カテゴリ:歴史を語る
日が昇って8時にもなってくると野良仕事は終了で、夕方まで屋内でドップリと冷房に浸かって? 転寝しながらPCに向かっています。
殆どのお宅が盂蘭盆会でしょうね。町に出ないのでシャバの様子は解りません(笑) ーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、昨日の続きです(未読の方は前ページからお入り下さい) 昭和初期に発生した旧海軍戦艦の多重衝突事故で沈没した駆逐艦「蕨」の船体後部らしき物体がソナー探知で見つかったところまででした。 <報じる地方紙>日本海新聞 令和2/8/8 ※新聞記事は見出しの「拾い読み」だけでいいですよ。 <沈没した駆逐艦「蕨」>大和ミュージアム提供 <ソナー探査>真上から見た物体を(上)と(横)から <発見場所>美保関灯台沖 北東33.4km ※ <※注釈> 場所を「美保関灯台」と記しています(大山沖と云わないで) ・この港は島根半島の東端に位置し、港そのものが南向きで冬の日本海の荒波の影響のない風待ちの天然の良港であった。 ・当時の情報、マスメディアが美保関町(美保関新聞)であったこと、美保関港は中世より船舶航路の停泊港で栄え人口も多く活気に溢れた港町であったと思われる。 ・(承久、元弘の昔)後鳥羽上皇、後醍醐天皇もこの港から「隠岐流布」となった。等々が考えられます。 <今後の計画>今後は自己調査スタッフとで水中ドローンで協力するという。見つかった物体を特定する他に数万枚の画像を撮影しコンピュータ処理して3Dモデルを作成し発表するという。 ※とかく山陰と言えば史実の少ない地域だが、例外には後醍醐天皇の政権奪取の「船上山の戦い」ぐらいなものだがこの海難事故は海軍の極秘扱いのため全国的には知らされていないらしい この調査の成果が発表されれば改めて脚光を浴びることになるのかもしれないですね。 しかし歴史のロマンに興味を抱くことは楽しいですが、海難事故の悲劇ですから、、、、ね。 119名の御霊に合掌するぐらいなものかもしれません。 <後述>著者:五十嵐 遭(すぐる)氏 角川書店.H17年 再刊 沈没殉職した「蕨」艦長 五十嵐少佐に当時三才の遺児(邁)がいた。 五十年後、その遺児が、執念の追跡調査を縦糸に、家庭内でのさまざまの思い出を縦糸に、織物を織るようにして書き上げたのがこのノンフィクション「美保関のかなたへ」である。単行本283頁 ・再刊以来、慰霊祭にご出席の氏の淡々とした講演は心打たれるものがあった。 2008年4月6日、死去。享年83 合掌 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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