3078862 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

新発想ビジネスヒントフォーラムWEB2.0

新発想ビジネスヒントフォーラムWEB2.0

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2018年10月11日
XML
カテゴリ:【御勉強】





以下を備忘録として。

----------------------引用---------------------

メモ  》

朝鮮窒素肥料の幹部だったのが、佐々淳行(警視正)の義父(妻の朝香幸子の父親)の朝香三郎でした。

佐々淳行の実父の佐々弘雄は、近衛文麿(内閣総理大臣)内閣の政策研究会(実質はゾルゲ諜報団の下部組織)である朝食会(朝飯会)の主要メンバーだった。



朝鮮窒素肥料の興南工場に、若かりし日の文鮮明がいて、そこで、朝鮮窒素肥料の社員とその家族を洗脳していったことです。
文鮮明の経歴には、1948年5月に興南刑務所に移送、と書いてありますが、興南には刑務所は無く、文鮮明がいたのは、単なる朝鮮窒素肥料の興南工場だったことは、明白です。

水俣病加害企業チッソの全身にあたる日本窒素肥料の朝鮮半島での子会社の朝鮮窒素肥料は、咸鏡南道興南(現在の北朝鮮の咸興市)で核実験をしていたそうです。
第二次世界大戦後、金親子(金日成・金正日)が、その核実験資料を引き継いだ可能性は高いです。

メモ 》

水俣病加害企業チッソ
龍谷大学教授のアウン・サン・スー・チー女史支援団に顔を連ねる大津定美夫婦を”オールドボルシェビキ”と呼ぶのは連合滋賀の旧社青同協会派の活動家OBさんたち。


その大津定美の弟子が、前滋賀県知事であり福井の緑の党を代表する顔で福井市議経験者の山崎隆敏であり、京都にあってはアイリーンスミス美緒子でありする。


ちなみにアイリーンスミス美緒子のかつての配偶者が京都精華大学元教授の中尾ハジメ。中尾の本名が片桐片桐充。
そして片桐ついでに実兄がフロイト左派のwライヒ翻訳でも識られる片桐ユヅル京都精華大学名誉教授。



フロイト左派って実態はトロツキスト国際共産主義のカバーイデオロギーですから。
これらある年代の視点からすれば、イロハのい。

いうまでもなく彼らのケツ持ちに鶴見俊輔がいた。

鶴見俊輔の両親は父が祐輔第1次鳩山一郎内閣厚生大臣。
母・愛子は後藤新平の娘。

父鶴見祐輔は後藤新平が初代総裁を務めていた鉄道院に奉職、政治家に転じては満州事変を鼓舞する論客として新自由主義者を標榜した先駆的存在。

なんのことはない鶴見俊輔は、満州国利権のど真ん中の人脈に生まれ育った不良少年でしたかね。

どうりで革マルの殺人犯をへっちゃらでキャリアロンダリングさせるためにアメリカに送り込み、明治学院大の教授として芸名に辻信一を名乗らせるなんてな真似をしてくれる。

明治学院大学は、象徴天皇制傀儡政権構想起案者エドウィン・ライシャワー駐日大使ゆかりの拠点大学。







鶴見俊輔の実姉が今上の配偶者美智子皇后が師事してお忍びで葬儀に参列したというあの鶴見和子でした。












メモ  》

佐々弘雄は、朝食会(朝飯会)の主要メンバーだったことから、近衛文麿の首相秘書(書生という説もある)を務めた大物右翼の四元義隆とは親友でしたが、四元義隆とは同郷の同志であり、四元義隆と共に同じ血盟団(金鶏学院だったという説も有り)のメンバーだったのが、重信末夫という男。

佐々弘雄と重信末夫の2人が、四元義隆を通して親友だった可能性はものすごく高いのですが、重信末夫の娘は、極左集団の赤軍派から、極左団体の日本赤軍の女首領になった重信房子。

重信房子の所属した赤軍派が革命左派と合流して生まれた左翼暴力組織の連合赤軍が、佐々淳行が捜査を指揮した あさま山荘事件を起こしたテロリスト集団です。あさま山荘事件はヤラセです。

