人生投げずに、球投げよ☆
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ボウリング765
自作小説。4
思うところアリ37
ことばとともに15
音楽鑑賞など12
指導塾での出来事21
お歌とバンド活動31
野球17
単なる日記58
DragonBall45
卒論研究1
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自分の歩いてきた道を振り返るのもたまにはよいものである。ひろのびゅーはこんな子供だったんだね、と知っていただいて、なんというか、全体的に愛していただければと思い、懐かしい日々のことを書いてみました。果てしなき異端児、果てしなき問題児幼き日のひろのびゅーをどうぞ。●幼稚園時代(4~6歳)絵をとにかくたくさん描き続け、紙でひたすら工作をし続ける子どもだった。将来の夢はファーブルのような昆虫博士。ひとつのことに夢中になると、周りとの調和をはかれない。現在の原型はもうすでにこのころすでに完成していた。幼稚園にたくさん嫌がらせをしてくる友達がいて、「たまにはやりかえしたらいいのに!」と言う母に「友達だから叩けない」という慈悲深き名言を残し、「現代のイエス・キリストではなかろうか!」とうたわれた。(が、その三日後、その友人を張り倒して帰ってきた)●小学校1年(7歳)算数の時間に「5、10、15、20…と5とびに数字を書いてみよう」という内容の授業があった。「50」まで書けば良かったのだが、時間があまったので「100」まで書いた。すると先生に褒められた。それに味をしめたのか、狂ったように続きの数字をノートに書き続けた。書きためたノートは1冊、2冊、3冊と増えた。親の制止も振り払い、来る日も来る日も机に向かい続けた。ふと気づけば5飛びの数字列はなんと「65,000」にまで達していた。●小学校2年(8歳)「筒を使って工作をしよう」という授業があり、みんながトイレットペーパーの芯とかで小さなかわいい動物を作っているのに、一人だけ1メートルを超える巨大な赤とんぼを製作する。保護者会の際に生徒の作品が展示されたが、あまりの大きさのため、机に乗らず、配膳台に別置きで展示されていた。母は先生から「ひろのぶ君はいつも普通じゃないんです」という(悲痛なまでの)褒め言葉をいただいた。●小学校3年(9歳)ものすごく仲のよい友達がおり、席が近いとどうしても私語が多くなるため、くじ引きの際に、クラスで僕だけはくじを引かせてもらえないことになった。「みんながくじを引いて、最後に残った席があなたの席です」と先生に言われ、くじ引きの結果が書かれてゆく黒板を見ていた。僕の座る席を除いた結果が全て記入され、生徒が移動を終えると….その友達の横の席だけが、ぽっかりと空いていた。じっと見つめあう僕と彼。静寂の教室で彼が、口を開く。「ここって…お前の席じゃね??!!!」ワッと彼に飛びつき、僕は歓喜の抱擁をした。「SAY YES」のイントロくらい流しても全然見劣りしないいくらいの奇跡だった。その光景を尻目に先生は教卓から崩れ落ちていた。笑●小学校4年(10歳)ファン投票により「学級委員」に選出される。が、持ち前の無配慮さが災いし、授業中の私語が止まらない。授業を妨害したとみなされ、一時的に委員のバッチをはく奪される。それでも私語が止まらず、教卓の横で孤立して授業を受けることになった。廊下で立たされることも日常茶飯事だったが、暇だったのでこれを良い機会にしようと考え、一本足打法の練習などをして有意義に過ごした。●小学校5年(11歳)「不届きな生徒は容赦なくはりたおす」という、とっても男気溢れる先生が担任になり(恐怖心から)自我が著しく成長する。その先生が忌み嫌う単語は、こどもが安易に発する「死ね」というフレーズ。それを発したら、はりとばしてでも、その言葉を使わなくさせる先生であった。僕はぽろっと友人にふざけて言わないように気を引き締めていた。が、あるとき、クラスメイトの「スラムダンクの流川楓が大好きな」女友達が、大事そうに流川の切り抜きを持っているのを発見。あんまりに目がハートなので、からかい半分に「流川死んでしまえっ」と言ってしまった。その子はこちらを睨むとすごい勢いで先生のもとへ走り、いきさつを報告。先生はつかつかと僕に歩み寄り、「死ねという言葉を軽く使うな」と言い、僕をはりとばして帰っていった。僕は涙を目にいっぱいためながら、「死ねとは言ったけどマンガのキャラじゃん….」と何度も何度も心で呟いた。笑●小学校6年(12歳)どこでどう頭を打ったのか、後期の児童会の会長に立候補し、就任。クリスマスに児童会で劇があり、サンタクロースの役どころをゲットしてしまう。赤白の例の衣装と付けヒゲを装備し、クリスマスソングにのって、満員の生徒で埋まる体育館の後方入り口から一人登場。恥ずかしすぎる。例の男気の先生は二年連続で担任になり、かなり仲がよくなっていた。僕は先生に1か月につき10枚の肩たたき券を発行し、「好きなときに呼んでくれたら肩を叩きます!!」と。給食が終わった頃よく呼ばれた。「あんちゃ~ん、この券で肩叩いてくれ~~い」「は~い!今行きます、お待ちください!!!」いま思うと一体どんな生徒なんだと思わずには居られない。疲れたのでこの辺でやめますが...パート(2)「中学校編(13歳~)」とか..需要ありますか??
Jul 12, 2009
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いまから、僕の心にあるものを、ここにすべて記します。矛盾した感情が収まりのつく場所もないので、今はただ、ここに記す、というだけです。この半年間、実は、心の中に時々、こんなことを思うことがあります。ボウリングに出会わなければ良かった、と。正直、ボウリングを愛している皆さんの前でこのようなことを書くことは、非常にはばかられます。しかし、現にそう思っているので、ここでは素直にこう書かせていただきます。なぜ、ボウリングに出会わなければ良かったのか。それは、僕が、ボウリングを生き甲斐だと思ってしてしまったからです。僕は、いま、ほんとうに辛い。身が裂けるような気持ちです。僕は、ボウリングを生き甲斐にしてしまったことを、ほんとうは心からの笑顔で、道行く人誰もに、抑え切れないほどの喜びをもって、自慢したい。僕にはこんなすばらしいものがあるんだ、と誇りたい。生まれてきて良かった、と言いたい。そして...寝ても醒めても、ボウリングのことを考えていたい。このためだけになら、歯を食いしばってでも生きていけると思うほど、ほんとうは、ほんとうは、ボウリングが大切でたまらない。だけど、それではもうだめだとわかっています。大人になって、働いて、誰かを守ったり、そうやって生きなくては、だめになったのです。僕は、自分の中から、もう、ボウリングを殺さなくてはいけない。性格上、僕は二つのことには本気で向かえない人間です。片方を見れば、もう片方は、消えます。これからほんとうに学者になろうと思ったら、勉強のことだけしか考えない日々を過ごさなくてはならない。。僕には、両立は出来ない。勉強が好きなんだ、と自分に信じ込ませるためにも。いくら苦しくても。そうならなくてはだめだから。ボウリングを殺さなくてはだめだ。生き甲斐になってしまったからこそ、いま殺さなくては、もうだめだ。そう思っていたら、なぜこんなにつらい思いをしなくてはならないのかと、悲しくなってきて、涙が出てきて仕方がなかった。ボウリングって、一体、なんなんだ。ピンを倒してるだけじゃないのか。ただ、それをやめるだけなのに、どうして、こんなに苦しいのか。酸素がなくなるわけでも、毎日の食事が食べられなくなるわけでも、命を狙われるわけでもない。だけど、もう、それがなくなったら、全てが終わったような気になってしまう。なんでなんだ。ああ、なんでボウリングに出会ってしまったのか。これさえなければ、もっと絶対に、なんの葛藤もなく、辛くもなく生らきれた。ああ、とことんボウリングがしたい。死ぬまでボウリングがしたい。腕がちぎれるまで練習したい。課題は腐るほどある。ここでこうしている時間が、惜しい。だから、だから、だからこそ、もう終わりだ。こんな気持ちのままで、勉強は出来ない。おそらく、もし僕がボウリングを殺せば、今の僕もきっと死ぬだろう。生きる意味を殺してしまったら。これからの自分がどうなっていくか、わからない。愚かな僕は、生まれて初めて、大人になることで、自分に逆らおうとしています。....情けないですけれど、これが僕の全てです。これから僕はどうなるかわからないです。。ただ、みなさまにもう一言だけお伝えします。ボウリングを、大切にしてください。自分のボールを、スタイルを、愛してあげてください。回転があってもなくても、スピードがあってもなくても。うまくても、へたでも。愛してあげてください。いまになってやっとわかりました。「ボウリングは一体どこにあるのか?」ボウリングは、ひとりひとりの中にあります。そのひとが投げるボール、回転、スピード、スタイル、コントロール。。それが、そのひとの、ボウリングです。だから、自分を愛することが、ボウリングを愛することです。読んでくださり、ほんとうにありがとうございました。 B1 No.18 hironoview
