3312795 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2009.03.22
XML
カテゴリ:ヒラカワの日常
いま書いている本の校正が、ほぼ終了した。
いくつかのトピックは、全面的に書き換えたり、
あるいは、まったく別のものと入れ替えたりした。
一冊の図書においては、<流れ>が重要であると考えて、
惜しいものもあったが、敢えて削除したのである。

削除したものの中に、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチに
関する文章もあった。
以前、ブログで書いたものと重複する部分が多いが、
書き足したところもある。
それをここで公表しておくことにしたいと思う。

政治的な現在、文学的な立ち位置

さて、村上春樹についての文章で本書を締めくくろうとしていたとき、その村上春樹がエルサレム賞を受賞との報があった(二〇〇九年二月十五日)。このエルサレム賞受賞に関しては、賛否両論があった。イスラエルによるガザ攻撃の直後ということもあり、かれがどのような行動をとるのかが注目されたのである。大阪の「パレスチナの平和を考える会」は、かれに受賞を辞退するよう求めていた。賞を辞退すべしの論拠は、この賞をスポンサードしているのがエルサレム市であり、エルサレム市長から賞が手渡されるその式典に村上春樹が出席することは、イスラエルによるガザの一般人虐殺の犯罪性を隠蔽することに加担することになるというものであった。

もちろん、村上春樹の小説や、洩れ聞こえてくるかれの言動から、かれがガザ虐殺(こう呼ぶべきものだとおもう)のような行為に対して同意を与えてはいないということは明らかである。だからこそ、市民運動の立場から見れば、その村上さんが、無辜の犠牲者の「敵」が贈る賞を嬉々として受け容れるべきではないということになる。

この賞が「社会における個人の自由」を標榜しており、エルサレム市がそれを掲げる事自体が欺瞞であり、イスラエルはこれを政治的プロパガンダとして、自らの行為の正当性を根拠付けることに利用するだろうというのが、その理由である。
この理由、つまり今回の式典がイスラエルの政治的プロパガンダに利用されるだろうということに関しては、私にはまったく異論がない。

ガザ虐殺で世界中の非難を浴びているイスラエルの当局者にとって、少しでも自国の正当性を主張できる機会があればそれを利用するのは当然のことだと思うからである。しかしそのことと、この度のイスラエルの行為に正当性があるかどうかということとは別の問題である。
あらゆる人間の行為は、歴史の中では必ず政治性として抽出される宿命にある。世間の耳目を集める出来事に、高名な作家がどう関わるかということになれば、その政治性はさらに鮮明度を増すことになる。

私はイスラエルの今回のガザ攻撃には、どのような意味においても正当性はないという気持を持っているが、そのこととイスラエルという国家を地上から抹殺せよと主張するハマスに陣営に立って政治行動をするということは別の問題であると思っている。ほんとうは、中東問題を引き寄せて考えるということは、(自分の問題としては)できればスルーしたい問題である。政治的な課題に関しては誰にも、それをスルーする権利があると思いたい。もし、政治的な課題をひとりの個人がスルーすることが、別のかたちでの政治的な立場の表明であるといわれるかもしれない。確かにどのような立場も政治的には何らかの意味を持つものだということには同意できるが、そのこととどちらか一方の陣営に同意署名して戦列の末端に組み込まれることとはまったく別のことであると答える他はない。

それゆえ、今回のエルサレム賞受賞に関して言うなら、それがどのような政治的な背景のものであったとしても、それを受賞するか辞退するかという決断に対して、それが政治的に利用されるという理由によって、他者がその決断に関与するということに関しては大いなる違和感を感じざるを得ないのである。

私は、この問題を聞いたときに、受賞を拒否するにせよ、イスラエルに行くにせよ、村上春樹はかれらしいやり方をご自分で決めるだろうと思ったし、そうしなければ意味はないだろうと思った。同時に、かれはきっとイスラエルに行って自分の言葉で喋るだろうと思ったのである。

