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2006年11月19日
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読み進めば進むほど、知れば知るほどヴォーリス氏(日本名は、一柳米来留と称す)という人物の才能と、にもかかわらずこの地域の厚い壁に阻まれた多くの困難、悲運さが分かってくる。しかしその人格は、それゆえにより一層陶冶されたもののようだ。

実は、子供の頃にヴォーリスという名前を繰り返し母親から聞いていた。とにかく偉い人なのだといわれて育ったのだが、まったく理解を越えていた。まして小学生時代に、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)などという、なんだかつかみどころのない名前をつけわが身を呼び為すという生活が到底理解できなかったのである。夫人が子爵小野藩一柳末徳の子女であるなど、と母親の不明瞭な解説を聞いただけでは50年代の魯鈍な小学生には、「ああ、あのみょうちきりんな帽子をかぶって手をふっているおばさん達の一味か」ぐらいにしか思わなかった。そもそもキリスト教信仰そのものが、わけがわからない。状況的に、大阪という街と自分には、とにかく何をしても疎通がよくないうえに、地域のキリスト教会というものが実にいかがわしくて気味が悪かった。地域差など、まるで理解ができない子供時代であるから、母親の郷里の偉い人など、実のところなんの興味もなかったのだ。

ただ、寒い季節の国鉄の駅頭でであった浦谷道三氏のすがたがやはり初等教育年限の鈍い子どもの眼にも少し強い印象として残った。それに、浦谷道三氏は、それ以前からもそれ以後からもせっせと大阪の自宅に母親に向けてニュースレターや直筆の手紙を送りつけてこられた。筆まめな母親が、意外なほど熱心に返信をしているふしが無かったことが、怪訝な印象となったものだ。

さらに長じて、自分が高校時代ぐらいになれば絶えることなく届くそのニュースレターや「湖畔の声」という会報を通じて、ヴォーリス氏が滋賀県初の商業高校である、県立八幡商業高校の英語教師をされていた、という事実を知り自分にとってのネガティブイメージが最高潮に達する。関東の方などは、その意味が理解できないと思う。高校とはいえ、八幡商業高校とは、普通の公立高校とはみなしずらいある種の超エリート校だった。親族にも、卒業した叔父もいる。それゆえに、自分は徹底的に毛ぎらいしていたのである。その「不愉快な思い出」の原因という風な印象がする時もある、よりによって八幡商業の教諭だなどと知れば、ますます自分の生涯とは縁もゆかりもない存在だという風に思ったものだ。


しかし、これまでのところさまざまな雑誌や、WEB上に散在する詳細な知見を総合するとやはり瞠目をせざるを得ない凄しいまでの刻苦勉励の人であることは伺えるし、なによりも戦時下の虐待に耐えなお日本と日本国民、そして創業された会社、従業員、そして教会の信徒たちへ向けた愛情にあふれた人柄だったのだろうとよく理解できた。いくらでもアメリカへ逃げ帰る機会は、あったのだ。それを選択肢にされなかったのは、やはり「使命感」に生きる人というほか無い。


昨年、あの解体騒動のあった豊郷小学校と、全国的に著名になった町役場を見学してきた。

さすがに、両親が滋賀の産であるから、昭和天皇をしてヴォーリス氏に「いじめのありや、なきや」と誰何されたごとき現実が、概ねどこに所在していたのかぐらいの推量はつく。豊郷小学校の解体騒動の「騒然」を茫然と遠目で眺めながら、われわれの社会の現代史嫌いの膏毛ぶりにはつくづく嘆息せざるを得ない。

googleで「守山空襲」と叩いたところ、Yahooともどもなんとこの日記だけしか出てこない。自分は、母親のあの事件に際して、遭難した方々の消息をなりかわって調べたいと思っただけだった。忸怩たる思いが、湧くばかりである。人は、戦争で死ぬためには生まれてはこない。そんなことすら、殊更に口にせねばならないのだろうか。むなしく、木魂を耳にするような空漠感がある。

 










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最終更新日  2006年11月20日 20時46分00秒
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