Dec 1, 2007
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「言語圏とその文化観の様相」 ヒトシロビンソン日本人は、ものを黙って考えるとき、その思考内では、自分の第一言語にあたる日本語を使っている。アメリカ人も、それと同じ様に、当然ながら英語を使い、彼らの思考を構築しているのだろう。つまるところ、われわれ人間は、自らの使用言語を基点にして、思考を構成しているということである。 さて、われわれの「眼の前にある世界」は、いつもひとつ限りのものである。しかしながら、われわれ一人一人が「捉えている世界」は、実はそれぞれに違う。代表的な例を挙げるとすれば、虹の見え方の違いがわかり易い。日本人は、虹を7色(赤・橙・黄・緑・青・藍・紫)で捉えている。しかし、アメリカ人はそれを6色(赤・橙・黄・緑・青・紫)で見ているし、南アジアのバイガ族は、虹をなんと(赤・黒)2色だと判断しているのだ。目の前にある世界は同じなのにもかかわらず、なぜそこに、ここまでの大きな価値判断の差異が生じるのであろうか。その違いを生み出しているものが、言語圏の違いに他ならない。彼らが使用している「言語」がそれぞれに違うからである。 言語とは、文化の上に成り立つものである。アメリカ人と日本人の捉えている、虹の構成要素の違いに注目してほしい。よく見ると、ただひとつ、日本人がアメリカ人よりも余計に見えている色を除けば、そこに大きな差はないはずだ。その、日本人だけが捉えている色、それが「藍色」である。【色として捉える】という視覚的行為は、言い換えれば、【他の色との差異を区別する】ということでもある。日本人が藍色を青とはっきり区別しているのは、私たちが文化的に、藍色に対して強い思い入れを持つからである。伝統工芸や、絞り染め、「青は藍より出でて、藍より青し」ということわざもあるように、私たちは藍という色を、青とはっきり区別する文化性を持っているのだ。 いや、もしかすると、私たちの内にある藍色への思い入れが、「空の青とは違うのだ」というある種のプライドとなっているのかもしれない。つまり、それら2色に対して、ポジティヴに区別「したい」という意識が働き、その価値観が、我々に、線引きをさせるペンを握らせているのかもしれない、ということだ。意識下の世界の真実はわからないが、とにかくそれは、「青は青である」と漠然と捉えているアメリカ人には、意識の及ばぬ世界であろう。 このように、人は言語を通して、【区別したい】だとか【区別すべきだ】という感情を持ったものに対して、それを他のものと区別する習性があるようだ。一面が雪で覆われたアラスカに住む民族は、「白」という色を細かく何色にも分けて捉え、それを示す言葉も何種類もある、という話からもわかるように、言語とは、彼らの文化の映し鏡なのである。文化的にかかわりの深いものは、言語に反映され、ひいては、それを使用する人間の意識にも反映される。彼らに、日本人が捉えられる色が捉えられなかったりするのも理屈は同じことである。彼らには、ただ、その色を見分けようとする習慣がないからである。 これらの意味において、言語圏とその文化は、切っても切れない関係にあるといえる。(夜ご飯をおごってもらいます。)
Jul 30, 2007
最近、出会い系のカキコミが多い。マジで掲示板に日々書き込まれる。わたくしはそいつに、敢然と立ち向かうことにしました。消したりしない。絶対に戦う。相手がもはやこのレスを見ることはなくても、私の論述力をすべて終結させ、やつらと戦います。とりあえず、掲示板のほうをお覗きください。第一戦の模様がみれます。
Feb 16, 2007
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さ~てと、12時も回り、明けて30日です。いきなりですが、僕は、夜寝つくまでは、「その日」は終わらないって感覚があります。つまり、もう12時は回ってますが、僕にとっての29日は終わっていないわけです。12時になったら日付が変わることは当然の事です。それは、みんなの「決まり」です。が、僕が寝なければ、僕にとっての今日は終わらない!そんなことを高校の頃、すんごい思っておりました。当時、テスト勉強がはかどらない夜は、起きて起きて起き続け、そうやって、どんどん明日が来るのを遅らせてました。そして、翌日のテストは眠すぎてまともに出来ず、再テストになり、光り輝く明日が結局いつまでたっても来なかったこともありました。(これうまいこと言った)ま、そんなことはどうでもいい。そんな僕が今日タイトルにて、こう書きました。「今日は試合」これは僕のポリシーを曲げておることを意味するのです。「今日」とタイトルには書かれていますが、かたくなな僕の考えだと、まだ今日は終わっていないのです。12時だけど、おきてるもん。これから寝て6時間後に起きる。ここでやっと「僕の明日」は来るわけです。ほんとは「明日は試合」なんです。なのに。なのに。みなさんの常識に併せて「今日は試合だ」と書く。これを翌朝、見るであろう人の気持ちになって、「今日は試合だ」と書く。このすさまじいまでの「気配り」。。。さっき、玄関の家族の靴もそろえたしさ、こんだけいいことしたら、結構、打てるんじゃねえの?!明日は!!...じゃなかった「今日」は!!さて、独りよがりな気配りをしたところで、おやすみなさい。個人的な目標ですが、「4G765」を目標に頑張ってきます。
Sep 30, 2006
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問1 あなたが最近した恥ずかしい失敗は何ですか? ノーミス中にくるぶしに当ててガーター、ですかね。 すんごい恥ずかしかった 笑 でもちゃんとスペアとって214にしましたよ☆問2 あなたが今 1番したいことは何ですか? ボウリング。金銭の不自由がなければ、いくらでも練習する。問3 今年の夏の思い出は何ですか? 明日あさって、試合で勝つことで作る!!問4 ダイエットに成功したことはありますか?もしある方は方法を教えてください。 成功っていうか...ううんと...笑 高3受験後、大失恋をしてメシがくえず、5キロ痩せました(爆) 62キロから57キロへ! これは、体重増えてきたら定期的に失恋しろということでしょうか??笑問5 いつもかかさず見ているTV番組は? ないですね(キッパリ) 最近テレビみた覚えがあんまりない。 野球はもうほんとドラゴンズの弱さに情けなくなってくる。問6 海外旅行に行くならどこに行きたいですか? うう~ん。僕、生まれてこの方、 異国に足を踏み入れたことがないんですよ。 てか21歳で飛行機に乗ったことがない(笑) 「え、こんな鉄の塊が空を...??ご、ご冗談を!!」みたいな。 でも、それクラスの未開の人間ですので。 治安のいい、自然のきれいなところへ行きたいですね。 問7 1週間独身に戻れたら何をして過ごしますか? なんて質問してくれるの~い♪ 独身まっさかりやっちゅ~ねえ~ん♪ 昨日友人と話になって調べたら、 アドレスに20代の女性は50人いたんですが。 全てがフレンズ。問8 次にバトンを回す方の名前 お暇な方どうぞ♪
Sep 8, 2006
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今日は塾で授業後、講師の中で、早口言葉の練習をしました。みんな、出来て「難易度★」まででした。みなさま、やってみてください。そう簡単にはできませぬ。難易度★「この鷹は買って高かった鷹、戦って買った鷹」難易度★★「新春シャンソンショー」難易度★★★「俊足最終走者は信州出身」「新春すし職人、すし試食ショー」特に,,,「俊足最終走者は信州出身」これはきつい。本気できつい。三回もし言えたら相当なもんだと思いますよ。
Aug 1, 2006
