生きている魚を。
月刊ラジオデイズという『月刊新聞』の巻頭では「今月の顔」という特集をしている。しばらくは、俺がその執筆担当ということになっている(らしい)。先月は、小池昌代さんについて書いた。「降りてきた詩人、到来する言葉」というタイトル。「言葉の方から、やってくるっていうときがあるんですよね」という彼女の言葉に「きた」からである。今月は、内田樹くんについての、文章を書いた。タイトルは『毎日一万人の読者から、二万枚の目鱗を落とす大学教授』である。いづれ、どこかで背筋を伸ばして「内田樹論」を書きたいとは思っているのだが、書くかも知れないし、書かないかもしれない。内田くんについては俺はよく知っているような気もするし、何も知らないような気もする。知っていることを書くのはつまらないし、知らないことは書けない。それは、何も内田くんについての評言に限らない。筆者としては、自分が知らなかったことが書く(キーボードをたたく)ことで、モニター上に活字となって映し出されることを期待しながら、書くということになる。自分の知らないことを書く。そんなことが、起こりうるのだろうか。起こりうるのである。言葉というものは不思議なものである。現に、今書いているこの文章も、あらかじめ俺の頭の中にあった意味に形式を与えるといったものではない。意味は書いているその同じ瞬間に生まれる。そして、ときにそれは事後的にもやってくる。最初に一行を書く。それは、真っ白な画用紙に一本の線を引くのと同じである。一本の線に意味は無いが、画用紙の上で二つの領土が意味を主張し始める。意味が現れるためには、その線それ自体の意味は消えなければならない。言葉も同じだ。最初の言葉はほとんど意味が無い。しかし、それがなければ、何も生まれない。(これが最初の贈与である)その一行によって、次に続く言葉が降りてくる。そうやって、自分が何を書いたのかを事後的に知ることになる。それが、文学とか詩とか呼ばれる言葉の秘密である。たぶん、そのようにしてたとえばエリュアールは書いたのだと思う。Mais l'eau douce bougePour ce qui la touche,Pour le poisson,pour le nageur,pour le bateauQu'elle porteEt qu'elle emporte.それでもやさしい水は動く触れてくるもののため魚のため、泳ぐもののため、舟のためにそれらを支え、そしてうながす勿論、自分がすでに分かっていることを書くという行為は、こういうこととは本質的に異なっている。それは、ただ分かっている意味を成型するために道具としての言葉を、一定のロジックに沿って並べるだけである。そうした作業を俺は苦手ではないが、概して退屈であるとは言えるだろう。事務的な言説であり、機能主義的な言葉である。そういう言葉に慣れすぎると世界もまた事務的かつ機能主義的なものとしてしか顕現しなくなる。死んだ魚である。