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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

2009.03.20
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カテゴリ:ヒラカワの日常
ご注意:最近(というか以前より)スパムコメントが多く、ドメインでフィルターをかけています。このブログシステムがそれ以外のフィルターがないので、そうしているわけですが、これによって善意のコメントも一部フィルタリングされてしまう場合があります。悪しからずご了承下さい。(店主敬白)



国際問題解説者の田中宇さんとの連続対話六回が、昨日で終了した。世界の膨大な情報を読み続けている田中さんの身体は、すでに巨大なハードディスクのようになっており、その情報の堆積の中から、本当らしいものとジャンク、新鮮なものと腐りかけたものを分別し、ひとつのストーリーが生れてくる。
奇想天外なものもあれば、たんに俺が知らなかったこともある。
いや、ほとんど俺は何も知らねぇなと思い知らされることが多い。
六ヶ月もご一緒にやっていると、呼吸も随分合ってきて、話がどこへ転がっていくのかが楽しくてしょうがないといった状態になっていたのである。

四月からは、年越し派遣村で一躍、社会運動のリーダーになった『反貧困』の著者、湯浅誠さんと数回の対話をする予定である。
ご両人とも、俺が普段立っている場所とは異なるところで、着実な成果を上げている異分野の方であり、必ずしも阿吽の呼吸で話が通じるわけではないのだが、
異なる角度、異なる立ち位置、異なる見方を発見する時間を持つことは
俺にとってうまい煙草やコーヒーを味わう以上の感興がある。
どちらも、ラジオデイズでお聞きいただければ幸いである。

ということで、本日も現在執筆中の『経済成長という病』の中から、新原稿の
ちょっと出しをしてみることにする。
もうすこして、執筆地獄から抜け出せる。

本末転倒の未来図

 こどもの頃、私は身体を動かすのが大好きな落ち着きのない悪がきだったが、絵を描くことも大好きだった。とりわけ、「未来の東京」といった題材は私を魅了した。モノレールが高層ビルの間を走り、高速道路がクローバーのように交差し、美しいループを描いている未来都市。あれから半世紀が経過して東京の景観、例えば赤坂見付あたりの高速道路とビル群と掘割がつくりだす光景は、私がこどもの頃描いた絵とほとんど変わりがないように見える。

ひとつだけ違いがあるとすれば、私の絵のなかでの東京は光り輝く未来都市だったが、半世紀後の実際の東京は少々くたびれ、薄汚れているように見えることである。しかし、それでも東京は、ニューヨークやロサンゼルスと並んで、人間が作り上げた最もエネルギッシュで、文明化された都市であることに変わりはない。少年だった私は、未来を見通す透視力で、あれらの絵を描いたのだろうか。いや、そんなことはない。実際のところ、まだお尻の蒙古斑の残っているようなこどもに未来を構想するなどということはできまい。本当は当時、自宅に毎月配達されてきた科学画報の口絵のイメージを、自分なりにアレンジしたり、誇張したりして味付けしただけの話である。私は自分の過去の体験(画報を読み耽ったという体験)を引き伸ばして未来図を作り上げたに過ぎない。
 
このことは、私に二つの重大な(と私が思っている)ことを想起させる。ひとつは、多くの人間は、未来を思い描いていると思っているが、実はただ自分が知っている過去をなぞっているだけなのではないのかということである。丁度わたしが、数ヶ月前の雑誌の口絵をなぞりながら、未来図を描いたようにである。私たちにとって、未来とは成長を成し遂げてきて現在に至ったというその成長の残像を、未来に引き伸ばせばそれでよかったのである。こどもの私には、そのときまだ日本の社会が、社会発展史のどの段階にあるのかについて何も知りはしなかった。ただ無邪気に、目に焼き付けられた未来図の残像を信じていたのである。

経済成長を至上の命題として、経済政策をつくりあげようとしている今日の政策担当者の場合はどうだろうか。かれらもまた、戦後六十年の経済成長の残像を、ただ未来に引き伸ばしているだけではないのか。人口減少社会に突入した現在社会というものがほんとうに見えているのだろうか。

 もうひとつの重大なこと。確かにこどもだった私は、過去を参照しながら未来図を描いた。しかし、それでも未来図は未来図である。そこには当時の私たちの生活を一変させる便利さと、スピード感、合理的な美しさがあった。それは、当時はまだ改善されるべき不便や不合理が身のまわりに、街のいたるところにあふれていたということを意味している。あれから半世紀、高度消費資本主義社会の最先端を走ってきた私たちの国において、産業の発展が解決し得るような不便、不合理というものが、どれほど私たちの身の回りに残っているのだろうか。私にはむしろ、利便性や贅沢の過剰が、処理しきれないゴミとなって人間の社会を圧迫しはじめているように見えるのである。インターネット空間の八割を占めるといわれるジャンクメールは、そのひとつの現れかもしれない。

私が未来図を描いた時代とは、私じしんがこれから成長してゆくとば口に立っていたように、私をとりまく世界もまた成長のとば口にあったということはいえるだろう。このことは案外重要なことだ。
そして、私は思う。果たして今のこどもたちはどのような未来図を描くのだろうかと。リドリー・スコットの『ブレードランナー』や、リュック・ベッソンの『フィフスエレメント』が描いた未来都市の姿は、今の東京の姿とあまり変わらないように見える。確かに空飛ぶ流線型の飛行体や、奇妙にメタリックな服装は目に付くが、そのどれもがことさら目新しいものではなく、すでにあるもののバリエーションに過ぎない。

私たちは、これらの映画を見ながら、輝く未来なるものが実は合理を欠いた無理筋であることをすでに知っているのである。交通渋滞や排気ガスによる公害といった文明の裏側の実態をすでに知っている私たちにとって、自由に空中を飛ぶ高速飛行船や、技術は一方で高度に繁栄した社会を描き出すが、同時に事故や渋滞、さらには公害といった問題と無縁には存在し得ないことも経験済みというわけである。もちろんそれは、莫大な資本を投下され、石油資源をふんだんに使って作り上げられた超近代的な都市に住んでいるからこそ云えることである。世界には今も圧倒的な非対称が存在しており、富の配分は公平でもなければ均一でもない。だからここでの視点は、あくまでも消費文明の最先端にある国家、都市に限定したものだとお考えいただきたい。

そこでもう一度問いたいのだが、今のこどもたちは、半世紀前こどもだった私のように、無邪気な未来図を描くことができるのだろうか。もし、できるとすればそれはどんな絵になるのだろうか。実際に、こどもたちに未来図を描けと命じたことがないので、よく判らないのだが、私には、今のこどもたちにとって未来図を描けというのは、案外難しい課題なのではないかと思われる。(もし小学校で実際にやっているのならば、是非見学したいところである)。想像をたくましくする他はないのだが、ロボットが何でもやってくれる社会、バーチャルリアリティの中での生活、あるいは反対に孤島でのロビンソンのような社会への憧れが描かれるのだろうか。よく判らない。よく判らないが、私にはそれがあまり楽しそうな世界だとは思えないような気がする。


今日はここまで。実はこの後に、人口減少社会というものに関する、俺の「驚くべき」見解が続くのであるが、それは4月に発売される講談社の新書でお読みいただきたい。
(って、講談の「切れ場」だね。そうです、宣伝活動中なのであります。)






最終更新日  2009.03.20 18:25:57
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