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電車に乗ってたんですよ。そこで見てて思ったんですが...ほんとに人間て面白いくらい角の隅の席を愛しますね。角の席が空くと、人々はこぞって争奪する。僕はそこまでは固執しないんですが。彼らにとっては、オセロくらい「角は大切なもの」のようです。この前、面白かったのは、がらんとした電車内でのこと。電車って、10人くらい座れる長い座席が、対面になってるじゃないですか?で、僕の対面にあった、長い座席の「ど真ん中」と「両側の隅」に人が座っていたんです。で、ポイントはこの真ん中の人。おじさんです。駅で片側の人が降りた瞬間です!その「ど真ん中」に座ってたおじさんが、ケツを座席につけたまま、腕力と脚力でズザザザザザって横へ移動してって、角にたどり着きました(笑)「あんた40越えててそこまでして角の席に座りたいか!!」って心の中で3回から4回は突っ込んでました(笑)やっぱり、こういうものの背景には、人間って、自分の安心できる世界が持ちたいんだろうな、って思います。まったくの他人にはさまれて座ってるのは、確かに安心できないですからね。知らない人が居るのを、せめて片側にすることで、自分の中の不安を、最小限にしたいってことでしょう。んで、角の席に取り付けられている、鉄柱にしがみつく、と。今日もこれから電車に乗りますが...「安心」という名のポールポジションを狙って、きっとまたみんな戦ってるんでしょうね。ああ、愛すべき人間たちに角の席を...。笑
Jul 27, 2006
小学校4年の頃、僕は人生で一番ヤンチャでしたね。ヤンチャであるがゆえに、一番先生に怒られた時期だと思います。 その当時の僕は、何も考えてませんでした。 なんか、ほとんど、意識自体が無かった気さえします。今の自分は「ある行動を起こそうとする自分」を、「もう一人の自分が客観的に見つめる」ってなことも出来ます。 しかし、当時はそんなことが全くできませんでした。欲のまま動き、そして何者にも阻まれない。笑そんな生き物でした。スーファミとかで、画面つけてほっとくと、 コンピューターが操作してくれる「デモ画面」 ってあるじゃないですか。 あれに近かった。思考なく、自動的に、勝手に動いてる人間。 人生そのものがデモ画面っていう感じでした。 それゆえに...もうほんとによく怒られました。 今でも覚えているのが、夏頃の話。 3時間目に「電気の車を作って走らせよう!!」 っていうような図工の授業が体育館であって、 3時間目が終わってみんな戻ってるのに、 4時間目になっても僕と友達だけは帰ってこない、っていう。 チャイムの音も構わず、ただ遊び続けました。そこで怖いのは...「取捨選択して、そうした」 わけでは、全っ然無いことです。 そこにあった感情は 「まだ遊びたい→じゃ遊ぼう」 っていう、たった一個の矢印で事足りる極めて単純な思考回路です。 さえぎるものなし。 ほとんど生きてながら、脳は気絶してますよね。笑これからもっと怖い事を言いますけど、 実は、このとき...僕って「学級委員」だったんですよ。 ...思い返すと、 僕以上にクラスの人間が頭働いてない気がする。 よりによってこんなやつ選ぶなよ、っていう。(笑) この学期中、 「叱られて先生にバッジを剥奪されること」と 「良いことをしてバッジを取り返し」とを、三度も繰り返しました。 母親とはこんなやりとりがありました。【1回目】 親「あれ、学級委員のバッジは?!」 僕「取られたよ」 親「え、誰に!」 僕「先生に」 親「は?!!」 【2回目】 親「あれ、学級委員のバッジは?!」 僕「取られたよ」 親「え、誰に!」 僕「先生に」 親「また?!!」 【3回目】 親「あれ、学級委員のバッジは?!」 僕「取られたよ」 親「また先生?!!!」 僕「うん、先生に」 親「.......。」 ああ、思えば死ぬほどかわいそうな母親よ...(笑) 一番壮絶だったのは... 僕があまりにも授業中うるさかったので、 配膳台の横に僕の席が移動され、そこに横付けにされ、 そこで1週間授業受けたことです。 でも、そんなにショックではなかった。 なぜなら 僕は...そのとき意識がありませんでしたから(笑) そんな僕ですが、5年生で、悪さをするとバチコンバチコン殴る先生が担任にあたって、「わわ...注意しないと、怖い目にあう!!」ってな感じで周りを見回すようになり、そこで「行動を考えられる人間」になれたわけです。ただ、やりたいことをとことんやりたくなってしまう性格というのは今の「ボウリング菌の発症」にも通ずるところがあり、「三つ子の魂、百まで」ということわざもなんだか、あながち外れてはいないなと思えてしまいますね。
Jul 24, 2006
ボウリング日記ばっかかいててなんかボウリング人間みたいなので、ちょっと血の通った昔の恋の話などを...。そうですね...じゃ...。僕が初めて告白したときの話でも 笑あれは...高校1年の最後でした。クラスですごく仲良くなった子が一人いたんですけど、僕は特になんのアクションも出さず。「まあ、このまま2年になって、クラスも離れておしまいかな、告白とかまあそんなことするガラじゃないし。。。」などと思っていました。3学期の終業式の日、その子の姿を目で追いながら、少し熱い思いを秘めながらも、どうすることも出来ませんでした。そのままクラスは解散。すべて終わったかな...と思ったその日の夜です。学期の最後は外食をするのが当時のhironoview家のおきまりで父、母、僕、弟の4人で外食したわけです。その帰り道のこと。十字路において先頭で信号待ちをしていた、母親が運転する車は青になったシグナルを目印に走り始めました。すると!!急に右から信号無視の車が!!!キキーッ!!ガッツン!!!!信号無視の車は、うちの車のフロントの右サイドを粉々にしました。もうちょっと、うちの車が前まで出ていたら...運転する母親が死んでたかもしませんでした。さらにもうちょっと出ていたら、、母親の後ろに座っていた...僕が死んでいたかもしれませんでした。そんくらいぶつかりました。幸い、みんなムチウチにもならず無事に助かったわけですが、そのとき僕は思いました。事故のショックで家族の三人が「こわかったね~...無事でよかったね~」などと口々に語る中、僕はただ黙ってこう思っていました。「命って、いつどこでなにがあって、絶たれるかわからないんだよな...。..だったら...やっぱ悔いなく生きなきゃだめだよな...。伝えたいことは伝えるしかない!できることはしなきゃダメだ!」1時間後、レッカー車で吊られたうちの車に乗って帰り、家に戻った僕がすぐさましたこととは。その子の家に電話をかけることでした。そして、自分の気持ちを告白しました 笑やはりというか、その子も僕を気にかけてくれたようで、付き合えることになりました。あ~もう死んでもいいと思いました(結局死ぬんかい)笑(ま...付き合いは長いことはなかったですがね 笑)でも今思うと、事故から、すごいとこに結論をつなげたもんだなと思いますが、僕もほんとよくやったなと思います。行動力がすごいなと。...夜だったから気持ちも盛り上がってましたしね。もうここはやらなきゃあかんわ!って。ドラマの主人公になったみたいでした 笑僕こんな恋が多いので仲間内から「純愛といえば...」の冠を頂いております。笑ドラマみたいで、なんか背中とかがむず痒いわ!!と言われたり。でも懐かしいなあ。5年前か。元気でやってるかなあ、あの子。まさかこんなボウリングばっかしてるとは夢にも思ってないだろうな 笑
Jun 24, 2006
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くだらん話題なんですが、僕は、21年間生きてきて「覚醒中に鼻血を出す」という経験がありません。鼻の粘膜が強固なのかなんなのかわかりませんが。9歳のころ寝ていて、どうやら手で鼻を引っかいてベッドカバーにダーって血が出てたことが人生最初で最後、1回こっきりの鼻血です。(鼻血といえば...小学校の頃、野球やると興奮して鼻血出すヤツいたな...。高校野球で主将をしたらしいけれど。元気かな...)でも...僕は鼻の粘膜が強固なかわりに、腹のチカラが弱いです。笑「整腸力が弱い」とでもいいますか...。夜などにアイスとか1つ食べようものなら翌朝、高い確率で腹を壊してます。ま、「はじめっから無理をしない」という体勢でいられる利はありますがね。さ、恒例の...ボウラーを始めとするみなさんはどうですか??(どんな振りだ)笑
Jun 22, 2006