あさま山荘事件が起こるはるか前から、佐々淳行と重信房子はお仲間だった可能性が高い。


メモ  》

赤軍派からは、よど号犯グループも派生して誕生していますが、どちらも、赤軍派の分派であることから、よど号犯グループと重信房子の日本赤軍は同盟関係にありました。よど号犯グループが、金親子(金日成・金正日)の手足となって、オウム事件で暗躍していた可能性は高い。




メモ 》


佐々淳行氏といえば、警察官僚として、東大安田講堂、よど号ハイジャック、あさま山荘事件など多くの公安事件を指揮した後、初代内閣安全保障室長に就任した「危機管理のプロ」。退官後も評論家として精力的にテレビ出演や執筆、講演などで危機管理の必要性を訴えてきた。

 もちろんその思想はバリバリのタカ派で、集団的自衛権、安保法制にも大賛成の立場。今年8月、櫻井よしこや田久保忠衛など保守論客が安保推進のために設立した「平和安全法制の早期成立を求める国民フォーラム」にも、この呼びかけ人の一人として名を連ねている。

 しかも、思想だけでなくその態度も元警察官僚丸出しの居丈高なもの。討論番組では、反対意見を「危機管理がわかってない!」と恫喝し、黙らせるシーンもしばしば見られた。

 ところが、そんなコワモテの「危機管理のプロ」に反旗を翻した人物がいる。それが佐々氏と50年間連れ添った妻・佐々幸子さんだ。

「夫・佐々淳行との別居で私は命を吹き返した」

 幸子夫人は「婦人公論」(中央公論新社)10月27日号で、こんなタイトルの衝撃的告白をしているのだ。一体どういうことか。

 手記によると、幸子夫人は佐々氏との夫婦生活で相当な抑圧を受けてきたらしい。

「"奥方"である私は家を守り、世継ぎを生み育て、義母の面倒を見るのが当たり前。『男の仕事や生き方に口を出すのはけしからん』『側室くらい大目にみろ』という考えの持ち主(笑)。そういう夫の価値観に、私はずっとマインドコントロールされていたんだなって、最近よく考えます」

 もちろん、家事も一切しなかった。

「食べたい時に用意がないと、代わりにお菓子をどんどん食べます。作り置きした食事を電子レンジでチンすることも、最後まで覚えられなかったくらいです」

 佐々氏には3人の子供がいるが、父親としても「欠陥だらけ」だったようだ。たとえば、幼い息子3人が朝食時にワイワイ騒いでいると、朝寝をしていた佐々氏は突然起き上がり、お前たちは贅沢だと食パン1枚とコップ1杯を分けて1日を生きろと言い出したこともあったという。

「夫は『怒りじゃない、教育だ』と言うけれど、要するに朝寝を邪魔されて腹を立てているだけ。でも私が『3人で食パン1枚なんて無理です』と子どもをかばったら、火に油を注ぐようなもの。頼りない母親だったと申し訳なく思っています」

 その結果、息子たちは佐々氏を疎んじ、独立して家を出た後は、めったに会うこともなくなったという。

 そんな佐々氏だが、数年前、持病の心臓病に加え、脊柱管狭窄症と糖尿病を発症し歩行が不自由になった。
家の中での移動も幸子さんの助けが必要となった佐々氏の介護は当時70歳だった幸子さんにとっては相当の激務だ。
しかも、幸子さんは佐々氏の個人事務所社長でもあり、仕事のサポートもやらなくてはならない。介護と仕事のサポートで心身が疲弊した幸子さんは昔感染したC型肝炎の症状が悪化してしまったという。
そこに追い打ちをかけるような事態が幸子さんを襲った。

「さらにちょうどその頃、夫による私への"非常に思いやりのない行為"が明らかになりました。今までも彼の"ビョーキ"や"ご趣味"はさんざん我慢してきたけれど、また裏切られた。
仕事でも介護でも、私はこんなに頑張ってるのに、なぜ......と、ひどくがっくりきてしまったのです」

