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2008年01月02日
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1969年(昭和44年)1月2日に皇居新宮殿が完成してから初の(1963年以来の)皇居一般参拝で長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた(負傷せず)。これがきっかけとなって長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることとなった。犯人は映画ゆきゆきて、神軍の主人公奥崎謙三で暴行の現行犯で逮捕された。









高校2年の冬だったのだろうか。新年早々宮中参賀の群集の中から突如天皇にめがけてパチンコ玉を撃ち出した男がいた。映画「ゆきゆきて神軍」などでのちに話題になった奥崎謙三の、これはデビューとなる大事件だった。75年の三木首相の顔面殴打事件なども、大騒動だったと思うが、この頃の昭和天皇の存在は、今の時代の平成天皇のそれとは異なる格段のものであって到底今からその衝撃を再現して述べ得ないと思う。たしかに巷では、くちさがないオヤジらが屋台の席で昭和天皇を罵倒するなどを日常茶飯事としてみかけはした。しかし、その軽々しく語られる背後に、戦前の昭和天皇の途轍もない水圧を子供ながらに感じ取っていたものだ。20数年前、生きた神として君臨していた天皇裕仁の圧倒的な存在感は、格別なものだったからだ。

『ヤマザキ、天皇を撃て!』は、皇居の事件の3年後に出版されたがいずこの書店でも平積みで飛ぶように売れた。いまでこそ、奥崎という人物の奇矯さを取りざたする人も多いと思う。しかし、自分自身も当時学生のひとりとしてこの書物とその述べる処には強く衝撃を受けた記憶がある。世間は、戦争体験を直接耳にすることが少なくなりつつあり、「天皇の戦争責任」を雑誌の特集として取りざたされることがはばかられて少なくなりかけていた時代。そんな戦中体験が風化しかけているかとすら思われかけた潮目において、敗戦時外地で死地を乗り越えて帰国していた元復員兵がまさしく昭和天皇に対して直接糾弾の一矢を放つなどとは・・・



君死にたまふことことなかれ、
すめらみことは戦ひに、
おおみずからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大御心の深ければ、
もとよりいかで思されむ
(与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」)




これは分かる。この怒りは分かるとされた。教科書にもとりあげられて公的な認知になりつつある肉親の情としての張り裂ける思いは痛烈である。しかし、この憤怒と奥崎謙三のそれとは、さらに一層のおおきなジャンプがある。踏み込みがある。裕仁は、人間宣言を行いはしたが、しかしそれ故にいまだ「神」であることを改めて強いられた存在であった。裕仁は、戦後ふたたび少なからぬ規模の日本国民にとり、第二の「現人神」として隆起し始めていた。奥崎は、これを出合いがしらに痛撃した。奥崎は、昭和天皇を撃つと同時に、昭和天皇を戦後に延命せしめていた存在。すなわち沈殿しかけて沈黙しつつある戦争経験の固化を受け入れぬまま、おもちゃのパチンコ玉に万感を込めて。



奥崎謙三を80年代まじかで見たことがある。彼は、あの映画でも有名になった濃いグリーンの軽自動車で神戸市街を常時巡回していた。営業車両で何度彼のクルマを追い越したことだろう。彼は、そこで自分が姿をみかけた直後にも広島県大竹市へ。軍隊時代の上官宅を訪れた際、激情にかられてか応対に出た長男に拳銃を発砲し負傷させるなどという事件を起こしていた。(1983年)自分の80年代の茫洋とした心象からも、ふたたび引き戻されるほどの衝撃を受けたと申し上げざるを得ない。



1969年、パチンコ玉という突拍子も無い不似合いな小道具で、昭和天皇を「現人神」にすることを許さないという強い意思表示は、その対極にある三島由紀夫割腹自決事件とともに並列して昭和天皇最晩年の事件として長く語りつがれるのではないだろうか。






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最終更新日  2008年01月02日 23時39分17秒
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