カテゴリ:お山に雨が降りまして
associationという概念も、思想も、実践も日本では定着しにくいという風に 聞いた。法治社会だったら、法についての共通感覚がウラ張りされていないと いけない。そもそも機能しないのだ。ところが、われわれの社会には、そんな 共通感覚をつくるところで、なんども下手を打つ。もともと縄文文化を、平気 で「みえない」ことにして、社会の裏へ隠して平気で非人だとか、この世の事 ではない、などと澄ましてきた横着な精神というものが世を占めているので、 カッコよく洋学でそまったお人好しらが、ぬくぬくとassociationを語っている のを見かけるが、大抵が嘘パチである。それを考えると、嘘を見抜いた岡本 太郎などはスゴイ嗅覚だ。 大体、日本の全共闘世代というのがどこに雲隠れしたのかさっぱり風采が上がらぬ。 個々人は、あの学生騒乱期を誇らしく思ってるらしいのだけれども、まんまと個々 に日本的風景に潜り込み、本来もっとも嫌っていたはずの権力的な装置に安住して 平気で年金生活の開始時期まで日めくりをめくっていたりする。 この連中の一部が、中国や北朝鮮などと絡んで好き放題してきたというのが70年代 以後の日本の息苦しさをもたらした最大の原因だろう。 小泉行財政改革が、まことに言葉どうり「行財政改革」だったとは夢にも信じちゃあ いないのだけれども、そんな団塊世代を中心にした親中国派を一定封殺しようとした という試みレベルで、日本の少なからぬ規模の大衆的支持を得て喝采を受けたという のが、ここしばらくのわが国の大状況だろう。 このあいだ、つま恋で吉田拓郎や かぐや姫のコンサートが開催されたと報道で知った。 笑ってしまった。当時から、自分はあの連中を全然信用していない。 ♪下駄をならして 奴がくる 腰に手ぬぐいぶら下げて 学生服に しみ込んだ 男の臭いがやってくる ああ~夢よ 良き友よ~♪ 「我が良き友よ」 大嘘だろう。 70年当時、すでにこの唄は大嘘だった。 これを放歌吟唱するという感覚が、一種の自虐的なカリカチャーであって、立派にアナクロ だった。そんなものを喜んで歌っていた連中が、もういちど35年も経過して、またぞろ 集まりむかしの大嘘を踏襲して盛り上がろうというグロテスクな感覚が、どうしても理解 できない。共産党支持者のおやじが酒飲んで、軍歌歌っている方がよほど理解できる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年09月25日 23時22分23秒
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