カテゴリ:お山に雨が降りまして
読書家などという一群の人達は、だからかつては貧困の象徴のようにあまねく存在したという気がする。
今日では、組織的な必要によってテーマとスキルが同軸化していなければ集約度の高い読書生活など過ごしようが無いはずだ。漫然と知の世界を彷徨するというのは、一見優雅そうでいて実のところ人性の堕落のような気がする。人は、もっと生臭く野生味溢れて目的達成に心身知を稼動させるべき存在だ。その意味では、知のルートが書物しかないという時代には、全集単位の読書で自己啓蒙をはかるという発想は妥当だったと思う一方、この時代にそれをやるなど意味があるとは思えない。すでに社会は、わずか数十年で過剰なほど豊かになった。この豊かさに最適化された青年たちが、社会の貧困な時代の流儀で現下の切迫した課題解決を強いられれば、受け付けられないのは当然だ。 周囲の60代、70代のオヤジらが「最近の若いもんは本を読まない」などと言っているのを耳にするたびに、その連中の読書量の傾向性、偏向ぶり、恣意的なることに失笑せざるを得ない。彼らが軽侮している後輩の私がこれまで状況把握に、どれほどの規模の読書遍歴が関与しているのかを知れば驚くだろう。しかし、そんなものを殊更に彼らに対して言及するのも馬鹿らしい。すでにこの過激な変化の様相を示す21世紀の現在を分析するには、彼らオヤジの流儀はあまりにも体験主義的過ぎるのである。 一例を言おう。 すでに、世界は静かに恐慌を始動している。断然崩壊へ向かっていると確信するものだ。だが、その恐慌の姿かたちは既に過去のそれとは極めて違った形態を取っている。これをプロセッサー(PCを始めとする)の駆使により基本情報の取得、表現が読み解き、分析できてこその言論である。そんな言論は、「世界が1000人の村」であったとしても、1人いるや否やである。 吉野俊彦氏は、その著書の中で示唆している。(「昭和恐慌は再来するか 歴史派エコノミストの視角」ダイアモンド社)すでに政府与党の長老と呼ばれる連中ですら、昭和恐慌の経済政策を一切教訓としても持ち合わせず、研究職との接触や、知見にあたることすらしていないのだろう。ただの一人として、わが国の経済政策担当者、高級官僚らの中に恐慌を乗り切る経験値を持ち合わせている人間がいないのだ。この事は、最終的に日本国民が個別に思い知ることになるだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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