最近、落語を聴いていてふとあることを思った。それは「笑う」ということのもう一つの側面についてである。金曜日学校帰りの電車で「人は、どんなとき、笑うという行為をするのだろうか?」ということをひとしきり考えていたのだが、自分を顧み、照らし合わせ、思い当たる答えを探るとその条件の一つとして、「普通とは違うものに触れたとき」というところがあるのではと思った。道を歩いている人がいる。...笑えない。その人が隣の友達に話しかける。...笑えない。その人が「う~ん」と伸びをする。...笑えない。その人がバナナの皮で滑って転ぶ。アハ!笑える!!(極悪人か)こんな感じのを例に考えてみるとわかりやすい。ここで生じた「笑えること」と「笑えないこと」との間にある結果の違いは人の目に映った「ある現象」が自分の、無意識に想定している「普通」を越えているかどうか。これに関係していると思う。「オマエって、俺が思いつきもしないようなこと言うよな~笑」っていうのがまさにそれではと思う。自分の思いつく「普通」を越えているから、それは笑いになっていくのではないか。※余談だが恐怖による「悲鳴」は自分の思いつく「普通」を越える「ショック」を喜びによる「感涙」は自分の思いつく「普通」を越える「感動」を覚えたときに発生すると考えていいかもしれない。これらは全て感情のベクトルの違いである。しかし、「普通」を越える「楽しさ」に接し、笑うということは、時として誰かを傷つけることがある。その傷は、各人の持つ「普通」「普通でない」という『概念の差』が、生み出すものではないか。それは、Aにとって「普通でない」ことがBにとっては「普通」だという場合だ。Aは、Aにとって「普通でないこと」であるBの「とある行為」に対し笑いの感情を持った。が、Bは、それが「自分にとっての普通」にあたるとき、それは、Bにとって期待しない笑いになる可能性がある。そうなると、BはAを笑わせたわけではなくなる。BはAに「笑われた」のだ。眠くなったから一旦おやすみなさい 笑気が向いたら第二回として書いてみようかな。あ~あ、これ何の分野の学問にあたるんだろう 笑
Jun 3, 2006
僕は、日常の些細なことから「これぞ物事の真理かも!!」って気づいたりします。絶対に自己満足ですが、今日も一つ悟りを得ました(爆)僕は基本的に駅まで自転車で通学してます。今日も朝から小さな声で、「村下孝蔵」の「初恋」や「加山雄三」の「君といつまでも」などの昭和の名曲を口ずさみ(おっさんか)生まれてもいないような古き時代に思いを馳せ、自転車に乗ってました。で、僕は運転しながら何気なく、進路にある落ち葉たちを踏み始めました。さながらコインをこまめに拾い集めるマリオのように、進路方向にある落ち葉を前輪でクシャっ、クシャっと小気味よくいくつもいくつも、狙って踏んずけていったわけです。あるとき、思うように踏めなかった落ち葉がありました。踏みミスしたんですね。落ち葉の横を前輪が通ってしまいました。で。「よし、じゃ、後輪で踏もう」そう思ったのですが、手ごたえはありません。後輪でも踏めませんでした。...。ちょっと気になったので、この動作を何回かやってみたのです。しかしいずれも失敗。結論として...、前輪で踏めなかったものは、後輪でも踏めないということがわかりました。ここに、今日の「物事の真理」を見い出しました(バカ)「物事は最初が肝心。今出来ないことは、後でも出来ない」ってことです。ああ~来た...恒例の無理やり論(爆)自転車は構造上、相当アクロバティックな乗り方をしないと、後輪の通る道が、前輪の通った道からそれることはありません。後輪の動きは、前輪を追いかける、同じ動きしかできないわけです。つまり...「最初にした失敗を後から取り戻そうったって、そうはいかないよ」っていうことです。人生もきっとこうなのかもしれません。鉄は熱いうちに打てじゃないですが、やるべきことは出来るうちにやっとかないといけません。「後からやろう」では、出来ないのです。今、出来ないことは明日も出来ないのです。...フォーム改造、すぐ頑張ろうって思いました(結局そこへ行き着くのか...)勉強もやりますよ、しっかり。
May 31, 2006
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僕が通学で使う電車はJRなのだが、乗っててある発見をした。ドアが閉まって、走り出し、次の駅に着いて、ドアが開く。この一連の「各駅間の時間」がT.M.Revolutionの「ignited」という曲の長さに、毎回毎回、ほぼ等しいことが判明した。何気なく曲を聞いてたら、ほぼ、おおまかに、ざっくりと、大体その感じ。そういうタイミングで着くことに気づいた。...案外、地味な発見。そして、何にも使えない。あと、地下鉄は、「二駅間の時間」がラルク・アン・シエルの「Driver's High」の長さと等しい気がしていたが、今日の帰りの電車での実験ではワンコーラス分、短いというショックな実験失敗があったので、どうやら違うようだ。なんか、僕ってやっぱ変わってるかもしれない(僕が使ってる駅のみの結果ですので、クレームは受け付けません笑)
May 18, 2006
ケイワン0422さんから、バトンが来ました。ネタが無かったので、ありがたいです。ではさっそく。 【紹介バトン~私の秘密~】1.回す人を最初に5人 書いておく ヒトシロビンソン爺さん、aikoさん、すかいすくれいぱー君、LD-Yさん。2.お名前は? hironoviewです。 ヒロノブが見ている視界(view)。 「ヒロの」viewとかけてあります。3.おいくつ? 21歳。 ごく最近1歳、レベルアップしました。 ヒゲがほとんど生えません。1週間ほっといても剃らなくてもOK。4.ご職業は? ボウラー(ちがう) 大学生です。独身。 絶賛好評発売中です。5.ご趣味は? ボウリング、歌唱(バンドのボーカル)、絵(元美術部)、作詞作曲。 6.好きな異性のタイプは? 物静かで奥ゆかしい人。でも、会話が途切れてしまわない人。 笑いがわかってくれることも大事かも...。7.特技は? ビブラート。似顔絵。ピングーのものまね。 8.資格は 何かもっていますか? 書道が10段...とかじゃだめなんですかね。9.悩みはありますか? 大阪での大会が近いのに、もうひとつ上昇できない。 国民年金保険料の滞納の届けをだすのがめんどくさい。10.好きな食べ物と嫌いな食べ物 好きな食べ物・・・ラーメン、冷やっこ。(庶民だ 笑) 嫌いな食べ物・・・自分が作った目玉焼き。11.貴方が愛する人へ一言 愛する予定の誰かへ。 すいません、そろそろ、僕の前に出てきてくれませんかね 笑 そろそろ待ち疲れたんですが。12.回す5人の他者紹介をお願いします。 ヒトシロビンソン....他者に振り回されない男。 自分が決めたら、倒れるまでやる。 実際、今、無茶しすぎて風邪ひいて倒れている。 aikoさん........いまどきの大学生。 ...とも言い切れない不思議なキャラクターの持ち主。 芯はあるが、折れやすい、けど立ち直りやすい(どんなだ) すかいすくれいぱーくん...実世界では後姿だけ見たことがある 笑 賢いし、いい子です。音楽性が近い☆ LD-Yさん...険しきローダウンへの道を突き進むお方です。 最近ブログ復帰されましたので、ここらでネタを...笑 4人になってしまいましたが、楽天だとこんな感じでしょうか...。 難しいのです、ネタには困ってなさそうなお方に送るのもまた悪いかなと。
May 17, 2006
最近思うんですが、あくびを手で覆わない女の人をちょくちょく見かけます。そういう人に限って、これでもかってくらい着飾っている。髪の毛は、たとえるならば2対のクロワッサンの如き様相をし、服は「え、どこの貴族?」みたいなのを着ておきながら。これでもか!!ってくらい、大あくびをする。歯医者でもしないような開けっぷり。あくびをするのは全然結構ですよ。体に酸素が足りてないんですもん。ぜひ補給していただいて一向に構わない。でも、全く手でも覆うことなしにそれをしている女の人を見たときは、さすがに幻滅しますよ。昨日の帰りの電車なんですけどね。前に座った小奇麗な子が大あくび。しかも立て続けに二回。ノー・ボーダーな感じに二回。お前...奥歯見えてるよ...と。...『綺麗』の価値観が本質から少しずつ遠ざかってる気がするんですね。深さが全く無い。これは「綺麗」という言葉が、外見だけの呼び名「キレイ」っていう薄っぺらい存在に変わってしまったことに拠るのではないかと思います。確かに「キレイ」な美は、すぐにわかります。外見として、すぐに目につくものですから。反対に「綺麗」という美は、きっとすぐにはわかりません。この場合の「綺麗」はその人の内面の美しさを表す言葉だと思うのです。だから、そう簡単には見れません。この「あくびやセキをするときの手で覆うこと」や、「小さな言葉遣い」だったり、「座り方」だったり。そこからゆっくり見えてくるものが「綺麗」だと思います。今の若い人の恋愛って、とにかく早いんですよね。やれ付き合え、やれ別れようだと。それは多分、評価基準が「キレイ」とか「カッコイイ」っていう外の美の比重が多すぎることに起因します。今の恋愛の手軽さやスピードは、そこから生まれるんでしょうね。でも...いやいや、違うやろ、と言いたい。一回、「綺麗」だとか「格好良い」って字を書いてみればわかるんですよ。カタカナより結構時間かかるのですそんな風に、ほんとの意味で「綺麗」だったり「格好いい」人を見つけることは、時間がかかることなんだ、って思います。...とまあ、あくびから広げてみました笑いかがだったでしょうか。「カッコイイ」って言われる人が実はうらやましかったりする男の子の寂しげな本音でした☆☆笑あっ!...ボウリングでてこない日記ってひさしぶり~(笑)
