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2008年05月05日
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若松孝二監督の映画「実録連合赤軍」を観て、まだあの72年が思い返される。




映画の細部に、歴史改竄の可能性があるとという意見が読めたのも映画に触発されたからだ。映画だけに、あの時代の空気に立ち返って状況を想起しながら事件を再評価するというという責任をおっかぶせることは相当酷な話だ。一方、一連の連合赤軍事件の関連書籍や「光る雨」「突入」などの他作品を踏まえて事件を理解している新しい世代の関心が、どんどん奇形化して捉えられて行くのも避けがたく眺めていなければならない。



70年の三島由紀夫の市谷占拠事件以後、ジェットコースターに乗せられたような思いでいたあの時代、あれよあれよの間に有為転変。突飛きわまりない非日常的事件が続々と生じてゆく。その中でも、連合赤軍事件は、70年代冒頭にあって重苦しい気分を与えたという意味では骨頂だと記憶する。それらのひとつひとつが、一種のフラッシュバックのように蘇ってくる。それを最後には見事に都市部の住民の関心から消えて行った。



なんど思い返しても、溶解しない釈然としないものを考え続ける。



従兄が、板東国男と同年で同じ滋賀の公立高校の卒業だ。社会正義についての鋭敏さは、いわずもがなの反米気分のエネルギーを起源として生じたものだと推量する。時代が共有していた反米視点が、みごとに左翼陣営に吸い寄せられて怪しまれなかった状況に起きた「悲劇」だという気がする。

日本を特異に植民地化して躊躇しない親米政権に対する拭い難い違和感。これを根こそぎ毛沢東=林彪派やらソビエトロシア同伴者らに委ねてしまったかのようだ。ベトナム反戦に志した連中たちが、日常経験したことがないような暴力と殺伐としたリンチに走るという不条理。この幻術か魔法使いのワザのような不思議な世代体験は、われわれの年代がぜひとも解き明かさなければならない謎のような気がする。



「まあちゃん、聞こえますか。牟田さんを返しなさい。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの。普通の凶悪犯と違うところを見せて頂戴。武器を捨てて出て来て。それが、本当の勇気なのよ」(吉野淑子)

「昨日、ニクソンが中国に行ったのよ。社会は変わったのです。銃を捨てて出てきなさい。森さんたちも捕まったけど無傷だった。出てきなさい。牟田さんの奥さん、元気ですか、何とお詫びしてよいか・・・」(吉野淑子)

中国とアメリカが握手したのよ。あんたたちが言っていたような時代が来たのよ。あんたたちの任務は終わったのよ。人を傷つけるのは愚かなことです。鉄砲撃つなら私を撃っておくれ。早く出てらっしゃい」(板東芳子)

「お母さんは、おまえを生きがいにして今日まで一生懸命働いてきたのよ。人を傷つけることは愚かなことです。鉄砲を撃つならば私を撃っておくれ。早く出てきてお母さんと一緒にあたたかいご飯を食べようよ。あんたたちのことはみんな認めている・・・警察にも立派な人がいます。二枚舌はつかうことわない。警察の人が撃たないと約束したのよ。早く出てきなさい」
(板東芳子)









1972年2月28日
午前11時、板東国男、警視庁第二機動部隊長 内田尚孝警視を射殺。
午後6時、逮捕。
同日、板東の父親であった板東基信が滋賀県大津市で自殺。




28日は、日本国民の大多数がテレビに釘付けという事態にあった。
自分も、伏見区のアパートで終日この事態を注視していた記憶がある。
彼らの母親の呼びかけの記憶もかすかにある。
当時は、まるでその言葉に質実を感じなかったのはなぜだろう。












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最終更新日  2008年05月05日 23時18分30秒
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