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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2004.10.26
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カテゴリ:ヒラカワの見方
組織のエートス

多様性を認め、百花を咲かせよ
(OECDミルシュタイン委員会報告書)[注1]


■見えない資産
 ベンチャー起業を立ち上げてゆくプロセスで、最も重要な課題の1つは、創業者ひとりのアイデアをチームのアイデアに変えてゆくということである。つまりは、「組織」を生成してゆくプロセスこそが、スタートアップ企業が、企業として成長してゆくための中心的な課題であるといえる。実はこれはそう簡単なことではない。
 会社を作ることは、幾ばくかの自己資本と事務手続さえ踏めば誰にでもできる。会社を運転していくための資金の確保、商品の開発、顧客の開拓といった基本動作は、いわば会社を立ち上げるための必要条件であって、これだけで会社が回っていくわけではない。創業者にとって会社を作ることは、個人的な欲望や、アイデア、技術といったものを社会化させてゆくための装置づくりであって、目的ではない。最初のアポリア(難関)は、会社の初期的な成長の過程で、社員という「他者」を導き入れるところから始まる。社員は、創業メンバーとは異なる個人的なモチーフを胸に、会社のメンバーとなる。社員という「他者」の迎え入れこそが、スタートアップ企業が最初に抱える「資産」であり「リスク」である。人件費に押しつぶされて消えていく会社にとっては、社員はリスクそのものだったわけだ。創業者、経営者はここで初めて、人材教育、マネジメント、企業文化、企業理念などの問題に逢着する。やがて組織は創業者の意思とは別に自己運動を始める。会社が創業者の個人的なモチーフから出発して、1つの共同体として機能していくためには、チーム全員が共有できる「意欲の源泉」とでも言うべきものが必須のものとなる。
 チームのメンバーが、そこに意欲の源泉を見出せるような「場」を共有してゆくことができなければ、経営者は「財貨」「昇進」「権力」などのインセンティブをとっかえひっかえ切り売りしながらチームマネジメントしてゆかなくてはならなくなる。会社はついにカンパニー(仲間)になりえず、収益装置でしかなくなるだろう。

■組織モデル
 草創期から成長期にかけて、ベンチャー起業は有形・無形の資産を形成していく。組織が形成されていくプロセスは企業が「信用」とか「組織の潜在力」という無形資産を形成していくプロセスに他ならない。この「見えないアセット」こそが企業の性格、文化、成長性に大きな影響を与えることになる。ドラッカーによれば、組織モデルはドイツ型、日本型、米国型の3種類があるという。
 それぞれ社会市場経済のモデル、会社主義のモデル、株主主権のモデルである。これらの組織に対する各国の考え方は、そのままベンチャー企業における組織生成のモデルと相似している。少なくとも10年前までは。
 周知のごとく20年にわたって成功をおさめた日本型モデル(従業員重視の会社経営)はいま、初めての難局に直面している。しかし、同時に米国型モデルもまた、大きな曲がり角に来ていることは見失いがちである。
 問題は、どちらが正解かということにあるのではない。経営者や知識層が、短期的な収益確保の戦略を追い求めるあまり、グローバルかローカルか、株主主権か従業員主権か、直接金融か間接金融か、実力主義か年功序列か、人材の流動化か安定化かといった二項対立の図式的な思考に陥ってしまうことにある。
 企業価値を見る上で、収益性は最も重要な指標の1つである。投資家にとって、株主にとって、投資リターン以上に重要なものはありえない。しかし、1つの企業がこの社会に生まれてきて、存在理由(プレゼンス)をもつこと、おそらくこれこそが起業家の初心に胚胎していたものである。企業のプレゼンスとは、誰もがそこで働いてみたいと思わせるような、企業理念、意思決定プロセス、影響力、製品やサービスの独自性、そしてそれらを生み出す経営方法といったものが作り出すオーラであり、個性とでもいうべきものである。

■いまそこにある危機
 90年代に急激に流入したグローバリゼーションの波は、日本のバブル崩壊と景気後退と重なり、個人、企業、地域共同体、国家のそれぞれのレベルでの見直しを要請した。個人・企業のレベルでは、3つの点で大きな変化が現れた。1つは、自己責任の強調であり、2つ目は労働の非正規化(パート化、契約社員化、派遣社員化)であり、3つ目は間接金融から直接金融への転換および株主主権を基にした会社経営への転換である。
 これらの転換を包括的に語る語法が、旧来の日本型システムから世界に伍して戦えるグローバルシステムへの構造的改革を急がねばならないというものだ。だが、ちょっと待ってほしい。
 日本型システムは、それほどまでにダメなものだったのだろうか。そして、世界と戦うことのできない従来の日本型のシステムこそが、今そこにある危機であり、日本経済失速の原因を作っているという認識は正しいのだろうか?
 わたしはそうは考えない。今の本当の危機は、その危機感がどこからくるのかについての自覚の喪失であり、投資サイドにリードされた経営サイドの哲学の不在であり、その結果としての企業のプレゼンス(個性)の後退である。あるいは、循環的に訪れる景気の波の分析や、つぎつぎと現れる戦略的タームの解釈の前に、目前の「変化」について、自ら語りうるオリジナルな語法を持ちえていないことこそが問題なのである。つまりそれが何を意味しているのかがよく見えていないにもかかわらず、闇雲に「市場化」「金融化」に邁進しているという、いわばコンテキストなき変革と価値観の変節こそが危機であるということだ。「市場化」「金融化」がいけないと言っているのではない。情報革命がもたらす、企業活動や企業倫理の変化に対する処方は、経営者ひとりひとりが自前で作り出すべきものであり、米国の戦略論を「輸入」することではない。
 シリコンバレーに代表される、スピード経営、戦略経営、直接金融、株主中心の会社経営、労働資本の流動化、企業競争のゼロ・サムゲーム化といったものが、日本の経営土壌に一気に流入してきたのは、それが勝者の戦略として機能していたからである。このことは、米国型の戦略的な経営が米国経済を勝利に導いたということを必ずしも意味しない。話は逆である。経済的勝者が繁栄を永続化・固定化するために現在の戦略を構築したのである。