 その裏切り行為が何であるかは語ってはいないが、どうやら佐々氏の女性関係らしい。幸子さんは家を出ることを決意するが、しかし佐々氏は自分がホームに行き、妻は家で静養してほしいと提案したという。
ところが、それは妻を慮ってのことではなかった。

「頭の中がまるっきり封建時代なものだから、『一国一城の主が城を明け渡すなどもってのほか』(略)。家を手放すなんてありえないのです」

 ようするに自分がホームに行く代わりに妻に家に残ってそれを守れ、というものだった。

 しかしホームで生活を始めた佐々氏は、相変わらず妻なしでは暮らせなかった。
幸子さんのもとにはひっきりなしに電話がかかり、「今日は僕、何を観たらいいの」(糖尿病でテレビ欄が見られないため)などと聞いてくるのだという。

 ただ、それでも、幸子夫人にとっては、以前よりもはるかに自由で、解放された日々らしい。

「一人暮らしをするようになって、好きな時間に出かけたり、読書を楽しんだりできるのが嬉しいです」 

 そして、いかに自分が佐々氏にマインドコントロールされ、抑圧されてきたかに気がついた幸子夫人は、メディアで、積年の恨みを吐露したということらしい。

 84歳という高齢の佐々氏には酷かもしれないが、しかしこれは妻に対して横暴の限りを尽くしてきた報いとも言えるものだ。
日本の危機管理を声高に訴えてきた佐々氏だったが、最も身近であり守るべき家庭の危機管理さえ全く出来ていなかったということなのだろう。
(林グンマ)



​メモ  》

キャリアとノンキャリア、日本の公務員には二つの「階級」があります。
 公平と平等を推し進めているはずのこの国で、厳然たる「社会階層」が存在するのです。
 そして現代のこの制度は、戦後まもなく民主国家アメリカの黙認の元に誕生し、いまもなおその精神は生きています。
 「フロスト日和」と対比してみると、それはそれで面白いと思いますよ。

 さて、1954年10月1日、佐々警部補は最初の勤務地、警視庁・目黒警察署の門をくぐります。すでに中野警察学校で学び、愛宕警察署で指導巡査付きで巡査見習いも数週間のあいだ経験していますが、本格的な警官としての勤務はここが初めて。
 警察の人事のややこしさなのですが、佐々氏は国家公務員・警察庁警部補であったのに、辞表も出していないのに「辞職を承認」され、即日、警視庁警部補に任ぜられ、警察三級職三号俸(月額1万8百円)を給せられる警視庁・目黒警察署勤務の地方公務員となりました。
 挨拶したのは、署長不在のため、次席の警部。
 さっそくノンキャリアの洗礼を受けます。

 「君は普通の警察官が警部補になるのに、一体何年かかるか、知っとるか?」
 「知りません」
 「七年かかるんだ、七年。それを君は一年でなったんだから、ひとの七倍働け」
 冗談言っているのかな、冗談だったら私も一緒に笑おうと思って次席警部の顔を見ると、そこにはユーモアのかけらもなく、ノン・キャリアの"高文"キャリア組に対する昔年のコンプレックスが警部の制服を着て立っている。

 これが噂の "レッド・パージ" か。

 レッド・パージと言っても共産党がらみのことではない、東京大学(赤門)追放のこと。
 GHQの占領政策では、日本の警察幹部は、アメリカと同じくパトロール警官からのたたき上げであるべきだ、とされ、「国家公務員上級職試験」による有資格者を幹部候補生として採用することを禁じました。
 また、アメリカと同じく中央集権を行わず、地方分権化された警察機構を持つように制度を改められたのです。
 しかし、日本にはこれがうまくなじみませんでした。
 犯罪捜査は著しく非効率的になり、地方との癒着と言う弊害も出て混乱します。特に東京、大阪などの大都市の警察機構は、国家の方針を無視して「軍閥化」していったのです。
 ここでついに、時の政府は重大な決意を持って警察制度を再び改め、
 「国家公安委員会」-「警察庁」-「都道府県公安委員会」-「都道府県警察」
と連なる「中央集権的」警察制度を確立しました。「警視庁」とは、東京都の警察であって日本全体の警察ではない、と言うことは、意外に知られていないようです。
 この制度を補完するために、監督官庁たる警察庁に勤務するキャリア警察官もまた制度化され、佐々氏はその第二期生として勤務にあたったわけです。