May 6, 2006
去年は大学の授業が、すごくかったるく思えて仕方なかった時期があった。なんでこんなに面白くないのか、っていう分野もあったがそれは必修の授業でもあったりして、困った。眠たくなったり、もうボウリングいっちゃおうかと思うほど...笑これを打開する策を思いついたんです。それは!先生の近く、教壇の前5メートル以内で授業を受けること最近、数分だけ遅れて教室に入ることがあったんですが、その日は意図せずしてそういう場所にすわることとなったわけです。頑張れば教授のツバも浴びれるくらいのポテンシャルを持つ距離感の位置に座りました。(どんな表現やねん)するとですね......!!けっこう面白いこと言うてるやん...この人。ということに気づけました。それから、なるたけ前で授業を受けるようにし始めたんですが、そうしだしてから価値観が変わりました。それは、どんな分野だろうと同じでした。遠くで聞いていた時はわからなかったけど、けっこう面白いなと思えます。話をする人の目をみて聞ける位置に座ると、その人間の中身がよく見えてきます。みんな誠実です。そういう教授達が、一生をかけて学び倒そうとしているものが、聞いてて「全く魅力的でない」なんてことは、あるわけ無いんだなと思いました。そして、僕自身も語学を勉強して、こういう人間になるつもりです。35歳で「語学の大学助教授・リスタイショートフックプロボウラー」っていう職業に就けたら、もう僕は何も望むものはないです。あと、小綺麗な(綺麗すぎてはいけない)奥さんはほしいけど。ってわけで、今年は、教授のお近くで授業を受けますよ~☆大学つまんね~という方、ご参考にしてみてはいかがでしょう。あと、昨日寝坊して大学の土曜講座を休んだヒ○シロビ...なんとか、っていうボウリング好きの人も参考にするといいですよ(爆)あなたも、35歳で図書館司書プロボウラーになれるといいですね。
Apr 16, 2006
「日本人は、 日本人と韓国人をどこで区別してるのか」こういう疑問が、最近沸いてくる。 日本人と韓国人の外見は非常に似ているけど、 この二つの人種を混同してしまうことって、そうそう無い。 「え、うそやん、お前韓国人だったの?!」 こういうことって、ほぼないと思う。 見たら瞬間で「ちがうな」ってわかる気がする。 一体どこで見分けているんだろうか。 韓国の人は目細いケースが多いけど、だからって、 そこでは決め付けられない。 うちの近所の目細いおじちゃん、別に韓国人には見えないし。 いい人だし(そこは関係ない) 目だとかなんとかいう、パーツの問題じゃないんだな、きっと。 昨日から考えてるが、たぶん明確な答えはないだろう。 ただ、考えられるとしたら、 「故郷を同じくする魂」がお互いを呼び合って、とか、 「日本の血」が反応してその二者を見分ける、とか。 そういう分野だろう。 どーでもいい無駄なことのようで、割に意味がありそう。 こういうのを研究することで、ひいては、 「俺達は仲間だ」「お前らはヨソモノ」とか考える『仲間意識』だったり、 誰かをのけ者にしたり、いじめたりする 「魂」や「血」やらの動きのメカニズムの 解明にもつながったり。 する。かも。 しないかw俺はここで見分けると思うなあ、って意見、どしどしご応募ください☆w
Apr 5, 2006
大学は4月の中旬に始まるので、もう少し時間がありますが、ワタクシ、今年度の上半期の抱負を3つほど、ブログ上に書き記して置こうと思いまする。まず...ひとつめ!「24単位、フルで単位を取る!!」欠席はしない決意で!!そそのかされても授業抜けてボウリング行ったりしない!!ふたつめ!「英検準1級を取る!!」すんごい昔に取った準2級を持ってるんですが、「一回勝負をせにゃあならん時が来たようだ」ということで、頑張って勉強します。「芸は身を助ける」じゃないけど、いつか役に立つときが来る。でもマジで単語とかが異常にムズイw日常生活から離れた単語が出てきやがる...。「小切手に裏書きをする」=[endorse]とかマジで知るかって...。い~や、でもやってやるぞ。みっつめ!ホームで月のアベレージ185!これは絶対に夏までに達成したい。思わず赤字にしてしまった。今ある僕の力としては好調時でアベ180だろう。打てない日の成績も加味すると、やはり月間でアベ170とかになってしまうことが予想される。悪いときでも175、180を基準に考えたい。そのために必要なのは、コースをしっかり突く力である。練習予定としては、大学の授業を開けている時間を2スポットほど作った。さながら「ポケット」と「ブルックリン」のように「火曜」「木曜」というような感じwここを使って「日に10ゲーム×週2回×4週間+α(大会や土日)」で毎月100ゲームくらい投げると予想される。絶対向上させてみせる。これからの課題としては、バックスイングで脇が開かないように、体の近い部分を行き来すること。バックスイングが外に流れると、どうしても正しいラインより内ミスする傾向がある。これは絶対に直す。そして、横回転の成分をボールにちょいと混ぜる練習。曲がりの無いレーンでも戦うには、横回転は不可欠である。...と。3つめにこだわり過ぎましたが...この「3つの目標」をクリアしたあかつきには!!夏に「自分の財力で!!」初めて、新品のボールを買うことにします!やっぱり目標っていうのは無きゃ駄目だ。努力します。
Mar 24, 2006
あまりに書くことがないので、ちょっと過去の怖かった思い出を。あれは、僕が小学生のころでした。家族でショッピングセンターに行った帰りのこと。元気ハツラツオロナミンCな子供であった僕は、家族よりも足早に歩き、最初にその建物から出てきました。そして、駐車場に留めてある我が家の車へと走り寄り、そのドアノブをガッチャガッチャと開けるそぶりをしました。それはもちろんほんとにドアを開けたいわけではなく、「早くかえろー早くかえろー」というような頑是無い子供のアピールなのでした。...と、そのときです!!「おい、なにしとんねや」ものすごいドスのきいた声が後ろで響き、振り返ると、眉間にすっごいあっからさまなスジが入ったおじさんがこちらを睨みつけています。こっちとしては、子供ですしそんなに心臓強いもんでもありません。「おおおお、親を待ってるるるんです」と声を震わしながら返事しました。すると、そのおじさんは「その車は誰のや?!」と。何で愛知で関西弁使うんだよう...とやはり震えながらも、「ううううちのです!!」と返事。そうするとおじさんは、あぶデカの刑事ばりにすんごい渋い声で、「そうかい...」と。...勘違いを、謝らない、っていう。僕を、「子供の車上荒らし」だと疑ってたんですね。そのおじさん、正義感強いのはいいんですが、怖いんですよおお~...。でも、その日以来、僕はノブをガチャガチャしなくなりました、とさ。素敵なマナーをありがとう、怖いおじさん☆
Mar 22, 2006
ボウリングだけじゃないですよ、僕が好きなのは!スキーのジャンプ競技が大好きなんです☆いいジャンプはビデオに取ってまとめてあるくらい好きです。昨日も深夜3時過ぎまで粘ってテレビ見てました。今回のラージヒルでは岡部が8位、葛西が12位、一戸が25位ですか。僕は同い年の伊東大貴に期待したかったんですが...予選落ち。風も悪かったですね...。かなりの追い風で、叩き落されていた。でも、日本選手よく頑張ったと思います。長野では猛威をふるった日の丸飛行隊ですが、スキー板の長さに規制が入ると、一気に失速します。「身長が高い人ほど長いスキー板を使える」という改正はあまりに痛すぎるものでした。岡部などは、身長が165センチしかないため、諸外国の180以上の背の選手から比べれば30センチくらい短い板で飛ばなくてはならない。この不利は非情です。一気に日本はその強さを失いました。しかし、岡部はそんな中で8位。世界で8番目になったのです。立派なものだと思います。個人的には、東輝(ひがし あきら)という選手が僕は大好きなんですが、ここのところ調子が良くなく五輪には出られませんでした。復調に期待です。と...かなりマイナーな話でしたwおしまい。
Feb 19, 2006
数日かけて「国家の品格」という本を読んでました。作者は藤原正彦さん。親父に薦められて読んだんですが、なかなか頷けるところが多く、ためになりました。この本には、日本人は日本人らしく生きるべし、ということが書いてあります。一番なるほどなあと思ったのは、序盤で書かれていた「平等」の考え方。「世界では平等、平等と叫ばれているが、そんなものは綺麗事でしかない。なぜなら、人は生まれながらに差異をもっている。背が高かったり、低かったり、やせていたり、太ってたり、声が高かったり、低かったり、足が速かったり、遅かったり。そういう中で、真の平等なんて、あるわけないじゃないか、と。昔の日本人はどうしてきたか、というと、立場の低いものへの「情け」だとか「惻隠」というものをもっていた。「平等だから」という一言で片付けるのはある意味で非常に突き放した考えかもしれない。こういう心を日本人は忘れるべきではない。」そこに関してはまとめると、こんな感じ。日本人としての、(世界から見て)ともすれば特異と見られる点もちゃんと意味があって、大切にすべきだ、ということ。賛否両論はあるかもしれないけど、僕はこの本、共感できると思った。
