カテゴリ:ヒラカワの日常
特に忙しかったわけでもないのだが、
ブログの書き込みが滞ってしまった。 特に理由はないのだが、何となく気乗りがしなかったのである。 だらだらとした時間に身を任せる贅沢を享受できるのも 老人の特権である。 老人時間の流れは緩やかであってしかるべきなのである。 若いもん?そりゃ、刻苦勉励、骨身を削らなけりゃいけません。 若いもんが怠けていちゃ世の中回らない。 まあ、働きたくでも仕事がないというのが、 目下の問題ではあるけれど。 落語のまくらで、俺が好きなやつがある。 長屋に、面倒くさがりやばかりが集まった。 縦のものを横にするのも面倒だというやつらばかりである。 なかのひとりが、 「これだけ、面倒くさがりやが集まったんだから ひとつ、面倒くさがりやの会でも、つくろうじゃねぇか」 「よそうよ。面倒くせぇ」 それだけの話である。 いろいろな噺家が、バリエーションを持っているが やはり小三治師匠の味が格別で、 本当に面倒くさそうにやっている。 この、「面倒くさい」には、なかなか強靭な諧謔味がある。 ブラックホールのように、 このひとことで、すべてが一瞬のうちに、溶解してしまう。 退嬰的でもあり、投げやりでもあり、無責任でもあるが、 どこか他力念仏のようで、意気込んだ自己主張を相対化するといったものも含んでいる。 「面倒くさい」は、「出来ない」ではないし、 「やりたくない」でもない。 しょうがねぇなと思えば、重い腰を上げるかという 積極性(随分消極的な積極性だけど)も含んでいるわけである。 何か新しいことや、困難な仕事に向かうときには、 「こうせねばならぬ」といった当為の気持でやっても行き詰ってしまうが、 しょうがねぇ、やるかと思えば、結構続けられるものである。 途中で止めるのも面倒くさいからね。 以前、「亜熱帯的生き方」というエントリを上げたが、 まあ、それもこれと同じである。 解説を加えるのも面倒だからそのままコピペしておこう。 昨日は、阿部くんと三軒茶屋の RAIN ON THE ROOF で、久しぶりの対話を楽しむ。 「いやぁ、日本はもう亜熱帯だね」 「確かに、豪雨の様子とか、今日の日差しなんかを見ているとそうだね」 「だからさ、亜熱帯的な生き方というものをすべきなんじゃねぇの」 「株式がどうのとか、為替レートがどうのとか、 こういうのは北方系の人たちが、肥沃な土地に恵まれない環境の中で 考え出したことだと、ルソーも言ってる」 「日陰を探して、ぼけっとしているのがいいね。 たまに、畑を耕したりしてさ」 まあ、こんな話をクーラーの効いた、屋根の下で 亜熱帯的な食い物をずるずると頬張りながらしていたのである。 その後俺は、渋谷の堀口整体へ。 本日も、亜熱帯的な太陽が中天で燃えている。 お昼過ぎに、渋谷の堀口整体の二日目。 このところずっと、首が痛くてしょうがなかったのである。 まくらが合わないのか、首に喰らった回し蹴りの後遺症なのか いつでも寝違え状態が続いた。 こういうときは、いつも堀口さんへ行って 矯正してもらうのである。 針灸整体、いろいろいったのだが、最後は堀口さんへ駆け込む。 もし、堀口さんがなければ、俺の人生は結構痛いものになったはずである。 以前は親父と息子のコンビで施術していたが、 親父さんは亡くなったらしい。 今は若先生がひとりで、切り回している。 「後継者を育てないといけないんじゃないの」 「いいよ、そんなもん」 「だけど、困るのは俺のような患者だぜ」 「なるようになるよ」 「まあ、先生は俺より若いから、俺はいいんだけどね」 「・・・」 こんな会話をしながら、施術してもらうと、首の痛みが随分楽になっている。 若いが恬淡とした良い先生である。 知る人ぞ知る名治療師は、今日も救助活動に余念がない。 コピペはここまで。 去年の夏、この先生の面倒くさがりぶりに感心して書いたものである。 半年が過ぎ、気がつけば、日本は随分寒いことになっている。 布団から、頭だけ出して、 煙草に火をつける。 暑いのもこたえるが、寒いのはもっとこたえるねと呟きながら 二度ねをすることにする。 暑かろうが、寒かろうが、 面倒くさがりやの生態は、あまり変わらない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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