 さて、そんな歴史のため、佐々氏の勤務は平穏無事とはいきません。
 「粘つくような視線」と形容する注目の中、勤務が始まります。
 署長である志村警視(なぜか次席以外はみな名前付ですな)のクールな監督の下、外勤の班を任された彼は、のちの張り切り護民官の萌芽を見せてくれます。
 任された第三班の成績を上げるべくがんばったり、柔道、剣道などに負けず嫌いを発揮したり。
 しかしどうも次席さんと相性が悪い。ほかの署員はみな名前で呼んでいるのに、最後まで「次席」でした。本当のノンフィクションを強調したいのでしょうな?(笑)

 作者自身の書いたイラストがついています。なかなかこれが楽しい。一番いい男がご本人なのが、笑えます。

 良いときも悪いときもありますが、佐々警部補は淡々とユーモラスに語り尽くします。最後は屈辱と、怒りを腹に収め、頭を上げて次の勤務地へむかいます。

 こうしてパトロール主任としての任務は終わりを告げた。
 そして、それは、その後三十五年に及ぶ長い公務員生活の人生航路で、警察大学校での訓練期間を除いても合計二十八回に達する転勤や配置換え、すなわち、名前も顔も知らない上司・同僚・部下と初めて出会い、その人たちとようやく親しくなった頃、その人たちに別れを告げて、また未知の人間環境に投入されるという、いわば役人にとって宿命的なライフサイクルの、始まりであり、初めの終わりでもあった。

 帆船小説などのパターンに似ているような気がします。こんな人生もあり、か。   (05/4/2)

昭和44年1月、日本の最高学府たる東京大学は、火炎瓶と、暴徒と化した学生と、シュプレヒコールと、機動隊と、催涙ガスの中にありました。
 今の時代の若者には考えられないような、恐ろしい、不可思議な、異様な、そして熱気にあふれた時代がそこにあったのです。

 佐々淳行は、当時の争乱の当事者、しかも「東大出身のキャリア官僚」でありながら学生を「鎮圧」する立場で、この争乱の歴史を見せてくれます。

 1950年、日米安全保障条約が締結されました。この条約は、戦後に軍事的には骨抜きとされた日本という国家に対して、さまざまな矛盾を突きつける第一歩となったのでした。純粋に平和国家として戦争を放棄した日本国憲法に対してでも、この条約が相互の安全保障である限り、国防と軍事プレゼンスは避けられず、アメリカの軍事圏、いわゆる「核の傘」に入らざるを得ないことは明白です。
 にもかかわらず、この、事実をありのままに認識するという、人生においてごく当たり前に行われるべきことが、行われない世界が日本にはありました。
 建前と理想論だけで、世の中を律していけると考えた人々。
 それは、教育とマスコミという、国権の第四、第五の勢力だったのです。

 1960年の、安保条約改正が近づくにつれ、現実離れした理想論の高まりの中で、ついに暴力による反国家争乱が発生します。その一つのピークになったのが、東京大学の占拠でした。
 そしてそれは、決して純粋な若者の思いだけで起きたのではない。
 能書きだけの空理空論、ずさんな経理、教育の意義をはき違えたカリキュラム。
 平和を唱えるものを善とし、争乱を鎮め国民を守るものたちを悪魔呼ばわりしながら、都合のいいときは利用する甘ったれた大人たち。

 昭和43年(1968年)11月1日付で、佐々淳行は「警視庁警備第一課長」の辞令を受けます。秦野章警視総監の強い希望で決まった人事で、なんと佐々氏は前任者より年次が上。通常のキャリア人事では考えられない乱暴な人事となります。
 著者は、文章では自嘲するばかりでまったく自慢めいたことも言いませんが、心に期するものはあったのでしょう。香港領事の時もそうだったようにトラブルシューターとしての期待とチャンスに武者震いしたのではなかろうか。

