年10月08日 12時34分44秒
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