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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2009.01.25
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カテゴリ:ヒラカワの日常
石川マスターから回ってきた
大瀧詠一師匠の『日本ポップス伝』を聞いていたら
「天然の美」の話が出てきて、
思わずドキリとしてしまった。
つい先日、このブログに
その「天然の美」の数奇な運命について書いたばかりだったからだ。
この歌は、明治35年、佐世保の成徳女学校の
生徒たちのために作られた。
作曲は田中穂積。
『追放の高麗人』の著者である姜信子は、この歌が
中央アジアの辺境で、そこに暮す高麗人(コリョサラム)によって
今も歌い継がれていることを知り、
佐世保は、亀山八幡宮の近くにある「天然の美」の碑を訪ねる。
そこで、
成徳女学校の第一回生で、この歌の由来について語れる
唯一の人だというシズコさんに取材する。
「ええ、田中穂積さんは、武島羽衣さんが
明治三十三年頃に書かれた詩がお好きで、
その詩に佐世保の九十九島の美しい風景を重ね合わせて
作曲されたというふうにうかがっています」
シズコさんは、このように答える。

百年の旅をすることになるこの歌について、
大瀧師匠は、『日本ポップス伝』の中で、驚くべきことを
語っている。
田中穂積は、山口県岩国市出身の海軍軍人として、
佐世保鎮守府の軍楽長として赴任した。
俺は、この歌が旧満州国から中央アジアの辺境へと旅をする
壮大な空間と時間の物語に心を揺さぶられたのだが、
この日本の中においても、この曲の真髄が、時間軸を縦に連綿と
受け継がれていることを知らなかった。
大瀧さんは、音楽的デディケーションがどのように行われてきたのか
という実例を、日本の音楽史の中を捕猟し、拾い出し、補助線を入れる。
例えば、大正十年、野口雨情作詞・中山晋平作曲の「船頭小唄」。
例えば、昭和四年、古賀政男作曲の「影を慕いて」。
例えば、昭和四十一年、同じ古賀政男作曲の「悲しい酒」。
これらの歌の根幹にあるものは、
「天然の美」と同じものであるというのである。

『日本ポップス伝』では、
それを実証するために、右に「船頭小唄」左に「天然の美」を配置して
音を流して引き比べるということまでしている。
そして、最後には、これら四つの歌を前後左右のスピーカーから
同時に流したのである。
それは、ほとんど一つの壮大な楽曲のように聞こえてくる。
歴史とは、コピーとデディケーションなのだと言っているようにも思える。
ちなみに、「影を慕いて」は、古賀政男が、クラシック・ギターの巨匠
アンドレス・セゴビアの演奏に触発されて作ったとも。

この視点こそが、今日の著作権問題に欠けているものだろう。
(いや、野暮なことは言いっこなしにしよう)

昨年末、収録で大瀧師匠にお会いしたとき、
別れ際に、「ヒラカワさん、日本ポップス伝をイシカワくんから
借りて聴いて見てください」と言われたその意味が、
漸く判りかけてきたような気がしたのである。





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最終更新日  2009.01.26 15:50:35
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