 現代、機動隊の象徴でもあるジュラルミンの盾、催涙ガス弾。これらは市民と犯人と警察官を守り、一分でも早く争乱を鎮めることを目的として、佐々警備一課長の時代に確立したものだそうです。

 そして、東大安田講堂は占拠され、72時間後に、機動隊によって排除されました。
 ひとつの時代が終わりました。
 これ以後、学生運動は小さくなると共に先鋭化し、再び大きなピークを迎え、沈静化します。
 そのピーク、浅間山荘にも、佐々氏の姿はありました。

 明日にも機動隊の最後の「城攻め」が行われるであろう夜、1969年1月15日、大講堂備え付けのグランド・ピアノを弾く女子学生がいたそうです。
 拙い指で、静かなクラシックを弾いた後、やがて曲は「インターナショナル」に代わり、そっと終わる。
 このピアノは、バリケードとして使われ、無惨な残骸となって発見されました。

 佐々氏の筆は、こんな歴史を語ってくれました。
 日本はこんな時代をくぐってきたのです。
 末尾に、早坂茂三氏が、小気味よい後書きを載せています。      (05/4/2)




佐々氏が、警部補という階級で警察の現場に立った「パトロール日記」第二弾です。
 外勤第三班主任から捜査係主任に配置換えになったところから始まります。昭和30(1955)年1月のこと。

 現場たたき上げの刑事たちの中で、彼らより高い階級で「パラシュート降下」していきなり上司となった佐々氏、精神的にも重圧に耐えなくてはいけません。ベテランの「下士官・兵」の中の「新米の士官候補生」といったところ。新参の管理職の苦労ですね。
 最初はおずおずと縮こまっていた佐々氏も、やがて現場の雰囲気になれてくるにつれ、持ち前の負けん気でがんばりはじめます。いろいろな事件があります。

 公務中に犯人に頭を殴られたことが原因で殉職した巡査の話から始まり、日本に駐留する英連邦軍の兵士の取り調べを英語で流暢に裁いたことで、捜査部屋の刑事たちの信頼を集めます。
 英陸軍は英海・空軍と違って手のひらを相手に向ける敬礼をすることとか、佐々氏の英語の勉強履歴とか、ちょっと自慢混じりの横道が楽しい。もはや占領時代ではないという新しい日本人としての誇ですかね。
 少年たちによる強/姦事件、選挙違反、美人女優宅を放火した前科七犯男、インド女王らしき被害者の言う3万ドルの窃盗事件。
 時代を背景にしたさまざまな事件が語られます。
 本当にあれほど快刀乱麻の活躍ができたのかなぁなどと、ちょっと考えてしまいますが、痛快ですね。

 いろいろなことを学び、慣れてきたところで配置換えです。昭和30年4月6日付。今度は本庁の刑事資料室だとか。
 東京中の警察署からの刑法や刑事訴訟法などの問い合わせが殺到する修羅場の部署だそうな。
 新しい職場絵の不安と共に、昭和29年10月1日以来の目黒署からの旅立ちです。

美人女優と前科七犯 カツ丼の値段とか、警察官の俸給とか、殉職した警官への弔慰金とか、背広の仕立て価格とか、細かいたくさんの数字が、一つ一つのエピソードを生き生きとさせます。これらはみな、佐々氏がメモしておいた手帳から抜き書きだそうな。メモ魔の本領発揮ですね。

 巻末に、伊丹十三氏が筆者をインタビューした記事が16ページにわたって掲載されています。佐々氏の本の話、警官勤務時代の話、国家権力の話。
 上手くかみ合ったインタビューの面白さですね。
 この対談を執筆したあと、これを絶筆として伊丹氏は自殺されました。
 1997年12月20日のことでした。
 訃報を聞いたのは、佐々氏がこの本のゲラを校了した直後だったとのこと。しばらくなにもできなかったとか。
 人の運命とは、わからないもの。それもまた、人生。



