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2006年12月26日
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 勉強嫌いだったわたしが、痛切に「勉強したい」と思ったのは、会社勤めを始めて2~3年たったときだ。広告代理店でコピーライターをしていたのだが、いい広告だと思ってもあまり商品は売れなかったり、逆に、あまりいいと思わない広告でも商品は売れることがしばしばあった。売れる広告と売れない広告。その違いがわたしにはよくわからなかった。いろんな本も読んでみたが、それらしい説明はしてあるものの、いまひとつ自分には納得いかない。そのうち、広告に限らず、人間のおこなうコミュニケーションそのものが不思議なものに思えてきた。

 でも、しごとは猛烈に忙しく、じっくり勉強する暇も、考える余裕もない。わたしは悩んだあげく、会社を辞めて、大学院に入って勉強しなおすことにした。大学院ですごした5年あまりはかなり経済的には苦しかったが、勉強するのはおもしろくてしかたなかった。もちろん勉強は大変だったけれども、受験生だったころとはちがう楽しさがそこにはあった。同じ勉強なのに、何が変わったんだろう?

 それは今でもよくわからない。ただひとつ言えるのは、問題を他人に与えられるだけの勉強はつまらないけれども、問題を自分で見つけだすと、勉強はものすごくおもしろくなる、ということだ。答えが知りたい、でもわからない。だから、答えの手がかりになりそうなことを、勉強していくしかない。関係なさそうな本や論文であっても、何かのヒントになればと読んでいく。それを繰り返していくうちに、バラバラの断片でしかなかった知識がだんだん自分のなかでまとまっていく(体系化していく)のだ。すると、バラバラだったときには見えなかったものが、見えてくる。新しい世界が、見えてくる。そのことが、どうにもおもしろいのだ。

 それからというもの、わたしは大学生のときに熱心に勉強しなかったことを、つくづく後悔するようになった。なぜ、もっと勉強しておかなかったのか。あのころに、他人から与えられる問題でなく、「自分の問題」を手に入れていれば、もっとおもしろく勉強できたのに。もっと早く新しい世界が開けていたのに。たとえ研究者にならなかったとしても、おもしろく勉強できること、新しい世界が開けることは、それだけで人生を豊かにしてくれるものではないか、と今のわたしは思っている。

 受験生のみなさん、そして大学生のみなさんのなかにも、かつてのわたしと同じ疑問をもっている人がいるのではないかと思う。
「受験勉強は何の役に立つのか?」「大学での勉強は何の役に立つのか?」と。
それは、少しこむずかしい言い方をすれば、不良設定問題というやつだ。「5は何色か?」と問うても、永遠に答えはでない。数字は色をもたないのだから。問い方がまちがっている(不良設定)なのである。

どうして勉強しなきゃいけないんだろう?
関西大学社会学部 マス・コミュニケーション学専攻 辻 大介




ここで辻が、語っていることは普遍的な話題だ。

あまりこのような発言が、取り上げられない理由は現下の「経済社会」が、辻のような発想の人格を優遇しないという現実があるからで、発言の中味に価値がないのではない。

昨晩、「脳は老化しない」という衝撃的な事実を伝えた。おかげさまで、このブログを熱心に読んでくださっている有意の方々から一斉に声があがった。世間で、けして話題にならずとも、またマスコミが騒がずとも真に語るべきこと、真に伝えざるをえないことは、自ずと語られ自ずと伝わって行く。

永遠に答えが出ない設問を解いているとき、人はもっとも快適になる。そのように脳は設定されている。あまりにそれが自然に、繰り替えず湯水のように実行されるので、それがトンでもない能力なのだという自覚がない。
たとえば、不良設定問題ではコンピューターなどでは絶対に解けない。「5は、何色か?」などというトンマな問いがそれだ。そんなトンマな問いにすら、真剣な問いであると思う人はなんとか答えをだしちまったりする。これは相当人間の高次機能にかかわっている。

バラバラの断片でしかなかった知識がだんだん自分のなかでまとまっていく(体系化していく)のだ。すると、バラバラだったときには見えなかったものが、見えてくる。新しい世界が、見えてくる。そのことが、どうにもおもしろいのだ。


杉山巡氏が、いまヘーゲル「精神現象学」を読んでいるという。


自分ならば、自分の精神現象学を書くことへの興味はあるが、過去の偉大な哲学者とはいえすでに陳腐な前提、歴史的制約の下にある「知見」を踏まえて展開された、いわば過去の不良設定問題への「アプローチ事例」に過ぎないものを、今いかに精緻に再現できえたとしてもそれを真顔で背負うなどということに多大な意味を感じない。

というのか、そういうものを感じたくないのである。

現代人の知覚には、現代人の知覚に固有の「不良設定問題」が存在する。それを解くことが、我々の歴史的な使命であって、我々の生きがいなのだ。

我々は、我々個々人にとっての指揮者である。


すみだトリフォニーホールで
開かれた小澤征爾指揮、新日本フィルの
ブラームス交響曲第2番のリハーサルを
見に行った。日本マーケティング協会の研究会
である。
 
 指揮者は、基本的に不良設定問題である。
 音のかかわること全てをコントロールできる
はずがない。それでも、指揮が成立しているというところが
面白い。
 
 小澤さんは、しきりに、「母音をもっと響かせて!」
などと言っていた。
 自分が感じている音のクオリアを言語化する
能力が必要なのだろう。
 しかも、それを、能動的にactionできるように
的確に伝える。
 茂木健一郎 クオリア日記





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最終更新日  2006年12月27日 00時29分21秒
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