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2021年06月26日
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渡辺安次は、先任参謀・黒島亀人、渉外参謀・藤井茂、機関参謀・磯部太郎、従兵長・近江兵治郎だけが参加した戦艦「武蔵」での通夜で「同乗者達は長官を火災から守るため、機内で自ら盾になった。長官は無事脱出したが、捕虜になることを恐れて拳銃で自決した」と語っている。遺体はラバウルで火葬に付され、木箱の底にパパイヤの葉を敷いた骨箱におさめられた。遺骨はトラック諸島に一旦運ばれて、その後内地に帰還する戦艦「武蔵」によって日本本土に運ばれた。遺族には4月20日夕刻に海軍大臣・嶋田繁太郎と秘書官・麻生孝雄が戦死を告げている。山本の遺体を火葬した際の灰は、ブイン基地の滑走路隅に埋められ、パパイヤの木が植えられた。公式には、遺骨は郷里長岡と多磨霊園に分骨されているが、河合千代子の元にも分骨されて内輪だけの告別式を行っている。

連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、山本を「連合国との戦争に反対し、開戦となると真珠湾攻撃で大成功をおさめた。ソロモン群島での日本側の作戦を全般的に指揮し、日本海軍のおこなった戦争努力の戦略的頭脳と一般にみなされていた」と評している。辻政信陸軍大佐は、山本について「名実ともに元帥だった」と述べている。愛人の河合千代子によれば「姿勢が良く、柔軟性があり、一旦決めると考えを変えない。社交にたけ、国際感覚に富んでいた」という。

山本は博打が好きで腕もよく、特にポーカーやブリッジに強かった。山本は「博打は一ドルなら一ドル出して自分の言葉に責任をもつこと」「博打をしないような男はろくな者じゃない」「2年ほどヨーロッパで遊べば、戦艦1-2隻の金はつくれる」「私欲を挟まない。科学的数学的でなければならない。冷静に観察し、計測すれば必ず勝つ機会が判る」と語っている。山本は「予備役になったらモナコに住み、ルーレットで世界の閑人の金を巻き上げてやる」と語ったこともあり、モナコではカジノ協会からあまりに勝ちすぎるため出入り禁止令を受けたという。今村均陸軍大将によれば、山本とは中佐・少佐時代に友人の家でトランプ遊びをした時以来の知己であり、毎週末に山本、今村、安達二十三陸軍中将らの家でポーカーが開かれていたという。海軍次官時代に副官を務めた横山一郎は「山本のブリッジはブラフ(はったり)が多い。堅実にやったら必ず勝てた。山本のブラフと僕の合理的な方法なら、僕が勝つ」と述べている。1933年(昭和8年)発行「非常時国民全集・海軍篇」(中央公論社)でも第一航空戦隊司令官山本五十六少将の博打好きが紹介されている。

酒を飲まなかったが、甘いものが好物で、夜食に汁粉が出ると喜んだ。副官は「虎屋の羊羹を切らさぬように」と近江に注意をしている。山本の同期生嶋田繁太郎大将も「長門」を訪れた際に大量の「虎屋の羊羹」を土産に持参した。あめ最中も好物としており、新潟市白山駅の「渡辺あめや」には礼状が飾ってある。日本では柿、南方ではパパイヤを好物とし、「大和」の冷蔵庫にはパパイヤが山のように保存されていた。水饅頭が大好物であった。ただし、これはくず粉を用いて作った透明の生地で餡を包んだ夏季の生菓子の水饅頭ではなく、酒饅頭を冷水で浸したものに砂糖を掛けたものであった。

非常にお洒落な人物であり、大切にしていた特製のサージの軍服は、逆光で青色に光った。毎日5足以上の靴を磨かせて並べて履き替えていたが、靴の中が熱くなるのを嫌っていたからであった。従兵長達が山本のために精一杯豪華な食事を用意し続けたため窮屈な軍艦内部の生活が原因で運動不足になり、高血圧か脚気になった可能性がある。山本は1942年末-1943年にかけて手足のしびれ・むくみを訴えたため古賀峯一大将が心配している。女性に対して細やかな気配りを見せ、得意の逆立ちで宴席の場を盛り上げる等、花柳界ではかなりの人気者だった。その一方で山本は下戸であり、一説によると彼の徳利には番茶が入っていた。連合艦隊旗艦「長門」艦長・大西新蔵は、宴会で専用の徳利から酌をされる山本を目撃している。海軍将校間の宴会では無口だった山本だが、拳骨の腹に徳利を吸いつけて酌をする隠し芸を披露した。

他人に揮毫を頼まれた時は「常在戦場」と好んで書いている。この言葉は、故郷旧長岡藩の藩是である。「号」は「兜城」(長岡城の別名)、のちに「長稜」(長岡の雅名)を使った。戦前、山本は「支那の夜」(渡辺はま子)という流行曲を気に入り、昼食時に軍楽隊に演奏させていた。逆立ちが得意で「アメリカ行きの船の中で催されたパーティーで、階段の手摺の上で逆立ちを披露した。続いて皿回しを披露して乗客を唸らせた」「妙義山頂の岩の上や加治川急流下りの舟の舳先などで逆立ちを行い、皆がハラハラする様を楽しんだ」といった話が伝えられている。河合千代子不在の折に妾宅を訪れ、山本とは面識のない千代子の兄が留守番をしている前で、逆立ちをし、屁をひとつひって、「これでも海軍大佐だ」と自己紹介した事がある。












山本五十六は、昭和5年(1930年)ごろに、何かの送別会で河合千代子と出会う。昭和9年(1934年)9月、山本五十六がロンドンの軍縮会議に参加する直前に二人は結ばれたそうだ。それから8年ほど二人は愛人関係にあった。

山本五十六は河合千代子よりも20歳ほど年上である。50男が芸者にうつつを抜かしている。それは、戦争が始まり国難の時でさえも、彼女からの手紙が彼の唯一の慰めであったようだ。

彼女宛の手紙には、「世界中で一番心配したり喜んで呉れる千代子様」とある。ミッドウエー海戦の前には、彼女宛に、「私は国家のため、最後の御奉公に精魂を傾けます。その上は、万事を放擲して、世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。」そして「うつし絵に 口づけをしつつ幾たびか 千代子と呼びてけふも暮しつ」という歌を送っている。

さて、この本の著者の半藤一利は山本五十六のこの恋に対して、手厳しい評価をしている。「山本贔屓のわたくしにも、恋文にかんする限り唖然とさせられる。」「国家の興亡を賭した戦争の全指揮をとる現場の長として、しばしば夢かうつつかの境にあるとは、重い責任の放棄」(p.411)と述べている。

山本五十六は妻との関係は冷え切っていたようだ。映画『山本五十六』では、役所広司が演じる山本五十六が出陣の時に、恩賜の銀時計を妻に渡しているが、これは本当は河合千代子に渡したもののようだ。

山本五十六戦死ののちは、軍から、彼女は山本五十六からの恋文を提出するように言われ、恩賜の銀時計と共に提出している。しかし、彼女は大切な手紙の幾つかは自分の手元に置いたのである。











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最終更新日  2023年05月02日 09時20分02秒
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