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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2009.03.16
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カテゴリ:ヒラカワの日常
4月に講談社から発刊される予定の『経済成長という病』(仮)の中の一文。
まあ、こんなことを毎夜だらだらと書いているわけです。
でも、もうひと踏ん張りといったところだ。そして、仕事に戻る。


 
 私は、経済的な打撃とそれが生み出した社会不安や格差の拡大という現象は確かに大きな問題だが、経済成長至上主義が人々に与えた心理的な影響、それによってこの十数年に起きた効率主義、合理主義に対する盲目的な信仰は将来に計り知れない禍根を残すのではないかと心配しているのである。
人々の心理に及ぼす影響は、徐々にしかし、確実に目に見えるようにその姿を現す。たとえば、教育の場面で、労働の現場で、家庭の中で。

繰り返すが、どのような経済システムを採用しようが、そこには必ずプラス面とマイナス面がある。だから、日本が現在陥っている状況のすべての責任を、為政者に求めているわけではない。たとえば、この十年間に急速に増加した非正規労働についても、もちろんその根本要因は派遣法の施行にあるが(その理由はここでは述べない)、どこかで国民もそれに加担していなかったとは言えないと私は思っている。それを象徴的に示しているのは、「消費の多様化」「労働の多様性」という言葉である。

 確かに、消費者のニーズは多様化し、街は若者向け、あるいは中高年向けといった具合に分化し、商店やデパートにも多様なニーズに合わせて多種多様な商品が並んでいるように見える。私は、しかしこの「多様なニーズ」などという言葉は、実は多様でも何でもなくて、ただ供給側が消費者の欲望を刺激するために作り出した虚構であると思う。ほんとうは、消費者のニーズは多様化などしていない。ただ過剰な商品が過剰な欲望を喚起しているだけであり、消費の選択肢が膨らんでいるように見えるだけである。つまり個人の欲望が限りなく細分化されているだけである。失礼を承知で言えば、ニーズなどという言葉を嬉しそうに語っているマーケターだとか、ビジネスコンサルタントも、時代という人形師に操られた腹話術の人形みたいなものに見えてくる。

 多様な消費生活。いつの頃からか、そのような言葉が生まれ、これまで見なかったような光景が出現し、やがてそれが当たり前のようになった。おそらくは、(吉本隆明も何処かで書いていたが)週休二日制が採用され、人々の関心が労働から消費へと移った八十年代にはすでにその兆しがあったということだろう。消費は金と時間さえあれば、誰もが自由気ままにその対象を選択し、必要とあれば交換したり廃棄したりすることができる。
しかし、労働=生産の形態は本来多様でもなければ、自由に選択したり交換したりすることができるわけではない。もちろん、職業の選択の自由は国民に保障された権利だが、現実的には生まれ育った環境や、能力などに応じて職に就き、働きながら技術・技能を蓄積して成熟した働き手となってゆく。多様な働き方というような言い方は、虚構でしかない。

秋葉原に行けば、不景気の今でも家電製品が圧縮展示されている。数え切れないほどのゲームソフトを並べている店がある。家電もゲームも新商品が次々と販売される。塾通いの子どもがいれば、ゲームばかりやっている子どもがいる。子どもばかりではない、大人もゲームに夢中になる。韓流ドラマに明け暮れている主婦もいれば、スポーツジムでダイエットに勤しむ主婦もいる。一方で食べていくのに精一杯のフリーターがいれば、親の脛をかじって外車を乗り回している学生もいる。研究室で毎夜データとにらめっこしている勉強家もいればフィギュアと添い寝しているオタクもいる。そしてそれぞれが、違う国の言葉を話しているかのごとく、仲間内だけで通じるジャーゴン(=符丁)を交わしてお喋りする。これだけ、生活の場面が多様化してくれば、当然、消費も多様化する。消費が多様化すれば生活も多様化する。生活が多様化すれば、働き方も多様化する。ほんとうだろうか。これが多様化した社会なのだろうか。

インターネット技術も、金融技術も、それ自体は人間が利便性や、金儲けというものを志向する限り発展を止めることはないし、そのこと自体に良いも悪いもないであろう。ただそのことと、人間の社会が営々として築いてきたアナログ文化や、職人的な矜持や、労働倫理といったものを、ただそれが非効率で非生産的であるという理由で、別なものに置き換えるということとは、まったく別のことだといわなければならない。あるいは欧米に遅れをとるなと、小学校で株式取引を教えろといい、大学は実学優先、即戦力の育成機関にしろといい、国際語である英語教育の時間を増やして国際人を養成すべしというような声があちこちから洩れ聞こえてくるが、そのあまりの無邪気さに唖然とする他はないのである。

