2006/10/19(木)00:30
いじめと正義の倒錯。
中学校では問題児で、高校で落ちこぼれ、
大学で教室に座っていた時間はほとんど無い俺にとって、
教育について何か考えるというのは、
盗人が人の道を語るような気恥ずかしさと後ろめたさがあって、
まあ、できればスルーしたい話題である。
それでも、テレビも新聞も鬼の首でもとったように、
嬉しそうに九州の教諭を叩き、教育現場の荒廃を憂うる図を見ていると、
「素っ頓狂なこと言ってるんじゃねぇよ」と言いたくなる。
筑前では、同町役場にメールや電話が殺到、17日までに2500通を超えたそうである。
大半が町や不適切な言動をしたとされる元担任への抗議や中傷だという。
現場で実際に何が起こっていたのか、その空気は良くわからない。
だから、この元担任の教師を庇い立てするつもりはないけれど、
彼に対する抗議や中傷こそがいじめっていうものではないのか。
多くの人が勘違いしているが、
いじめは正義感の欠如によって起こるのではない。
反対である。正義が多数と結びついたところに、いじめが起こるのである。
いじめが頻発しているような教育現場の荒廃があるから、
「規範意識や情操を身につけた『美しい人づくり』」@安倍晋三 が実現しないのではない。
反対である。
社会の規範意識や情操が希薄化しているから、
教育の現場もそれを模倣するのである。
教育は、後に到来する社会を決定する原因ではないのである。
この勘違いが生じる理由は簡単だ。
ひとりの人間の成長を時系列に見てゆけば、教育の結果が、その後の彼の人間性を決定するかのような見かけをつくるからである。
しかし、実際には生徒も教師も、現実の社会を模倣するものである。
意識的にであれ、無意識にであれ、人間が社会的な存在であるとは、そういうことである。
事実、日本の社会が市場万能、グローバリズムの価値観で動いているから、
大学に市場競争の論理が導入され、安倍首相はバウチャー制度
なんていうことを言い出しているわけである。
いじめもまたしかり。弱いものいじめ、異分子排除は、
経済ダーウィニズムが支配する市場社会と表裏をなす現象である。
いじめは、人間が集団を構成する限り、いつの時代にもあった。
誰もが冷静に振り返って見れば、「あの頃はいじめはなかった」などとは言えないはずである。
だから、どんなに教育の現場をいじっても、いじめはなくならない。
これは結論ではなく、出発点である。