 (07/5/30)
--------------------------------

 1960年代の日本は、インテリ階層の若者の、徐々に高まる動乱の時代でした。
 64年(昭和39年)に日共系全学連再建大会が開催され、慶応、早稲田、明治、日本、そして東京大学と、次々に学生運動が高まりを見せます。この流れは、69年(昭和44年)の東京大学安田講堂占拠事件で一つの山場を迎えます。しかしこの後、学生運動は先鋭化し、過激になります。
 何か原因があるのでしょうか。その世代ではないぼくには本当の気持ちはわかりません。
 おそらく、こうだったのではないでしょうか。
 自由というとりとめのない新しい概念を与えられ、なおかつ東西対決という新たなパラダイムの変化の中で、新たな規律と権威に臣従することを要求された、新しい世代の彼らの、とまどいとあがき、自己主張と試行錯誤だったのではないでしょうか。それらの鬱積は、ターゲットを10年ごとに更新される日米安全保障条約におきました。そう、世に言う70年安保闘争です。

 この学生運動が終末を迎えたとき、いや正確に言うと治安維持の警察機構によって制圧、あるいは鎮圧させられたとき、先鋭化した学生たち、というより革命家、いやもっと正しく言うとテロリストたちは、1972年(昭和47年)2月、逃走と自己分裂と粛正の果てに、長野県軽井沢の別荘地、「あさま山荘」に立てこもりました。

 佐々淳行氏は、当時、「警備局付警務局監察官」という奇妙な肩書きの「何でも屋」でした。あさま山荘に過激派が立てこもった一報を聞いたときは、事務仕事の山に埋もれていました。さっそくにトラブルシューターの血が騒ぎ、というより半ばお節介で、長野県警への警視庁の応援や警備体制などについて口を出し始めます。
 そこへ誰かが叫ぶ。「局付、長官がお呼びです」
 長官とは、当時の後藤田正晴警察庁長官、つまり、日本全国の警察の最高責任者。
 ふっとんで長官室のドアを開けると、富田朝彦警備局長と共に長官が難しい顔で座っています。
 「ああ、佐々君、あのなあ、野中君はなあ、こういう警備、やったことないでなあ。君、ちょっと軽井沢行って、指揮してこいや」
 そんな無茶な。

 紆余曲折の末、単なる警視正である佐々淳行氏は、警備局参事官である丸山昂警視監の指揮するコンバット・チームの一員として長野に向かいます。長野県警より県警機動隊、警視庁より第九機動隊、のちに第二機動隊も参加します。

 これは、この「戦争」を見届け、時には後方で歯ぎしりし、時には最前線で銃弾を浴びながら参加した佐々氏の手記です。
 内容的には、佐々氏の視点でしか語られず、誇張、記憶違いなど、いろいろ瑕瑾もあるそうです。
 しかし、長野へ行ってこいとの命令を受け、自室に戻って進退伺いと遺書を書き殴り、帰宅していつ病院へかつぎ込まれてもいいように真新しい下着をバッグに詰め込み、寝ている子供の寝顔を見て家を出た作者の、戦う男の心意気は、買うべきかと思います。
 佐々淳行氏、41歳の冬でした。

 この事件を元に、2002年「突入せよ! あさま山荘事件」という題名で映画が作られました。ご本人も出ておられます。

 この年齢の時、佐々氏が愛読する英国軍人ホレイショ・ホーンブロワーは、戦隊司令官の職にある正規艦長であり、ナポレオン戦争の終結後の無聊をかこって、妻との不仲をなんとか解消しつつある時期でした(笑)。 (06/1/12)



メモ引用元:
S072 佐々敦行
http://tetsutaro.in.coocan.jp/Writer/S/S072.html​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2018年10月12日 10時04分47秒
コメント(0) | コメントを書く
[【御勉強】] カテゴリの最新記事


PR

プロフィール

シャルドネ。

シャルドネ。

バックナンバー

コメント新着

フリーページ

サイド自由欄

設定されていません。

カレンダー

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X