Feb 17, 2006
ボウリングの目標ばかり言っていては学生としてどうかと思うので、今年の実生活での目標を。まず、学業。読書。2004年は72冊読んだんですが、去年は半分以下でした。今年はきっちり時間を見つけて読みこんでいきたいです。文学もですが、専攻となる国文法についての考察の本も今まで通り加えていくつもりです。いいですよ。国文法。日本語って主語が無くても会話できる言語なんですよね。「我輩は猫である。名前はまだない」とかっていうフレーズを仮に英語で言おうとしたとき、そこには必ず「I'm a cat. I don't have name yet」とかって、必ず「主語が誰なのか」をいちいち立てないといけない。でも、日本語ではこの必要が無い。話の流れで、誰がこの主語にあたるのかがわかり、「当然のもの」とされ、表記しなくてもいい。省略が可能な言語は、高性能なものだと思います。他にも、日本で、ぱっと配られたチラシなんかを見るとそこには漢字、平仮名、カタカナ、ローマ字、数字。文字のごった煮です。これだけ色んな文字の種類が同居する国も少ないっていいます。...とか、そんなとこを切り口に、文法的角な度からみた言語の特徴だとか、類似する言語だとかの勉強をするつもりです。今年はwで、他のトコの目標ですと、ここのページでもたまに語る「バンド」の成功です。まあ、バンドって言うか「音楽ユニット」くらいのほうが適切な気がしますw出来るだけ心に届くいい歌を歌っていこう、と。作詞作曲も再開させてみようかなと思います。そうですね...恋愛面も、まあ、たまにはw「本気なときだけ、がんばろう。」まあ、こんな感じでしょうか?wなんか最近の人は間違ってる。独りが不安だと、すぐ誰かにその場しのぎの愛情を求める。そして、満たされることは、飽きて別れることに直結する。恋愛を一人でするモンだと思ってるんだろうか。恋愛はいつも二人対戦です。自分のしたことは相手が受け止めるんです。自分だけが楽しい悲しいとか言ってるわけじゃない。向こう側にはいつも相手がいるんだよ、と......なんかうまいこと言った感触が非常にありますがまあ人間って、時には一人でいることも重要だと思う。誰かを傷つけてまで恋愛するくらいなら、好きな人がいなくたっていいと思うしね☆てかみんなさあ、恋以外にやりたいことねえのかとwツッコみたいですねw要するにまあ、そう...こう...チカラあまってるんなら、ボウリングを始めろよ☆と!!(ちがう)でも、相手の楽しい人生の迷惑になるのだけはヤですね...。と、今年の目標から大分逸れましたがwまあ、大切に生きるつもりです。最近、「生きること」について考えてる答えが出てきたのでまとまったらここに書こかなと思います。
Jan 2, 2006
小学生の頃、僕はサンタクロースが実在すると信じていた。遠い空のかなたには、ヒゲのもさもさと生えた爺さんが住んでいて、12月の24日夜には、飛行するトナカイを操り、僕の家に来るものと、信じて疑わなかった。12月になると母親は、「サンタさんは見ているよ。そんなことをしてていいのかな。プレゼントはもらえるのかな」などと、巧みに話術を駆使しプレゼントをダシにし、僕を統制していた。こちらとしては、死活問題だ。行動のひとつひとつがプレゼントの質に関わってくる。気が気ではない。サンタが実在するものと信じ込ませることで、僕を1ヶ月弱押さえ込むことが出来るのは確かに、上手い戦法だったといわざるを得ない。母親は毎年、僕に、「今年は何をお願いしておこうか?いろいろ小物類を詰め込んだ、ミニミニセットってのはどう?」などと言うものだった。純粋無垢な僕は、笑顔で「うん!」と応えるのみだった。母親は「頼んでおくよ」とだけ言った。そんな12月を「良い子」で過ごした僕にいよいよ24日がやってくるわけだ。「サンタは深夜にやってきて、玄関で親にプレゼントを渡す。受け取った親が、それを僕の枕元に置く」これが、幼い僕が信じ続けていたいわば「サンタの方程式」だった。当日、僕はいつも10時ごろ布団に入った。サンタが来るのだ、早く寝なくては。そう、早く寝なくては。強く強く思っていた。何故かというと、僕にとって、「サンタの姿を見てしまう」ということは、絶対に犯してはならないタブーに思えた。僕は心の隅で...といわずド真ん中で「サンタ=怖い外国人」のような設定をしていた。彼は、僕が起きているのを確認し次第、未知なる言語を叫び、怒鳴りつけてくるんじゃないかと思っていた。「HEY!?THIS BOY IS STAYING UP!!」(ああ!?このガキャ起きとるやんけ!!)くらいのことを言うだろう、と。「親御さんよ、どう責任とんねや?」「ワイらの業界、姿見られたら終わりや、ゆうとんねん」「寝かしつけとく~ゆうて呼んだんはそっちやぞ?あ?」「プレゼント?...やれへんな。そりゃあやれへん!」くらいザクザクと言ってくるかと。...今思うと怖すぎる。ヤクザサンタである。消費者金融の取立てでも、初めはもうちょっと優しいくらいのものだ。(知らないけど)そういう意識があったから、無意味に怖くて仕方なかった。早く寝なきゃ早く寝なきゃと思うのだが、プレゼントへの興奮と、サンタへの恐怖でカラダは堅くなり寝ることができない。時計の針の音が大きく感じられる。11時...11時半...12時...目は「ギンギラギンにさえまくり」である。たまに親が様子を見に来る。今聞くと、いつ行っても寝てない子供を見て、「早く寝ろよ~私たちもプレゼント置くまでは寝れないじゃん」という気持ちだったらしい。マジでごめんよwそんなこんなで深夜2時ごろ(おそっ!!)ようやく眠りに落ち、僕は翌朝プレゼントの箱を枕元に見つけることとなる。「うわあい!超武闘伝だ!!(ドラゴンボールw)」とかなんとか言いながらw4年生くらいになり、僕もサンタ=親だということを知るようになる。思えば、学校で聞いたような気がする。確か、友達の一言だった。「うちの親が昨日プレゼント買ってきて渡した」とかいう台詞w「え?ん?今なんて?」「pardon please」である。当時それはそれはショックだった。まさにディープインパクトだった...。夢も希望もなくした。きっと、そうやってみんな、世の中の「夢なき風」に当たってサンタの真実を知っていくんだろうな。でも、少なくとも僕自身はその「風」になりたくはないと思っている。だから、この季節。僕はクリスマスの話題になると、塾のガキンチョ生徒に対して、こう言う。「サンタのおっちゃん、何くれるかなっ?」...と。おしまい☆
Dec 25, 2005
そういえばっ!!!「ドラえもん」が新しい声優になってから一度も番組見てないぞ!!!金曜の夜、毎週講師のバイトしてる僕としては、テレビの前に座ってることが不可能です。しかし、一日くらい、一回くらいそんなことがあってもおかしくはないのに。見ていない。ドラ公のヤツ、今はどんな声なんだろう。そして、「ドラえもん」という着ぐるみを剥がされた大山のぶ代は一体どこに再就職するんだろうか。(または、したんだろうか)非常に気になります。だみ声でほんやくこんにゃくおみそあじーとか言ってるイメージしかないからな。なかなか声優としては使いづらい部類に入るかもしれん。
Dec 24, 2005
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ちょっと、これ来た。長年考えてきたことの答えが出た!「車内で本を読むと酔うのに、電車内で本を読んでも酔わないワケ」この答え。前から不思議だな、どこが違うのかと思っていたが多分これだ。「電車はカーブが少ないから!!」これ、じゃないですか。人はカーブで酔うんですよ、きっと!w昨日不意に電車内で「はっ」と思いついて、ブログ内で書いてみたw管理人は、こういうわけのわからないことを日夜考えております。今後ともよろしくお願いします。
Nov 27, 2005
