近江紀行(その3)
12月21日~22日、滋賀県の長浜市と近江八幡市を散策してきた。(その3)雨で体が冷え切り、観光を途中で打ち切って、近江八幡駅前のホテルへ投宿する。夕食は駅前の居酒屋で一献する。近江八幡市は謀反の疑いを着せられて僅か28歳で切腹させられた豊臣秀次が開いた城下町であった。秀次は善政を敷き、町発展の基礎を造ったと言われている。その後、江戸時代は近江商人の街として発展した。また、かつては水運が発達し、水郷の街としても知られており、現在は観光用の水郷めぐり船も運航されている。(潮来、柳川などと類似)明けて22日、この日もあいにくの雨。駅前より近江鉄道バス長命寺線に乗って大杉町で下車する。近江鉄道は西武グループ傘下らしく所沢近辺を走っているバスと同じ色でライオンの顔も描いてあった。最初に白雲館へ行く。明治八年に学校として建てられた擬洋風建築とのこと。松本の開智学校、磐田の見付学校を思い出す。現在は観光案内所となっている。白雲館の二階から道路を挟んで向かい側にある日牟禮八幡宮を眺める。近江八幡市の名称の由来にもなった古社である。八幡神社の脇から、八幡山(城址公園)へロープウェイで上がる事が出来る。あいにくの雨天のため、山へ行くのは止めにした。江戸時代の面影を残し、八幡宮前を流れる八幡堀。濠一帯は景観保全地区となっている。メンターム(メンソレータム)で知られる近江兄弟社。製薬業の他に学校、病院等も運営している。ウィキペディアに依ると、一度倒産し、メンソレータムの商標はロート製薬に引き継がれた。再建後はメンタームの商標を使用しているとのこと。近江八幡と言えば、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ抜きには語れないようで、この近江兄弟社もヴォーリズが創業した。建築家としては教会を中心とした数多くの洋館を手がけた。建築家、実業家、伝道師などの顔を持つ多彩な人物であったらしい。景観保全地区となっている新町通り。八幡宮前の市街地は碁盤の目のようになっており、計画的に造られたのだろう。(次回に続きます)