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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2008.01.05
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カテゴリ:ヒラカワの日常
『月刊ラジオデイズ』の発行は、新年の8日ぐらいだと思う。
正月なので、発刊前に、巻頭のテキストを発表してしまおう。フライングだけど。
このコーナーは、毎月ラジオデイズにご登壇いただいているゲストについての
批評ショートショートという格好になっている。
2008年劈頭は、お世話になった、関川夏央についてのショートショート。
なお、このタイトル「なぜ、人は関川夏央が読みたくなるのか」は、高橋源一郎『もっとも危険な読書』所収の関川夏央『豪雨の前兆』書評とまったく同じである。
実は、書いたときは、文中に言及しているように、たしか高橋さんが関川論をやっていたなと記憶していただけなのだが、まさか副題がまったく同じものになっているとは気づかなかったのである。俺の記憶の片隅に残っていて、それが浮かび上がってきたということだろう。
いや、高橋源一郎が、言葉に呪力を吹き込んで、読者の記憶の片隅に棲まわせたということかもしれない。(高橋さんならやりかねない)


この人の声が聴きたい 1月

ソウルの地下鉄で読み続けた本
あるいは、何故ひとは関川夏央を読みたくなるのか

「ある時期から、関川夏央の書くものならなんでも読むようになった」確か、こんなことを高橋源一郎が書いていたと思う。なんということのない一行だが、私には高橋さんの気持ちが良くわかる。私も同じように、折に触れて関川夏央の文章を読みたくなるのだ。いや、疲れたときにチョコレートが食べたくなるように、自分の中の欠落した何かが、関川夏央の文章を要求するのである。

 「こういう場合、彼ならどう考えるだろうか」と思って開く本というものがある。いわば、人生の指南書のようなものである。たとえば、それは中国に関する竹内好だったり、経済に関する岩井克人だったり、歴史に関する網野善彦だったりする。 関川夏央は、そのような啓蒙的な先導者ではない。もちろん、政治的なプロパガンディストでもないし、アカデミシャンというわけでもない。それでも、やはり、無性に彼の文章を読みたくなるのである。 それが何故かということについて、私は明瞭な答えを持ち合わせてはいない。自分の身体的な欲求が何によって生まれてくるのかを説明するのが難しいように、関川夏央の文章の魅力というものを説明するのは難しい。なぜなら、それを言い当てるためには、私の中の欠落したものが何であるのかを説明しなければならない。つまりは不在を証明するようなことだからである。

 少し前に仕事でソウルに行くことがあった。私にとってははじめてのソウルであった。旅行の準備のためにボストンバッグに仕事の書類や衣類を詰め込んで、さてと本棚を見渡した。そして、一冊の文庫本をバッグに放り込んだ。関川夏央の『豪雨の前兆』(文春文庫)である。何故かソウルには、関川の本が相応しいように思えたのだ。勿論私は『ソウルの練習問題』の熱心な読者であったので、ソウルと聞いて関川の名を反射的に思いついたということもあっただろう。しかし、それだけなら他にいくらでも作家はいたはずである。私にとっては、関川夏央でなければならない理由があった。

 しかし、その理由についても、私は、明確に答える根拠を持たない。ただ、日本のそれに比べて薄暗いソウルの地下鉄に揺られながら、下車する駅も忘れてその本を読み耽った。ソウルの街並みは、私に何十年か前の東京を思い出させた。昭和三十九年の東京オリンピック以前の東京である。日本はこれを境に、急速な経済発展を遂げ、街並みの風景も一変した。私たち日本人は、この経済の成長から多くの物質的繁栄を得た。失ったものも確かにあったはずであるが、何を失ったかについては忘れてしまったのかもしれない。

 私(たち)が、折に触れて関川夏央の書いたものを渇望する理由をもし、ひとつだけ挙げよというなら、そこに私(たち)が失い、再び手にすることが不可能であるものに触れることができるからだと言いたい気がする。つまり、かれは私(たち)の時代の「不在」の証人なのである。





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最終更新日  2008.01.05 20:22:09
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