最近、これまで買い続けていた某漫画を全巻ブックタウンに売りさばいた。それは、少年誌の漫画なのだが、多少「ぐろてすく」な表現があったりして、それについては前からいい気分はしなかった。が、面白いことは面白く、ずっと買い続けていた。読みながら、買うのやめようかな、などと迷ったりしていた。そんな中、キッパリ「読むのをやめよう!」と決意させたのは、親のひとことだった。「自分の子供に読ませてもいい漫画を、自分も読まなきゃダメだ」...ちょっと、いい言葉だった。なんか、スカッとした。「負けたぜコノヤロウ!」と即日、売りさばいた。確かに、この本を、将来の自分の息子、娘に「読んでごらんよ☆」とは言えん。...ちょいとこれは出来ん。「子供に読ませたい漫画」そういう観点で見てみると...、ラインナップされるものに最近の漫画は少ないかもしれない。なぜかという理由を考えると、「ストーリーにおける善悪がはっきりしないから」だと思う。殺人とかしてる側を、「悪」として決め付けない。漫画によっては、それが主人公で、「正義」として扱われる。これって案外危険なことかもしれない。価値観の備わっていない子供達は読みながら、世の中で一体、何が正しいのかわからなくなる。漫画という文化が最近の若者犯罪の一端を担うような気がしてならない。ところで...完全に善悪がはっきりしてる格闘漫画って「ドラゴンボール」くらいしかないような...wあれはわかりやすいもんね。悟空は誰が見ても「イイ者」で、フリーザは誰が見ても「ワル者」の色してるしね。(カラダ紫ってw)これなら子供にも見せれるね!wよし、将来はドラゴンボールで子供の善悪の感性を養おう。「こういう紫のアタマをした人とは仲良くなっちゃだめだよ」「はあい」みたいなw(↓将来、教育上「ワルモノ」の代表例になることが決定した人)
Nov 23, 2005
あんまり最近ボウリングの話ばっかりしすぎたのでここらでひとつ「思うところ」を。こないだ、込みあった電車の中であるカップルを見かけた。彼氏さんはちょっとだけワルそうな感じで、満員電車の中で自分の彼女をしっかり守っていた。と、いうところで少し電車が傾き、ある男性がフラついて彼らの方へ。激しくぶつかった、というほどではなかったが、その彼女にちょっと触れた。すると、彼氏はすっごい睨んでいた。ほんとすっごい睨んでいた(2回言っちゃったw)それを見ていて思った。大切なものを守ろうとする気持ちは「優しさ」だ。だけど、大切を守る過程で、誰かを傷つけてしまったとしたら。これは「優しさ」なのかな、と。...違うんじゃないかと思う。いや、絶対に違う。その一人を守るために、ある一人が傷付くなら、きっとそれは本当の優しさではない。大切な人を守りたい気持ちはよくわかる。でも、見ず知らずの人も、同じ人間であることに変わりは無い。同じように嫌ったり、傷つける理由はどこにもない。僕はこの全てを踏まえて、「優しさ」とは「あなたの隣の人の幸せも、心のどこかで願えること」と定義した。勝手にwでも、これが本当の優しさではないかと思う。小学校2年の時、教室の後ろに確かこんなような張り紙がしてあった。「優しい人は強いのよ」なんで女口調かは知らないが、(担任が女だったからかな?w)まさにその通りだと思う。優しくあるためには強くなければならない。ともすれば、自分のことで精一杯になってしまう人生で誰かの幸せまで願うのは、大変な強さが要る。でも、僕はそうなりたいと思っている。なってやるぞ太字で決意表明だ☆
Nov 21, 2005
今日、家で飼っている犬が亡くなった。原因はガン。大型犬にしては9歳という高齢だったのも原因の一つだ。命はいつか消えるものである。この世に生まれてきて、消えることのない命というものは無い。ひとつとして、例外は無い。その意味では、この犬も、僕も、そしてこれを読んでくれている皆さんも同じ運命を持って生きている。でも命の消える時、言ってしまえば心臓が止まる時に、その存在はこの世から消えうせるのだろうか?僕は、そうではないと思う。たとえ、目に見える姿は無くなっても消えないものがある。それが、魂だ。魂は、決して無くならないものだ。魂は、身体を動かしている。逆に言えば、身体は、魂によって動かされているものだ。だが、残念ながら身体は、永遠では無い。だから、失われる。それが速いか遅いかの違いだ。カゲロウの身体は数日で存在できなくなる。セミの身体は、成虫になって1ヶ月で存在できなくなる。カブトムシの身体は、一年で存在できなくなる。イヌの身体は10年で存在できなくなる。そして、人間の身体は80年で存在できなくなる。みんな、差はあれ、行く先の決まった道ではある。身体は滅びるものである。でも、そうやって身体が滅びれば、その存在の全てが消えたことになるのだろうか。何もかもが、ゼロになるんだろうか。地球はただ、そっくりその命を引いた形で明日からも回るのだろうか。それは、違う。僕は、違うと信じている。魂だけは、絶対に無くならない。全ての魂は、存在し続ける。消えた命に対して何が出来るのだろうと考えるとき、きっと、それは祈ったり、想ったりすることでしかない。それは辛いことだ。でも、それは今、命ある者の宿命だと思う。受け止めることが、ただひとつ、出来ることだ。寂しくないといっては嘘になる。でも、今、僕は穏やかな気持ちでいる。アイツの魂はこれからも一緒だ。僕の魂とともに、生き続ける。そうやって、きっとこの世の全ての魂は、繋がってゆく。
Nov 9, 2005
あれは10月初めのことだったか、自転車に乗っていてケータイを落としたことがあった。その日は雨が降っていた上に、帰ってすぐバイトがあったし、泣く泣く探し途中で家に帰らざるを得なかった。大体どこら辺に落ちてるかはわかったのだが、いかんせん暗くて何も見えない。悪用されるのが一番怖かったので、すぐに回線を停止し、次の日も探したが、見つからない。仕方なく、「新しい機種にするか...」と入ったボーダフォンショップで、事情を説明すると...なんと!!「その型のケータイなら昨日とどきましたよ!」と店員。見てみると、まさしくそれは僕のケータイ。壁紙にはよく行くラウンド1のロゴ!!w(壁紙にすんな)聞けば、「今朝早くに散歩をしていたおじいちゃんが拾ってくれた」とのこと。確かに落とした場所からショップは目と鼻の先。ほんとにありがたかった。日本の老人...最高!!ココロ綺麗!!人間て面白いもので、一人いいと全部よく見えるのが不思議!!wよく、学校の先生が、「一人が悪い行動をとると、学校全体のイメージが悪くなる」っていうけど、あるんだね、ほんとに。数千万いる老人全体のイメージが、一人のおじいちゃんの善行で一新しました。いや~...ケータイのメモ欄に書いてた作詞とかを高校生とかに見られなくてよかったw
Nov 6, 2005
やるならもっとハッキリ言えよ。昨夜遅く更新しようとしたら、「メンテナンス中~」みたいになってかなり長い文が泡と化した。「命とは何故限りがあるか」っていうクソまじめな話をせっかく書き終わったのに...。もう絶対に同じものを打つ気にはならん!!w
最近、外見について少し考えることがあったので、ここに記しておこうと思う。一人の人間の心はひとつである。でも、外見はひとつではない。最近、こういうことに気づいた。どういうことかというと、中身自体には全く変化がなくても外見は個人の意志でいくつも増やすことができる。という意味だ。人間を本に例えるなら心は書かれた内容であり、外見が果たす役割は「本のカバー」みたいなものでは思う。本の場合、流行の芸能人など表紙にすれば、若者に手に取られる機会が増える。が、同時に年輩の方は手を出しにくくなる。渋~い表紙にすれば、若者の手には取られづらくなるが、逆に年輩の人からは支持されやすくなるだろう。書いてあるもの自体は全く同じでも、外見の差というものは、引き寄せる対象を大きく変える。それは人間も同じで、「茶髪だと若者層に好かれやすく、黒髪だと年輩に好かれやすい」ことだったり、「中日のユニフォームを着てナゴヤドームにいると中日ファンに好かれやすく、阪神ファンに嫌われやすい」wだったり...ということはきっとあるだろう。仮に、その人が本当は阪神ファンだったとしても外見で、そういう受け取られ方をする。その人自体の人間性、内面、ものの考え方には全く変化はなかったとしても、外見次第でかなり違ったものとして捉えられるということだ。この点で、人間と本は極めて似ている。最も自分が受け入れてもらいたい人たちに好かれるだろう外見になることで、比較的意図したとおりになる場合が多い。外見は「なりたい自分」への価値観が現れではないだろうか。(後日補足する可能性大w)
Nov 3, 2005
最近、自分の個性を主張して、他人と似かよることを嫌う人が多い気がする。「これが俺のオリジナリティだ」というのをおおいばりで主張する、そんな傾向が強い。確かに、自分の考えを持とうとする姿勢は素晴らしいことだと思う。だが、基本があってこそ引き立つのが、独自性だということをどこかに忘れてしまっていはいないかと思う。たとえば、奇抜な絵で知られる画家のピカソ。彼も、はじめからあんな「横顔なのに目が2個」みたいな絵を描いていたわけではない。若かりしころは、基本にのっとったきれいな絵を描いていた。一本足打法で知られる「世界の王」こと王貞治も子供の頃からあんな打ち方をしていたわけではない。一流な人ほど、基本がしっかりしている。だから、どんなときも根元からは崩れない。基本をしっかり学び、その上で自分なりの工夫を加えること。それが本当のオリジナリティではないだろうか。皆さんの住んでいる家はいろいろあるだろうが、おそらく「地盤」はどこも変わらないだろう。緩んだ地盤にはいい家は立たない。人間も、同じことではないだろうか。基本に俺流なし、である。
