藤内狐余話・・・・その2
民話・・・「藤内狐と尻焼川」の余韻が余話となりましたが今回が最終です戸上山に棲む狐なら当然、戸上狐であるはずが何故に「藤内狐」と言うのか<尻焼川1>戸上山、右下に藤内神社の鳥居が見えています疑問に思ってもさほど気にすることでもなく「固有名詞が藤内だ」といわれればそれまでです。そのように、大人になっても漠然と思っていたのですがこの話を聞いた私の姉が資料を送ってきてくれました。これによると(米子市塩町 Fさん) 鳥取県伯耆国の三大民話は「彦名の八百比丘尼」「赤松池の大蛇伝説」とこの「藤内キツネ」だそうだ。この藤内というのは、怪物退治で名高い藤内信貞のことだろういうのですーーーこの藤内信貞の武勇伝が各地に広がり、この「藤内狐」の話も生まれたのに違いないと「藤内信貞」のこと天喜(てんぎ)元年(1053年)9月、白河天皇のご誕生報告のために勅使柳原大納言吉実(よしさね)は出雲大社で祈願を受けることになった。京都を出発した一行は(当時は中国道路山地経由が主流でした)、阿毘縁(現在の鳥取県日野町)を過ぎて急な坂道を下ると大きな猿隠山の麓に一軒の民家が見えて一行はその家で休むこととなった。ところが、その家の主が申すには「食べ物は一つもなく、接待ができない」とのことであった。其のわけを聞くと「家の前の大きな山には獣が住んでいて、畑の作物はすべてを奪われ、娘も先日連れていかれた」という。気の毒に思った柳原大納言吉実はお供をしていた藤内信貞に獣退治の命令を下した。信貞は、その夜の夢に現れた老人に案内されて獣の住む洞穴に出かけて、この獣を退治したという。藤内信貞は柳原大納言吉実の許しを得て娘を妻に迎えこの里で暮らすことになった。この、信貞の武勇伝が山陰の各地に伝わっていった思われる。後年、戸上山の狐退治の話が出来上がり鍛冶屋の爺さんの武勇伝はたちまち米子の街に広がってお爺さんは、あの「藤内信貞の再来」とまでいわれて、やがて「藤内狐の話」となって子供たちに伝わっていった・・・・・と。(米子市塩町 Fさん)は書かれています。ーーーーーーーーー「藤内さんの正体は、戸上山を根城にするゴロツキだったに違いない。役人が捕縛に来ると、法勝寺川を渡って3km先の天領の安養寺境内に逃げ込み大きな石垣に上がるやいなや 「ここまでボーテこいやれ、よーこんだーがなー!」・・とケツをたたいて笑った ※米子弁訳:ここまで追ってこいよ、よく来ないくせに!と母の10歳先輩の寛ちゃんは、まるで見たような話を聞かせてくれたと母は笑いながら話してくれました。<尻焼川2>山陰自動車道、管理道路、農業用水堰(空気調整式)※山陰地方は入梅からの渇水で水量は御覧の通りで殆んど停流となっています以上で3回のわたった民話(余話)を終わります。最後までのお付き合いありがとうございました