カテゴリ:国内旅行
4月25日~26日、千葉県富津市の富津岬へ泊まりで行って来た(その2)。 富津岬の突端にある展望台の観光ならびに浜を歩く観光を終えて、岬の基部に近い場所にある富津元洲堡塁砲台跡を見学する。 アルファベットの「D」の字型をした人工構築物。城跡のようにも見えるが、これが堡塁砲台である。 富津岬は東京湾要塞を構成する要塞地帯と一部として、昭和20年の敗戦まで民間人の立ち入りが厳しく制限されていた。昭和の時代、敵は空からやってきて容赦なく爆弾の雨を降らせていった。明治時代初期に造られた日本の要塞は、専ら敵の船舶を撃攘するように設計されており、本土へ侵入を企図するB29をはじめとする敵航空機に対しては全くの無力、役立たずであった。 東京湾要塞は対岸にある三浦半島の砲台群と連携して、東京湾に侵入せんとする敵軍艦等を砲撃する能力を有していた。富津元洲堡塁砲台は、万が一敵が上陸してきた場合に備え、一定の城塞としての機能も有し、敵船舶への砲撃だけでなく、上陸軍に対する砦でもあった。 もっとも幸か不幸か、敵船舶、敵兵に対して実弾一発を発射する事も無く敗戦を迎えているそうである。 砲台の周りは濠で囲まれている。コンクリート造りのちょっと瀟洒な橋は戦後の建設。 濠の周りは桜やツツジが植えられており、日本の標準的な城跡と同様である。 堡塁への正面入口。両脇の石垣は創建時のオリジナルであると思われる。 堡塁内には棲息掩蔽部(弾薬庫等の地下施設)があった筈だが、観光地化された際に埋められたのか入口すら判らなかった。 堡塁内に建つ展望台から砲座跡を見る。円形の砲座が残されている。砲台としては大正4年に時代遅れとして廃止になったが、最盛期には二十八榴×六門、十二加×四門が装備されていたとの事。 同じく展望台から岬の先端方向を見る。写真中央部かすかに明治百年記念展望塔が見える。 岬の北側。木更津方面の工業地帯が見える。 岬の南側。こちら側だとさすがに工場は見えない。 富津岬の要塞地帯は、砲台廃止後は伊良湖岬(愛知県)同様に射撃試験場などとして用いられた。 砲台跡を見終えて、今宵の宿へ向かう。半島にまっすぐ延びる一本道はツツジが綺麗であった。 旅館富津岬荘の看板。 同じく富津岬荘の玄関。 この旅館は公共の宿なのか、宿泊料金がとても安かった。写真奥の刺身は別注品だが、標準の夕食だけでも名物あさり釜飯、あさりの酒蒸し?、魚の煮付け、穴子他の天麩羅などと充分満足出来る内容であった。 おいしく夕食をいただき、露天風呂も含めた浴場(温泉では無い)も楽しんだ。 宿の屋上から夜景をみたが、写真に撮ってみると何だか良く判らない。 泊まった富津岬荘は陸上部の合宿施設として有名らしく、箱根駅伝優勝の青学大などの色紙が飾られていた。また庭にBBQの設備も有しており、合宿にも好適である。 (次回に続きます) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年04月30日 20時49分06秒
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