この問題に関しては、これまでも様々な論争のバリエーションがあった。
かつてサルトルが「飢えた子どもの前で文学者は何ができるのか」と問うて以来、文学者による文化大革命支援声明のときも、文学者の反核声明のときもこの問題が議論されてきたと思う。それぞれ、場面も登場人物も異なっているが、中心にある問題は同じである。
人間は、とくにかれが作家であるならば、主観的にはたとえば文学的人間でありたいと思ったり、政治的に正しい人間でありたいと思ったりすることはできる。
しかし、生きている限りかれは、文学的なものと、政治的なものとの両方にいくぶんかの影響を与え、両方からいくぶんかの規制されることを逃れることはできない。

政治的であるとはどういうことか。
最も極端な比喩で言い表すなら、それは敵の敵は味方であり、味方の敵は敵であるというところに立ち位置を定めるということである。
文学的であるとはどういうことか。
それはまさに人間が政治的であること自体を拒否することであり、政治的言表を相対化し、無化することである。

もちろん、現実はそれほど単純でもなければ、旗色が鮮明でもないことは承知している。
重要なことは、人間は社会的な存在であると同時に、個人的な存在でもあるということである。そして、その上で、人間はひとつの行動を選ばなくてはならない。
人間は自分が意図しようがしまいが、必ず政治的な加担者になってしまうがゆえに、文学というものが存在するのだ。

村上春樹は、最終的にエルサムに行くことを選んだ。
なぜならかれは政治家ではなく、小説家であるからである。
それはまさに、政治的な色合いを帯びざるを得ないこの授賞式というものに対して、小説家というものに何ができるだろうかという問いを携える旅であっただろうと思う。
つまりは、政治的であると同時に文学的でもあることはどういうことかという解けない問題に、どう答えるのかということである。
その答えを、村上春樹はそのスピーチの中に潜ませていたはずである。
そのひとつは、すでに有名になった「壁と卵」の件りである。

<高くて頑丈な壁と、壁にぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私はいつでも卵の側に立とう> ええ、どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。

この卵と壁の比喩は、ある意味ではわかり易い。前者はひ弱な人間であり、後者は冷酷な政治システムで、村上春樹はあくまでも人間の側につくというように解釈された方が多いだろうと思う。確かにそういう意味でこの比喩は使われている。だが、そんなことは村上春樹でなくとも言える事であり、ことさら小説家を自認するかれが問題の地で発言することだろうか。私は村上春樹の重点は、この比喩の後段にあると思っている。

つまり、小説家(自分)というものは、善悪正邪の判定者という立ち位置をとらないのだということである。では、かれは何処に自分の立ち位置の重心を置いているというのか。その答えもまたスピーチの中にある。かれはそれを直接名指しはしないけれど、「毎朝、朝食前に自宅の仏壇に向かって、長い祈りをささげている父親の姿」の上に、あるいは「死んだ人みんなの冥福を祈っているんだよ、味方も敵もみんなだよ」という言葉の中にその答えを暗示している。そして、こう続けるのである。

私たちはそれぞれ形のある生きた魂を持っています。体制にそんなものはありません。自分たちが体制に搾取されるのを許してはなりません。体制に生命を持たせてはなりません。体制が私たちを作ったのではなく、私たちが体制を作ったのですから。
(村上春樹エルサレム賞受賞スピーチの翻訳は、二〇〇九年三月二日および三日の毎日新聞夕刊掲載に拠る)


どうだろうか。読者はかれの発言に、物足りなさ、中途半端、政治的な日和見的主義を読み込むだろうか。その惧れは十分にありうるだろうと思う。しかし、私は、この稀有の作家が続けてきている努力、それは効率と正邪に依拠する政治的な言語(体制を支えるもの)から身を離してなお、否応無く向き合わなければならない政治的な場所に、小説家としてどのようにしてコミットしうるのかと問い続けていることに敬意を払いたい。かれは人間のヒューマニズムや善意に対して誠実な態度をつらぬこうとしているが、それと同じ分だけ愚かさや悪意に対しても誠実であろうとしているからである。

本書の筆をおくににあたって、私は政治的であることを拒む作家への共感を記した。同時に経済的であることもまた拒む立ち位置に立ちたいと思うのである。人間は誰もそれらから自由にはなれない。しかしそうであるがゆえに、政治的な力学関係や経済合理主義的な思想に回収されることのない「個の思想」の立ち位置というものを確保しておきたいと思っている。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2009.03.23 13:25:59
コメント(6) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.