たとえば日本語。
最近では、電車に乗っていても、街を歩いていてもやたらと、英会話スクールの看板が目に付く。ビジネスマンも、主婦も、学生も、流暢な英語を話せるようになるために資本投下することを躊躇しない。英語こそはインターネット時代の、世界の共通語であり、世界の共通語を操れなければ、世界に伍してたたかうことはできない。いや、何も世界に伍してたたかわなくとも、この日本での就職やキャリアアップ、はては結婚相手探しにいたるまで、英語を喋れないことは機会損失につながるとでも考えているかのようである。経済学者も評論家もしばしば、アメリカでは小学生から株取引を教えている、アメリカの会社では・・・、アメリカの大学では・・・、とアメリカがいかに合理的なシステムを遂行しているかのようなもの云いである。

そして多くの日本人が、このグローバル化の掛け声を背景にして、漢詩や、旧仮名遣いの近代文学を読むことが出来なくなってもほとんど気にかけずに、むしろ英語のできないことを恥じるようになっている。英語が今やユニバーサルランゲージであり、世界の覇権語であることは誰も否定できない事実である。しかし、そのことと日本語でしか表現できないような感情や、日本語があったからこそ育まれた感覚は、あいまいで閉鎖的であり、無価値であるかのように思ってしまうこととは、まったく別なことだといわなければならない。この十年間に書かれた日本語論、グローバリズム批判の書として最も重要な本『日本語が亡びるとき』(水村美苗著、筑摩書房2008年10月)の中で、著者の水村氏はこう書いている。

だからこそ、日本の学校教育のなかの必修科目としての英語は、「ここまで」という線をはっきり打ち立てる。それは、より根源的には、すべての日本人がバイリンガルになる必要などさらさらないという前提―すなわち、さきほどもいったように、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである。学校教育という場においてそうすることによってのみしか、英語の世紀に入った今、「もっと英語を、もっと英語を」という大合唱に抗うことはできない。

まったく同感である。この本は日本人のすべてに読んで欲しいが、彼女が何故このような認識に至ったのか、堂々たるバイリンガルが日本に生まれることを可としながらも、何よりも日本語が読めることの枢要を説くに至ったのかを知る必要がある。
その理由は十九世紀の後半から始まった日本近代文学の多様性に、まさに世界文学に伍して次ぎ次ぎに生れた作品に直接触れながら成長してきたからだろう。

『浮雲』『たけくらべ』『にごりゑ』『坊ちゃん』『三四郎』『道草』『銀の匙』『阿部一族』『渋江抽斎』『歌行燈』『或る女』『墨東奇譚』『春琴抄』『細雪』などを始めとして、枚挙にいとまないほどの優れた作品―それも、ひとつひとつが、驚くほど異なった世界を提示する作品があとからあとから書き継がれ、日本人の心を大きく豊かに形作っていった。(同書)

多様であるとは、このようなことを言うのであり、同じことをして多様な表現、多様な感覚、多様な形式、多様な方法を、お互いがお互いを参照しながら模索し、追及し、表現できることを言うのである。
今日、多様なライフスタイル、多様な趣味、多様な働き方と言われているものに含まれる多様性、アメリカ合理主義の参照者が褒め称えられるダイバーシティーという価値観は、多様というよりは、個々の欲望の目先が細分化し、お互いがお互いを参照する必要のないところで自己決定、自己実現しようともがいている光景だとしか思えないのである。





