第二期の小学校(昭和4~41年)跡地は現公民館となっています
<沿革碑>近寄ってみます
この噂(植木処分)を聞いた池本嘉明氏(陰田町)は、
「あの大切な楠木は自分が譲り受けて暫くは、自宅庭園の隅で
「大叔父の形見」として大切に育てたい」と身受け
を申し出られたのです。
その後、千代泰治氏家系は東京都に居住し、笠木医院は
「こどもクリニックかさぎ」として現在に至っています。
※千代泰治氏は昭和44年米子にて没(享年88)
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第二ベビーブーム到来の頃、1981年(昭和56年4月)マンモス校
「日新小学校」から分離し「五千石小学校」を再び開校することと
なりました。 |
敷地は八幡から諏訪に変わったのですが僅か200m南方に
<現五千石小学校>公民館よりわずか80m南方に
移転したので「帰ってきた」の気分に浸ったのは当然です。
15年ぶりの復活を喜んだのは校区民だけではありません
でした。
池本氏は即断しました「この楠木を懐かしの生地五千石
小学校に帰して子供たちと一緒に過ごさせてやりたい!」
と
※このあたりの交渉、談話は 初代校長;故 松原 勉氏
より聴取しました。
話はとんとん拍子に進み、池本氏自身の労働奉仕によって
今の地に移植樹されたのです。
長い歳月を経て懐かしの五千石に帰った「楠木」は辿った
足跡と郷土の変遷を万感交々何を語ろうとしているので
しょうか?
当時の児童は見当たらなく環境が一変しても新児童の健康
と安全、教育向上を願っていることでしょう。
生還当時、古老たちが懐かしがったとしても一番喜んだのは
安住の地に還った楠木であったのかもしれません。 |
先日、池本氏と逢い(彼は本校卒業生ではありません)この件に触れると「この国道を通ると車窓から右手に楠木が迎えて
くれるので嬉しい」と同時に義祖父を偲びながら「自分もまだ頑張らないといけないなと却ってあの楠木に励まされるのだ」と
心境を語ってくれました
<国道R181から右手に>クスノキを見る
(拙宅と池本家とは遠縁になります)
50年間は五千石の地を離れていましたが、預かっていたのは、千代(篠村)家の関係者であります。
校長先生、職員先生方どうぞ五千石小学校の生証人(明治21~昭和4)の楠木を子供たちに伝え、いつまでも大切に可愛がってやって下さい。
<蛇足です>が、、、、、、
今津38の妻は篠村泰治の生家から当家に嫁いでいます。
妻は「主人公千代泰治」の「祖父の叔父」になります。
ややこしいですね。??
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<追記>この話は開校当時のPTA機関紙のコラム欄で
「帰ってきた楠木」として私が簡単に紹介しています。
文面が校長先生に対する「お手紙原稿」であり詳細過ぎる箇所がある
事を勘弁ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました