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2006年08月13日
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1960年代の世界的な学生運動では、しばしば原理主義的な共産主義信奉が毛沢東思想に
移行する例がみられた。影響を受けたのは大学生を中心とする都市部の中産階級の若者で、集団生活や農村下放などが模倣されたが社会全体を変えるには至らなかった。ジャン=リュック・ゴダールの『中国女』は毛沢東思想を研究するために共同生活を始めるフランスの若者たちを描いている。

カンボジア内戦時にはポル・ポト率いる「クメール・ルージュ」が毛沢東思想を奉じてその思想を
極端な形で実行に移した。都市の住民を全て農村に移住させたこの政策は大躍進政策と同様、
多数の餓死者を出し、経済的な破局をもたらした。

また、「人民は阿斗になってはいけない」という発言も有名ではあるが、劉禅は暗愚であったが
数千万人規模の餓死者を出しておらずむしろ暗愚なのは毛沢東だという意見もある。しかし近代化の遅れている農村主体の国では、毛沢東思想はいまだに人をひきつける力がある。

現在でも毛沢東思想を綱領としている共産党はネパール共産党毛沢東主義派だけだが、その他
にも世界の様々な反政府組織が毛沢東思想に範をとっている。そのため一部の国家では「マオイスト」という言葉はテロリストや強盗・ゲリラなどと同じ意味に使われることもある。無差別機銃掃射で知られたペルーのセンデル・ルミノソも、「農村から都市を包囲する」の毛沢東思想を標榜していた。




1969年11月5日、「大菩薩峠事件」が起きる。

個人的には、この事件はその後の日本を大きく変えたような気がしてならない。歴史に、書かれる
ことがない、重要事件だったのだ。当時、新左翼中もっとも直線的に武装蜂起を目指すとされた
共産主義者同盟赤軍派の幹部ら53名逮捕され、急伸途上であったこのセクトが一気に弱体化した。
彼らは、脳裏では首相官邸および警視庁襲撃のための軍事訓練を実行していたとされている。

三島由紀夫は、この事件をことあるごとに取り上げ強い失望を抱いたと正直に表明していた。
彼は、ことと次第では赤軍派と本格的な対決を演じ願望の上では彼らに殺されることを夢見たと
いうフシがある。しかしながら、現実には三島の期待とは裏腹に戦後世代特有の軟弱さで夜間に
歩哨も立てず、まんまと一網打尽に取り縄にかかってしまった。


実は、そののち都市ゲリラ的な活動は、四分五裂し赤軍派は、日本国内の毛沢東主義者らと
「野合」することとなる。この失望感は、三島ら右翼主義者にすら伝播するほど、低徊が予想
された。案の定、あの連合赤軍事件として時代のトラウマを刻印、今に至って大きな影響を
残した。

もともと、毛沢東主義者が、日本の国の中で唯銃主義だの、武装蜂起だのと鎌首をもたげて良い
ことがあるはずがないのである。そんなことは、わかりきったことだ。当時、高校生だった自分
にすら明快に見通せた。彼らは、日本の新左翼運動に大きな影響を与えたかもしれないが、所詮
は左翼の退嬰的な部分をもっとも色濃くもちあわせている「田舎者集団」に、過ぎないからだ。


いま、ネパール国土の7割近くを制圧しているというこの武装集団の隆盛ぶりには心底
危惧されてならない。早晩、武装カルトとしての、凶暴な性格を露呈することになるだろう。








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最終更新日  2006年08月14日 07時00分20秒
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