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最終更新日  2009.03.16 23:22:05
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日本人がエコノミックアニマルと呼ばれたころ   イカフライ さん
ヒラカワさんのおっしゃるとおり、いわゆる高度経済成長期の「多様性」と現在の米国式経済原理主義世相下における「多様性」とは内実が違うような気がしますね。わたしは百貨店(この呼び名こそ昔の「多様性」の原質を衝いている!)に行った事などなかったのですが、あるときある仕事をしていてある種の文房具がどうしても必要になった。それはプラスチックを成型しなければならないもので、小物だけど、手作りができず、どうしてもどこかで売っている必要がある。しかし売っていないだろうなと思った。そんなもの需要があるはずがないと。非常に特殊な仕事上の要望から出た個人的な「欲しいモノ」なのだから。半分以上あきらめたつもりでデパートの文房具小物売り場に行ってみると、なんとそんなものまで売っていたのです! なに、数百円のシロモノだ。そんなものを売り場に置いていたって幾らの利益になるのか。しかしありとあらゆるパターンの商品群の山の片隅にひっそりとそれはあった。まるで何年も人間を待っているジャングルの蚊のように。このときのうれしさ、有難さったらなかった。「豊かさ」ってこれだなと、「多様性」ってこれだな、とわたしはひしひしと感じたものだ。ところがバブルがはじけて以後は企業姿勢にどんどん「営利」が突出してきた。要するに「無駄なものは置かない」のだ。鉛筆の芯を削るようにどんどん企業利益が追求され(この追求手法の多様性が経済原理主義的な「多様性」だとわたしは思う)「無駄なもの」はどこまでも省かれ、商品の多様性はどこやらへ霧散した。そういうニーズとシーズの「多様性」の喪失した社会は冬の枯木立のように寂しくないのか? 「デパートには商品が溢れかえっている」とだれかが嘆くとき、そりゃあそうじゃないのだよ、何か、東大出と奴隷だけがいればいいようなそんな単純化した社会よりよほど豊かでいいのだよとわたしはそのとき思ったものですがね。 
(2009.03.17 10:06:21)

Re:多様性という虚構。(03/16)   顧客心を捉える儲かる仕組み請負人 さん
はじめまして。
>消費者の欲望を刺激するために作り出した虚構であると思う・・

無理に欲望を刺激して買わせる。
この時点で、なにかがおかしいと思いました。

最近、パレットが必要になりデパートに行きました。
隅に置かれていました。
買えてよかったです。

(2009.03.17 10:54:56)

追記   イカフライ さん
前のコメントで、こんなモノだけど、どこかでだれかが必要としている人がいるかもしれないという製作販売者の隅々にまで行き届いた想像力のしなやかさとやさしさにわたしは感謝したのだけど、それこそが「多様性」が、見知らぬ他者と他者をつなぐものであったのだとおもえるのです。郵政民営化に象徴されるがごとく次々と営利ばかりが叫ばれ、タダ同然で国民施設が売却され、ブルートレインは廃車となり、下町の路地や民家は取り壊されて中央にどでかい高層マンションが聳え立つ。これがすなわち「多様性」の崩壊でしょう。あとに残るのは寒々とした一本の太く枯れた木立だ。単一の棒です。こんなところに豊かな文化が栄えるわけがない。 
ヒラカワさん、あなたが真の意味での多様性をほんとうに大事にしたいのなら、何度もいうように内田樹あたりを徹底的に批判しなければどうしょうもないでしょう。かれの二分法の世界認識と論理にくさびを打ち込まなければ、ああいう低脳の言葉に騙されやすくなっている世間知らずの若者たちが、いずれは太いだけで貧相な枯木立の下で裸同然で震える社会が到来しますよ。
(2009.03.17 16:56:56)

だからチミは Re:追記(03/16)   釜の春爺 さん
コメ欄の説教強盗と揶揄されんだよ。 (2009.03.18 06:01:24)

お三人は   源三郎 さん
ヒラカワさん・・弱者へのうっとりするような温かい視線を持っている人、(太宰が自分のことをこう言ってる)イカフライさん・・弱者に溶け込んだ弱者そのものの視線を持っている人。いい関係ですね。さて内田さんは・・よくわかりませんがどんどん頭が膨らんで足が地面から離れて行っている人とでもしときましょう。わたしお嫌いではございません。お好きでも。 (2009.03.18 07:39:43)

Re:お三人は(03/16)   失業者 さん
ボクはイカフライさんのコメントを見たくて、ヒラカワさんがブログを更新しなくてもお邪魔するようになりました。

そして内田先生を盲信していたタイプなんですが、やっと少し違うのかもしれないということを考えることが出来るようになりました。

今は、イカフライさんファンなのですが…。 (2009.03.19 14:00:46)

Re[1]:お三人は(03/16)   黒猫 さん
>失業者さん

私も同感ですよ。平時には、言葉遊びを楽しむ余裕があっても、時代が混乱し始めてものほほんとしている人には誰も感心しないと思いますよね。 (2009.03.19 17:08:42)

Re:多様性という虚構。(03/16)   カキフライ さん
ヒラカワ店主の時代の切り取り方にはいつも目からうろこです。
しかしイカフライさんのカミツキガメ的なコメントも楽しみです。無理やり喧嘩を売っているみたいですが結構鋭いので「炭鉱のカナリア」のような存在でしょうか?。
私は内田先生は鋭いし面白いと思って結構読む方です。イカフライさんも内田先生がどうでもいいようなボンクラ批評家だったら噛み付かないでしょうね。

(2009.03.20 13:00:27)


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