2009.03.11

『街場の大阪論』について。

(3)
カテゴリ:ヒラカワの日常
大阪に向かう新幹線の中で読んだ本は、
『街場の大阪論』(江弘毅 バジリコ出版)である。
たまに、知人の著書を読むと、そのひと本人と、書かれていることの
ギャップに違和感を感じることがあるが、
この本からは、江さんの肉声がそのまま聞こえてくる。

見た目は豪快、がさつ、いつもガハハと大笑いしている大阪の名編集者だが、
ほんとうは気づかいと、やさしさ、含羞をうちに隠した知性人である。
この見た目と内実の落差が、絶妙な文体を作り出している。
磊落な放言をしているような言葉遣いの下には
呻吟し、吟味し、ときに照れているような作家の精神が息づいている。
その微妙なずれは、大阪という町が持っているずれをそのまま
体現しているかのように思える。
「コテコテ、お笑い、たこ焼き、あきんど、おばちゃん、ヤクザ、阪神タイガース・・・」
は確かに大阪の一面ではあるが、
そんなことを繰り返し刷り込んでいるメディアも、ひとも、
いつも重要なことを見失っている。

そこには、ステロタイプ、書割り的な大阪はあるが、
生きている大阪の街の風貌は、その分だけ隠蔽され続けてきたのだ。
こう、江さんは言っているように思える。
「けれども断言するが、街の中にいて、聞いていても話していても
何といっても断然おもろいのは、やっぱり商売人のえげつない銭もうけや
おばちゃんの無自覚やヤクザ者の与太や店の食べ物についての街場の話で
あったりする。」
しかし、これもまた、大阪を語るもうひとつのステロタイプであることを
江さんは気付いている。

ほんとうは断然おもろいのは、
もの心がついた頃より、大阪のディープサウス岸和田のだんじり遣り廻しの
人の渦の中でもまれ、考えてきた街場の知識人である江弘毅の
大阪に対する「婀娜(あだ)な深情け語り」なのである。
いや、深情けと知性という相反する精神のせめぎ合いが面白さの源泉だろう。

― 若いOLの娘が忘年会などの後、家に帰ってきて「てっちりだった。
ヒレ酒がおいしかった」などと言おうものなら、親は「この娘は、
なんというものを・・・・」と顔をしかめる。
大阪では少し前まではてっちりは玄人筋のヤクザな食べ物であったのだという

この江さんの指摘には、少なからず驚いたが、
かれの文章もまた玄人筋のヤクザな文体を隠しているといってもよいかもしれない。







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最終更新日  2009.03.11 20:27:06
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