読書について
何も本を読むことだけが読書とは限らない。人の表情読む。周囲の環境を読む。風景を読む。今日の高3の英語読解が「子供の読書力の発達」というもの。読書力の発達には7つの時期があって、7,8歳までは「reading readiness」の時期だそうで、第4番目までの説明があったが、自分のことを振り返ってみれば、本を読み始めた時期は大変遅かった。中学生の頃は、休み時間はグラウンドに出て遊ぶものだと思い込んでいたので、同級生の一人が、たとえば志賀直哉や武者小路実篤や島崎藤村の本を読んでいるのをみたとき、「なんて根暗な奴だ」と無意識のうちに思い込んでいるような中学生だった。なんだか忌まわしいものを見たような感じを持ったものである。だから、ぼくは読書らしい読書はほとんどしたことがなかった。高校の1年の頃、やはり休み時間に、誰かの机の上に文庫本が1冊おいてあるのを見て、何気なく手にとって読んでみた。夏目漱石の「それから」だったか「三四郎」だったか忘れたが、1,2ページよんでみたら、そのまま、スーッと入り込めた。そして誰のかもかまわず、その本を家に持ち帰ってその日のうちに最後まで読んだ。面白いから部活仲間に勧めたら、6,7人が同じように最後まで読んで共感できた。みな本とは縁の無さそうな奴らだったが。中学生のときに感じた、根暗とか忌まわしいとかといった感情はそのときは不思議と湧いてこなかった。その後、漱石の本を何冊か同級生から借りて読み出した。多分これが始めての本格的な読書だったかと思う。中学生と高校1年では最大で4年間の時間の開きがあるが、中高は連続していて、隔たりはそれほどないと言えばいえる。が、思春期の1年は相当濃密なものであるに違いない。だから、根暗と感じたことを受け入れるだけの精神構造がいつの間にか作られていたのだろう。今日はどうして読書について話しているかというと、今日の英語の授業も影響あるが、ちょくちょくお邪魔している、著名ブロガーのブログに感染したからである。そのブロガー先生のお住まいになる黒磯市が、まったく見知らぬ土地ではなく、ウチの細君の姉が住んでいるし、隣の大田原にも義理兄が住んでいるから、勝手に馴染みがあるように思っているんである。その先生が決定的な影響力のあった本に、異邦人、地下室の手記、赤と黒をあげているのをみて、いい本は年代に関係なく同じ影響力を持つものだと感じたしだいである。ぼくのほうが大分年上だけれど。本は確かに、いつ読むかが重要な問題だと思う。上の3作品は読んだのは18歳から20歳くらいだった。赤と黒は相当なページだったけれど、一気呵成に読んだものだから、最後の頃は眼がかすんで見えなくなったことを記憶している。あと、ぼくに決定的だったものを付け加えれば、「退屈な話」「山の音」「泥棒日記」「嘔吐」悪い方向に影響した。(笑い)