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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2008.05.24
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カテゴリ:ヒラカワの日常
(以下の文章に、映画『ミリオンダラー・ベイビー』のネタばれが含まれています)

ここから先はすこしややこしい話になる。話題がすこし飛ぶがお許しいただきたい。2002年ごろ、アメリカでひとつの戦争シュミレーションゲームが開発された。「アメリカズ・アーミー」というこのゲームは、軍関係者と民間のCGエンジニアが、米軍へのリクルート戦略の一環として制作された。ゲームのターゲットは主に高校生である。(実際には大人もこのゲームに夢中になっている)。ユーザにアメリカの正義が、世界の悪と戦うという物語をインプットし、その正義を実現するために米軍へ参加するように誘導してゆくという意図を持ったゲームで、国家予算22億円を使って開発されたという。そこに描かれているのは、見た目にも明瞭に識別可能な正義の戦士と、悪を絵に描いたような(実際絵に描いたのだが)テロリストだったり、ゲリラだったりする。このゲームには、コミュニティ、チャットが用意されており、多くの若者がこのゲームに惹き付けられ、連帯意識を駆り立てられているという。単なる遊びとはいえない。実際にこのゲームに参加するものの個人情報は、陸軍が収集できるようになっているらしい。この実態を見ると、楽観視も、シニカルに笑うこともできないように思える。
2001年の9.11がなければ、このゲームは作られただろうか。たぶん、つくられなかっただろう。このゲームに横溢するのは、9.11以降の、自由の国アメリカの、官製の正義なのである。

重要なことは、イラク空爆に正義があったかなかったかということではなく、戦争に正義が利用されたことだ。現実には、空爆の根拠とされたような核兵器製造施設はイラクに存在していなかったし、もうひとつの正義であった民主化という点でも、その後の惨憺たる経緯を見ればそれが無理筋であったといえるだろう。しかし、それにもかかわらず、9.11以後の世界でアメリカが自国の正義を模索すること自体は押しとどめることはできないだろう。それが、国内的な民族同化の方策であり、ナショナル・コンセンサスのために合理的で効率的な方法だと考えるものは少なくないからだ。それが「国益」を求める政治的思考というものであり、ナショナリズムとはそういうものだ。(勿論私はそういった思考に与しない。)だが、そのことと、あらかじめ世界は善と悪との戦いであるという物語を流布し、その戦略に多くの若者がからめとられてゆくということとはまったく別のことである。ひとつの共同体が、理由はどうあれ共同体としての善や義を見つけ出そうとする努力と、あらかじめ義は我にありと思い込んで行動することとは似ているようだがまったく別のことだというべきだ。

ごちゃごちゃ言わずに、明確なゴールを定めて、やるべきことを合理的かつ実践的に進めてゆくべきだというような思考もまた同根であるだろう。その意味では、競争的な市場原理と、イラク空爆にまですすむアメリカの軍事戦略は同じ思考の根を持っている。事実、米軍へのリクルーティング活動の戦略は、経済的な敗者が自己の責任において生き抜くためには軍への参加以外の選択肢を無くすというものであった。まさに、軍産業こそが経済的な敗者へのセーフティーネットとなるように仕組んだのである。

閑話休題。
本当は、人間も人間の作り出す社会も、善と悪で二分できるような単純なものではない。そんなことは誰でも知っている。しかし、にもかかわらず、善悪、正邪でものごとを判断することを回避できないのもまた人間である。介護の現場で、多くの「虐待」が報じられているのは事実である。だからこそ、「高齢者虐待防止法」なる法律ができたのだろう。多くの「虐待」が報じられたと書いたが、実際この「虐待」にも様々な経緯と事由が存在しているはずである。誰も好き好んで介護の現場で働くものが「虐待」をしようとは思わないだろう。同時に根っからの「虐待者」というようなものがあるわけでもない。それにもかかわらず、悲劇は起こる。

この悲劇の原因は何処にあるのか。
私は、その原因がどこか手短なところにあると考えるべきではないと思う。いや、むしろ手短なところに原因があり、その原因は憎まれるべきであり、取り除かなければならないというような思考法こそが、悲劇に加担しているのだと思うのである。先の事例でいうならば、「虐待を生んだ病院」を指弾し、改善策が見られないといって詰問した記者の思考法のなかに、「虐待」を生み出す同じ思考の落とし穴があると考えるのである。
記者は(あるいはこの事件を報じたマスコミも)自分たちは、虐待というようなおぞましい出来事との外部に在ると考えているのだろう。そうでなければ、もっと丁寧に「加害者」に取材したはずだし、悪の芽を摘むといった正義の言葉を吐くことはできなかったはずである。もし、この事件の加害者が、「虐待」ではなく、「介護の一貫」として行動したのだとするならば、この記者の言葉は、彼女に対してどんな正義を実現できるのだろうか。
さらに言うならば、この記者は正義のために病院を指弾したのだろうか。あるいはもっとべつの、自らの欲望の赴くところにたまたま正義が転がっていたというのは考えすぎだろうか。人間とは誰も、自分がどうありたいか、どのように見られたいかといった欲望とは無縁ではいられないだろうし、同時にこの欲望それ自体は正義や悪とは全く無関係の次元の存在であると思ったほうがよい。
この記者に足りないのは、もし自らが介護の現場に立ち、にっちもさっちもいかないような状況のなかに立ったとき、みずからの手が白いままでいられるとは限らないということへのイマジネーションである。いやむしろ、正義というものへの過剰な思い込みだろう。

クリント・イーストウッドが監督主演した映画『ミリオンダラー・ベイビー』では、自らが育てた女性ボクサーが、再起不能の状況で苦しむのを見て、彼女に死を与えることを決意するまでの葛藤が描かれている。かれにとっては、彼女を生かし続けることが「不正義」であり「虐待」なのである。人生は楽しいことだけではなく、簡単ではない。そうこの映画は告げている。確かにこの映画は極端な例かもしれないが、それでも大変示唆的な問題を投げかけている。人間が行動を起こすのは、正義を実現するためでもないし、悪を行うためでもない。ひとりの人間の行動の前には、いくつもの選択肢が広がっているが、行動の後に、事後的に善や悪といった形でしか判定されざるを得ないということである。

そのこと自体は、あるいはどうにもならないことなのかもしれない。どうにもならないことかもしれないが、この順逆を間違えてはならないと私は思う。ひとつの結果から原因へ遡行して悪を摘出するという思考法をとっている限り、私たちはしばしばこの記者の陥った落とし穴に嵌ってしまうのである。






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最終更新日  2008.05.25 13:03:51
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