カテゴリ:ヒラカワの日常
借金からわたしが学んだこと。
人類学の知見は、わたしの経験と相容れるのか。 自分を勘定にいれながら、贈与と全体給付の問題を考えた哲学的エッセイです。 では、その一部を抜粋してみます。こんな感じです。 貨幣とは非同期的交換のための道具である 現代のほとんどの等価交換は、貨幣と商品の交換という形式をとっています。 しかし、もし、交換物が使用価値という尺度によって計量されるのならば、この交換はどんなに大雑把に見ても等価交換とはいえないでしょう。 一方は何かの役に立つ商品であり、いっぽうは何の役にも立たないただの紙切れなのですから。 では、一体何が交換されたのでしょうか。 それが、貨幣の謎を解き明かす最初の問いでもあります。 わたしの答えはこうです。 交換が成立するのは、貨幣というものが、それを受け取ったときに交換した商品と同じ価値のものを、いつでも、どこの市場でも買い戻すことができることが約束されているからです。(あるいはそう信じられている)。 ですから、この交換(貨幣と商品の交換)で行われたことは、本来の交換(等価物の交換)の延期の契約だというべきなのです。いつまで延期するかは、貨幣を受け取った側の裁量で決まります。 借金とは遅延された等価交換と書きましたが、借金の場合は、遅延の時間は、主として貸した側の裁量で決まるのです。それがいやだったら、貸さないよというわけです。 交換不成立。 実際には、よくあることです。遅延された等価交換を決済するに見合う担保がなければ、銀行は金を貸してくれませんよね。 同じことを別の側面から見ると、貨幣交換とは「非同期的交換」であり、貨幣とは非同期的交換を可能にするマジックツールだということです。 交換の、本当の実行日を自由にずらすことができる。 これこそ、貨幣交換が爆発的に普及した本当の要因なのです。 他の部分からも抜粋します。 楕円の柔軟性を取り戻せ ここまで、わたしたちは、「贈与と全体給付の経済」と「等価交換の経済」の二つの焦点をめぐる攻防について考えてきました。それはまた、「贈与のモラル」と「交換のモラル」をめぐる攻防でもありました。 現代という時代ほど、金銭の万能性が強まった時代は無いように思えます。世の中には「等価交換のモラル」がだけしか、なくなっているかのように見える。しかし、それは、「贈与のモラル」が消え去ったということではないのです。 日蝕、あるいは月蝕のように、ふたつの焦点が重なってしまい、「贈与のモラル」が「等価交換のモラル」の背後に隠されてしまって見えなくなっているということに過ぎません。 隠されているだけであって、「贈与のモラル」は現代社会においても、存在しており、それが時折、顔を覗かせているということは、まえに、書いた通りです。 一方、現代に先行する時代における贈与と全体給付システムを駆動していたものも、必ずしも持たざる者を救済するという慈悲心ではないといわなければフェアではないでしょう。むしろ、反対に、名誉や、威厳の競争という側面も強かったのです。この場合の、全体給付システムの原理は、競争と敵対であり、それはいつでも、闘争に発展する危険性と隣り合わせていました。マルセル=モースはこれを「闘争型の全体給付」と呼びました。競争が激しいものになれば、お互いがお互いを滅ぼしてしまうような蕩尽という現象に繋がることもありました。見方を変えれば、全体給付システムもまた、共生と競争の両面を持っていたのです。 ここまでの議論の中で、わたしは等価交換モデルと、贈与モデルをあたかも対立し、相反するものとして戯画化し過ぎてきたのかもしれません。実際には、それらはほとんど同時に存在し、相互に、斥力と引力によって結び付けられており、一方が他方に反発していると同時に必要としているという関係にあったというべきなのかもしれません。 わたしたち現代人が陥っている陥穽は、こうした楕円的で両義的な構造をもつ、異なる経済・社会システムや、モラルの体系というものを、二者択一の問題であるかのように、錯覚してしまうということです。 現代社会を覆っているのは、むしろ、この「これだけしかない」という見方の硬直性であるといえるかもしれません。 それは、一種の強迫神経症のようなものかもしれません。わたしは、もう一度、日蝕の裏側に隠されている太陽の光を取り戻す必要があるだろうと感じています。あるいは、月蝕の後ろにある闇の暗さを取り戻す必要があります。現代社会のなかに、もう一つのやり方、全体給付のモラルを取り戻すということです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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