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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2009.02.18
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カテゴリ:ヒラカワの日常
村上春樹のエルサレム賞受賞に関しては、賛否両論があった。たとえば大阪の「パレスチナの平和を考える会」は、かれに受賞を辞退するよう求めていた。
賞を辞退すべしの論拠は、この賞をスポンサーしているのがエルサレム市であり、エルサレム市長から賞が手渡されるその式典に村上春樹が出席することは、イスラエルによるガザ虐殺の犯罪性を隠蔽することに加担することになるというものであった。

勿論、村上春樹の小説や、洩れ聞こえてくるかれの言動から、かれがガザ虐殺(こう呼ぶべきものだとおもう)のような行為に対して同意を与えてはいないということは明らかである。だからこそ、市民運動の立場から見れば、その村上さんが、無辜の犠牲者の敵が贈る賞を嬉々として受け容れるべきではないということになる。
この賞が「社会における個人の自由」を標榜しており、エルサレム市がそれを掲げる事自体が欺瞞であり、イスラエルはこれを政治的プロパガンダとして、自らの行為の正当性を根拠付けることに利用するだろうというのが、その理由である。この理由、つまり今回の式典がイスラエルの政治的プロパガンダに利用されるということに関しては、私はまったく異論はない。

あらゆる人間の行為は、歴史の中では必ず政治性として抽出される宿命にある。世間の耳目を集める出来事に、高名な作家がどう関わるかということになれば、その政治性はさらに鮮明度を増すことになる。そのことに対してもその通りだと思う。ただ、それがどのような政治的な背景のものであったとしても、その文学賞に対して、それを受賞するか辞退するかという決断に対して、それが政治的に利用されるという理由によって、他者がその決断に関与するということに関しては大いなる違和感を感じざるを得ないのである。
私は、この問題を聞いたときに、受賞を拒否するにせよ、イスラエルに行くにせよ、村上氏は村上氏らしいやり方をご自分で決めるだろうと思ったし、そうしなければ意味はないだろうと思った。同時に、かれはイスラエルに行って自分の言葉で喋るだろうと思ったのである。

この問題は、新しくて古い問題でもある。
かつてサルトルが「飢えた子どもの前で文学者は何ができるのか」と問うて以来、文学者による文化大革命支援声明のときも、文学者の反核声明のときもこの問題が議論されてきたと思う。それぞれ、場面も登場人物も異なっているが、中心にある問題は同じである。
人間は、とくにかれが作家であるならば、主観的にはたとえば文学的人間でありたいと思ったり、政治的に正しい人間でありたいと思ったりすることはできる。
しかし、生きている限りかれは、文学的なものと、政治的なものとの両方にいくぶんかの影響を与え、両方からいくぶんかの規制されることを逃れることはできない。
政治的であるとはどういうことか。
最も極端な比喩で言い表すなら、それは敵の敵は味方であり、味方の敵は敵であるというところに立ち位置を定めるということである。
文学的であるとはどういうことか。
それはまさに人間が政治的であること自体を拒否することであり、政治的言表を相対化し、無化することである。
勿論、現実はそれほど単純でもなければ、旗色が鮮明でもないことは承知している。
重要なことは、人間は社会的な存在であると同時に、個人的な存在でもあるということである。そして、その上で、人間はひとつの行動を選ばなくてはならない。

村上氏は、最終的にエルサムに行くことを選んだ。
それはまさに、政治的な色合いを帯びているだろうこの授賞式というものに対して、小説家というものに何ができるだろうかという問いを携える旅であっただろうと想像する。
つまりは、政治的であると同時に文学的でもあることはどういうことかという解けない問題に、どうこたえるのかということである。

So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.
(私は、ひとりの小説家、つまりは嘘を言うもののひとりとしてこのエルサレムに来ました)

かれは、自分がひとりの小説家であり、小説化とは虚構をつくりながら真実を暴きだすことを仕事にしているものだということをスピーチの冒頭で述べた。そして、しかし、この度は嘘ではなく、正直な気持を話したいと続けたのである。
その話とは政治的なシステムの比喩としての「壁」と、その「壁」にぶつかって壊れる人間の比喩としての「玉子」の話である。
そして、どんなに「壁」が正しくとも、自分は常に「玉子」の側に立つことを表明する。
If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.

そして最後に、イスラエルの人々に向かって、あなたたちと何か意味のあることを分かち合うことを望んでおり、あなたたちの存在こそがわたしをここに来させた大切な理由なのだと結んだのである。

I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here.

この度の村上春樹の行動と、スピーチに関して、ガザ虐殺についての批判がなまぬるいとか、中途半端であるという批判はあるだろうと思う。しかし、私は小説家の仕事とは、この中途半端さに耐えながら、敵の中に届いていく言葉を探すことであり、その意味ではこのスピーチは村上春樹らしいと思ったのである。
村上春樹らしいとは、皮肉でもなんでもなく、よいスピーチであったということである。





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最終更新日  2009.02.18 21:39:09
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