Oct 31, 2005
最近、髪の毛を染める人をよく見る。むしろ大学では、染めてない人のほうが少ないぐらいだ。ちなみに階段教室の講義で、一番後ろの席に座ってみると前のほうほど黒髪が多く、後ろの方ほど茶髪が増えてくるのが面白いwでも、今日の書き込みでは「黒ほどまじめ」「茶ほど不真面目」とかの俗説を言いに来たわけではない。僕がいいたいのは「黒髪をもっと愛してみて!」ということだ。頭からこんなにかっこいい、渋い色が出てきているのにわざわざ塗り替えなくてもいいじゃないか、と。一回落ち着いて考えてみよう。「...黒ってカッコいいじゃないか」そう、黒は、僕ら「日本の色」じゃないか、とw茶といったら、それは明らかに外国人の髪の色だ。「私、外国のこういう文化が大好きなんです」とか「この色が、自分のラッキーカラーです」とか、そういう理由があってしているのならまだわかる。だが「流行だからとりあえず茶にしとこう」はどうなんだろうと思う。外国人で日本の黒髪を真似したがる人って日本ほど、というかほとんどいないように思う。僕には、それが彼らの、自分の国への誇りに感じられる。外国人たちから見たら日本人は滑稽なものかもしれない。「ニポン人は俺タチの真似シテイルよ」「キット俺らに憧レテイルンダヨ、ハハハ」とかっていわれてるんじゃなかろうか!!!wなんか...むかつかないか?!w彼らに「ニポンの人のカミの色マネシタイデス」とか謙虚にいわせた末、美容室で正座させるまでは僕は、誇りをかけて黒髪でいたいと思う。(別に正座はしなくてもいいが)意地をはりたいのではない。いや、多少は意地かもしれないが...ただ、そんなちっぽけな抵抗でも「日本人として生きてゆく」ことに繋がっていたい。耐え切れなくなって、時代の風にフッとばされてしまうまでは...。
Oct 24, 2005
あれは小学4年の頃だった。私の家の近くには大きな竹やぶがあった。外側から見るとそれはただの竹やぶなのだが、その竹に囲まれたずっと奥に、クヌギ林があった。毎年夏になるとそのクヌギの樹液にたくさんの昆虫がやってきた。カブトムシ、ノコギリクワガタ、コクワガタ、スジクワガタ、カナブン...と本当にいろいろな虫がやってきた。中でも、昆虫好きな子供達の人気が高く、ひと夏に一匹ぐらいしかとれなかったのがヒラタクワガタ♂だった。50ミリを越す黒光りしたそのボディ。(何故か見つかるのはでっかいのばっかだった)そしてなんといっても大きなアゴ。ここは、「オオクワガタが生息していない」とされる地域だったので子供たちの中ではヒラタはオオクワに形が似ているし「簡易的なオオクワガタw」のように見られ価値は非常に高かった。当時の私は将来は昆虫研究家になろうと思うほど虫が好きだった。愛する気持ちは負けていなかったのだが、どうしても採集はうまくいかなかった。...というのは私は、足が遅いほうで、そのポイントとなるクヌギ林にどうしても友達より遅れて到着する形になってしまっていたからだ。樹に着くのが遅れるというのは、致命的だ。もうエモノは採られてしまっているからwじゃ、なんで一人で密やかに行かないんだ、とはいうなかれ。子供独りであの鬱蒼とした竹やぶに分け入って行くのはかなりの勇気がいる。もし段差から落ちたら、もしヘビかなんかに噛まれたら「マジ死に」さえも考えられた。「友達と行く」というのは安全の為にも犯してはならない掟だった。そんな、ある夏の日のことだ。いつものように友達とその竹やぶに入った時のことだ。その日、一緒に林に入ったのはやはり私より足が早い友達。案の上、その樹に遅れて到着しようとした私の耳に「おったあああ~!!!」という友人の絶叫が届いた。駆け寄ると、その友人の手には夢にまでみるヒラタクワガタが(しかもでかい)しっかと握られているではないか!!ヒラタのヤツはまさに「生きているダイヤ」のように見えた。世界一魅力的だった。そういっても過言ではなかった。私は悔しかった。本気で悔しかった。顔では「よかったね」と笑いかけながら心では嫉妬の炎が燃え盛っていた。ほしいほしいほしいほしいほしいほしい!!!!そして、10歳そこらの小さな大脳で考え続けていた。「何とかしてコイツからこのヒラタクワガタを奪えないものか...!」とwそして、その友人がビニール袋にそのクワガタを入れて帰っていたことから、ある作戦を閃いた。その作戦とはこうだ。「帰りにそいつを自宅に寄らせ、そのクワガタ入りのビニール袋は玄関前に置いておかせる。頃合を見計らって、自分はトイレを装い一人玄関前へ。そしてクワガタをかすめ取り、人目つかない場所へ隠す。ビニール袋には、クワガタが開けうる様なサイズの穴を開け脱走したかのように見せる」「絶対勝てる!!」私は思った。そして...。作戦は完璧に遂行された。彼が、破られたビニール袋を抱え、残念そうな顔をしながら帰って行くのを大きな罪悪感と、それにも負けない大きな達成感を胸に、私は見送った。それから始まったのは、友人に見つからないように隠しながらのヒラタとの共同生活だ<バカ楽しい毎日だった...。w今、思い出だすと「死んだほうがいいな、俺」とさえ思うが、当時、それくらいの熱が昆虫に注がれていたといえる。今の子供が貴重なポケモンを追いかけるのと全く同じ気持ちがそこにあった。現在、そのヒラタがいた竹やぶはお年寄りのリハビリセンターになっている。が、ありし日の竹やぶは淡い思い出とともに、一生、私の心に残り続けるだろう。そして、そのヒラタクワガタは2年生きた末に亡くなったが、今も標本として、輝きを放ち続けている。(あと本当にその友達には頭を下げます。申し訳ありませんでした。)
Oct 22, 2005
私は生まれつき運が良い方だ。知ったこっちゃないだろうが、そう思う。私が小さかったころ、家族で旅行に行ったことがあった。旅行先で、祈とう師さんに会うことがあり、占ってもらったところ、「この子はすごい強運を持っている」と言われたそうだ。すると、それを聞いて私が「ニッ」と笑ったらしいが、占い師さんによると、「今のはこの子ではなく、この子の守護霊が笑ったんだよ」と。守護霊が、本当に喜んで笑わせたかどうかは知るところではないが、確かに運はいいと思う。大きな勝負どころで、いい目が出る。が、面白いことに、小さな運には見放される傾向にある。たとえば、「あの服はどこに入れたっけ。確か、この二つの棚のどっちかだ」という時や、「この道は右だったかな、左だったかな」というような、大して重要ではない日々の選択は、ことごとく外す。運なんてものは、すべて足すとみんな同じという説がある。多分私は、日々、運をまったく使わないので貯めといた分で、いい目を出せるのかもと、最近思う。
Oct 11, 2005
道を歩いていると、たまに、ずーっと目が合ってしまう人に出会うことがある。もちろんお互いに知らない同士だが、何か不思議と目を離せず、横を通りすぎるくらいまで見てしまう事がある。誰だって少なくとも一度や二度はこういう経験があるだろう。また、狭い道を歩いていて、人とすれ違うとき、お互いに「相手を避けようとする方向」が何度も重なって結局ぶつかりそうになって足を止めなくてはならないことがある。これもきっと経験があると思う。ちょっと気の短い人だと、前者は「あ?何見てんだコラ」となり、後者は「あ?チョロチョロすんじゃねえよ」と、(口に出しはしなくとも)思ってしまうだろう。でも僕は、そうは考えない。僕は仏教徒ってほどではないが、所々、信じているものがある。そのひとつに、輪廻転生という「命は違う命になり、つながってゆく」という考えがある。これは、すべての生物は、今の人生が終わっても、記憶等を失ってまったくの別の命があたえられる、ってことらしい。割と、これを強く信じているw加えて、記憶自体はなくなってもなんらかの形で前の体のなごりがカケラくらいは今の体に残るんじゃないかと考えている。目が合ったりするのは、この「なごり」のはたらきじゃないかと思う。仲がよかったお互いの記憶のかけらが、視線をなんとなく合わす。合わせたくもない「避けたい方向」を、同じにしてしまう。そうは考えられないだろうか。今なお消えない旧知の仲が、僕らに不思議な交錯を与えるのではないか、と。そんなふうに「きっと前世で自分とゆかり深かった人なんだな」とか思ってみると、全く怒る気になんてならなくなる。一度お試しあれ。今朝も、そこらの小学生となんか目がすごい合った。彼の前世、僕が小さいころ世話するの忘れて殺しちゃったカブトムシとかだったらすごいヤダなあ...。頼むから僕を見んといて~...。
Oct 7, 2005