カテゴリ:お山に雨が降りまして
不思議なもので、いくら知に走り才気煥発を装っても、はたまた論争で刺すよう
な言葉を弾丸のように繰り出そうとも上野千鶴子はどこまで行ってもヌケてみえる。 一方、富岡多恵子が語ると、どんなにくぐもった言葉につまるような瞬間も思慮 深そうに思えるからますます不思議である。 それは、あの大江健三郎がノーベル文学賞を受賞しようとも、NHK番組で もったいつけて語りだすなどしようとも、多くの賢明な読者はその内容の 空疎さを確信しており、虚ろな文藝天才の不幸な生活と意見については憐れみ すら感じるのと似ている。 富岡多恵子;今回いろんな文献、批評とかのなかに、三島自身の書いた「女ぎらいの弁」 というのがありましたね。あれひとつあれば他に何も言うことないと思いませんでした? 小説もあれで説明されてしまうんじゃない?「女ぎらいの弁」では、<女を低級で男を 高級と思う>とはっきり言っている。それを読んで、次に「作家と結婚」という文章を 読むと、<今ではほんとうに子供が欲しいと思っている>というんで吹きだしちゃった んだけど。そのおかしさが頭に残っているから、何を読んでも全然だめなわけ、私。 なあんだって。 小倉千加子;結婚してなかったら読めたんですか? 富岡;結婚していなかったら、特に滑稽ではないでしょう。だけどこの人は、女は 嫌いだ、と言いながら女と結婚した。 上野千鶴子;既婚男性の隠れホモだっていっぱいいますよ。 富岡;いますよ。だけどあの人は、なぜ結婚するのかって、子どもが欲しいって書いて います。子どもをもつためには結婚しなければならない。 小倉;生活、生活っていってますよね。 富岡;それから「三十三のまだ青年の匂いがするうちに結婚したい」と。男が四十に なって独りでいると、こんなみじめなことはない。だから青年という匂いのするうち に結婚したい。そういって三十三で結婚する。 上野;彼は「鏡子の家」で、清一郎という男に仮託しているけれど、健康という病、 この病に罹らねばならん、と思っているでしょう。この病にも罹らなければ本物の 健康だから、本物の健康というバカにはなりたくない。健康という病に罹るための 最大の条件は、「普通人を演技する」ということだから、結婚しなければならな かったんです。彼流のルールからすれば。 富岡;でも、それにずっと堪えられなかったわけでしょう。 上野;べつに結婚ぐらいは平気でしょう。 富岡;だけど死んじゃったというのは? 上野;結婚による圧迫なんかじゃないでしょうよ。結婚なんて彼は何とも思ってない んじゃあない。妻に対してもそう。 富岡;子どもも? 上野;そんなに責任感感じてないと思うよ。 富岡;ああ、そうそう。私は三島が死んだのは政治的な動機じゃなくて、結婚がいや だから死んだと思いましたよ。 上野;え? 小倉;新説ですね、それは。 上野;それはだれも言わんかったこと(笑) 富岡;だれも言ってないですよ。 上野;結婚の矛盾に堪えかねて。 富岡;矛盾じゃない。要するに、たかをくくってたわけよ。 結婚ぐらいできる、と。いろんなレトリックで。 だけど、やってみたら、そうはいきませんよ。 「男流文学論」筑摩書房 なにしろ澁澤龍彦と三島由紀夫、そして池田満寿夫で鍋をつついた事があるという。 これは澁澤龍彦選集か何かで読んだ記憶がある。あるいは、富岡多恵子は、池田経由 で、三島由紀夫の人物評を耳にしていたのかもしれない。 しかし、ここで上野千鶴子が三島同様に「本能の毀れたサル」ぶりを発揮しているに 比して、富岡のどっしりと述べる珍説に迫力があるというものだ。実証などは薄弱でも、 これが思想的胆力というものではないのか。 あの三島没後、三島由紀夫夫人の異様なほどの三島作品への駆逐ぶりを思えばこの富岡 の直感は正鵠を得ているとわたしは思わざるをえない。三島夫人とは、あの日本画家 杉山寧の長女である。杉山寧といえば、文藝春秋の表紙絵などでも知られた大家。 彼女が、いかに政治的に三島作品とその遺品を獰猛に駆逐したものか。後世の批評家らには 慎重に検証をいただかなければならない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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