 アメリカ型の株主主権のモデルも危機に直面しつつある。それはいわば好天用のモデルであって、経済が好調な ときにしか有効に機能しない[注2]。

 すでにバブルがはじけていた90年代後半の日本は、談合システム、株式の持ち合い、経営の不透明性、汚職、贈収賄など、日本型システムの矛盾が一気に噴出した時期であった。経済成長率は限りなく0%に近づいた。この時期に、米国型を無批判に採用するのは、ドラッカーの言に従えば、悪天候の時に、好天用のモデルを採用するに等しいということになる。
 日本型システムの逆転がグローバリズムなのではないというのがわたしの考えである。同様にグローバリズムの陰画が日本型経営システムでもないのである。二項対立的な2つのシステムがあるのではなく、IT革命という1つの「現実」を前にして、いつも独創的な「知」と、それを模倣する「知」という構造が前景化したということである。日本の経営者にとって、喫緊の課題は方向を転換するのではなく、これまで築いてきた無形資産の上にオリジナルな経営システムを開発することであって、勝者の鋳型に自己の経営を当てはめることではないだろう。
■ロイヤリティの源泉
 2002年6月7日の朝日新聞に小さな囲み記事が掲載された。世界8か国、2627社の人事担当者に実施した意識調査の結果、「従業員が高い忠誠心を持っている」と応えた日本人の割合は、実施8か国中7位で、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、メキシコなどより下位であったというものである。
 わたしは、この結果は当然であると考えている。日本人の意識の多様化によって、会社奉公がすたれたとは思わない。日本企業がその従業員に対して、動機付けに失敗したとも思わない。日本人が変わったわけではない。ただ、昨日まで終身雇用や昇進制度に疑問を抱きながらも従ってきた従業員にとって、いきなり梯子を外されたという「不信」のトラウマは簡単には払拭できないというのが、その理由だろうと思う。
 ペンシルベニア大学の人材研修センター所長であるピーター・キャペルによれば、米国企業経営者の最大の課題とは、80年代以降の度重なるダウンサイジングとリストラによって、企業の方から切り崩してしまった従業員の会社にたいする忠誠心を、再びどのようにして回復するかということだそうである[注3]。
 冷静で、正しい認識だと思う。おそらくは、日本の経営責任者によってこそ言われねばならなかったこういった考察に接すると、グローバリゼーションに席巻されている現在の日本の産業状況の行方を云々する以前に、日本の「知」の脆弱なありようこそが、問われねばならないという気がする。模倣する「知」から、困難を直視して自ら解決を切り拓く「知」を回復する必要がある。
 そのためにはもう一度、組織生成の原点に立ち戻る必要があるだろう。資本、技術、ビジネスモデルがあっても、結局はそれらを活用するメンバーの会社に対する「信頼」がなければ、会社は永続的な成長をしてゆくことはできない。永続的に成長するとは、組織が絶えず自己を超越するということに他ならない。組織が成長していくことと、メンバーのひとりひとりが成長し、自分の可能性を拡大していくという「神話」が信じられなければ、良質のロイヤリティが育まれることは無いといってもいいと思う。
 この「自己超越の神話=成長の共有」は、それが正しいか否かという正邪の倫理、勝つか負けるかといった競争の論理の埒外にある。信じてやっていこうという「信頼」を担保するものは、収益性でも、ビジネスモデルでも、技術でもない。あえて言うならそれは経営者の哲学の強度と倫理である。それを経営者的エートスと言ってもいい。

■2つの「物語」
 言うまでもなく、会社に参加するモチーフは、百人百様である。生活費を稼ぐ、自己実現、社会的ポジション、人間関係などなどの上位にもっと大きな「物語」が存在している。あるいは「物語」があるのだという幻想を共有すること。このとき、百人百様のモチーフは、同一の「物語」の部分であり構成要素に収まる。
 ここに2つの「物語」が存在する。リスクマネーを投じて回収してゆくリスク&リターンの物語と、人生を賭けて自らとその仲間達を帰属させてゆく「場」を作ろうと目論むアントレプレナーの物語と。この2つの物語の交錯するところに組織が生まれてくる。「数字」に還元できる会社の成長を支えていくのは、「量」には還元不可能な組織の成長である。
 ビジネスの基本は「製品やサービス=価値」を提供して、顧客から「満足」を受け取るというシンプルなプロセスである。この「贈与」と「満足」のコミュニケーションには、経営者と会社の数だけの「物語」が生まれる。そして起業家は自ら作り出す「物語」に責任を持たなくてはならないということだけは、確かなことである。



[注1]OECD, Corporate Governance: Improving Competitiveness and Access to Capital in Global Markets, Paris: OECD, April 1998)
[注2]『ネクスト・ソサエティ』P・F・ドラッカー、上田惇生訳、ダイヤモンド社
[注3]『雇用の未来』日本経済新聞社による





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最終更新日  2004.10.26 17:35:05
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