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「すべてを疑え」を座右の銘に

秀0430さんの日記より

表現の自由 (6) 04月15日(木)

今朝もまた大きなニュースが飛び込んできた。イラクで、さらに日本人二人が拘束されたというのである。しかも、またしてもジャーナリストだった。そして、二人ともフリーのジャーナリストだった。

「<イラク>日本人2人がまた拘束の情報 外務省など確認急ぐ」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040415-00000164-mai-int

この二人に関して、やはり「自己責任」というようなことが言われているが、世論はかなりこの方向に流れているように感じる。「日本人人質事件が起きた後の小泉内閣の対応について、どう思いますか?」というヤフーのアンケートに関して、100点だと答えた人が最も多く34%を占めている。おおむね評価していると考えられる80点までの人を含めると56%の人が支持をしている。

このアンケートに関しては、次のところで見ることが出来る。

http://polls.yahoo.co.jp/public/archives/589105065/p-topics-43?m=r

逆に0点と30点という批判をする人は、33%になっている。この調査は、信頼できる世論調査のように、無作為に抽出したものではないので、そのまま世論の動向ということは考えられないけれど、積極的に声をあげる人の意見は、政府の対応を支持していると考えられるかもしれない。積極的な人たちの声がそのような方向だと、それに反対する声はますます表に出にくくなってくるかもしれない。

しかし、この「世論」の動向というのはちょっとおかしいのではないかと僕は感じる。世論というのは、どれくらい情報が与えられているかで大きく揺れるものである。重要な事実が知らされていて、その事実をもとにして判断しようとするなら、世論の動向というのは正しい判断の方向を選択することが期待できる。しかし、情報が制限されており、そこに操作されているということが感じられるときは、情報を操作する側に都合のいい世論が形成される可能性がある。

アメリカがイラク侵略に踏み切ったとき、世界中が反対していたのに、アメリカ国内ではそれを支持していた。アメリカでは、イラクへの侵略の面の報道がいっさいなされなかったからだろうと思う。

今回「自己責任」と言うことが語られているのを僕がおかしいと思うのは、この言葉によって、政府が救出の努力をしないことを免責するようなニュアンスで語られているからだ。結果として最悪のものが出てきた場合に、それだけの覚悟をして、報道というものに命をかけていたのだと言うことから「自己責任」という言葉が語られるのなら理解できる。しかし、この時点で「自己責任」を語るというのは、政府の責任逃れを容認することになるのではないか。この時点では、政府としては、出来る限りの努力をして救出に当たるべきなのではないだろうか。

「中傷 家族追い討ち イラク邦人人質 匿名社会 陰湿さも」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040415-00000020-nnp-kyu

という記事を見ると、逆の意味での「表現の自由」が行使されているのを感じる。政府を批判する方の声は、「自己責任」という声でその表現を押さえつけようと言うことを感じるが、拘束された人質やその家族をバッシングする表現の方はやり放題という感じで、無法状態という感じさえ受ける。この記事では、

「十五日で発覚から一週間になるイラクの日本人人質事件。依然、解放の見通しは立たず、心労深まる三人の家族に、心ない中傷や嫌がらせが追い打ちをかけている。「自業自得だ」「自己責任で何とかしろ」―。励ましの声や折り鶴に交じって電話や手紙で届く非難は、大半が匿名か正体の分からない団体名のもので、“匿名社会”の陰湿さも浮き彫りにする。周囲からは「まるでいじめだ」と憤りの声が上がった。」

ということが報じられている。批判というのは、どのようなものでも表現の自由があると思う。しかし、それが責任あるものであるには、匿名ではなく責任を持った主体であることを表明する必要があるだろう。上に報じられているものは、内容的にも批判と呼べるものではなく、誹謗中傷と呼ぶべきものだろうと思う。

「嫌がらせもはや犯罪

 酒匂一郎・九州大大学院法学研究院教授(法哲学)の話

 家族に対する匿名の嫌がらせの電話はもはや犯罪に近い。家族が求めた自衛隊の撤退を「理由がない」とあっさりと拒否した政府の姿勢が、社会に対して、家族を攻撃する“お墨付き”を与えてしまったのではないか。背景に、個人よりも国家を優先する社会的傾向の強まりを感じる。」

という話では、政府の姿勢を問題にしているが、それをそのまま垂れ流して報道するメディアの責任も大きいのではないかと僕は感じる。「非国民」を作り上げて、それをバッシングする雰囲気を作ることは、表現の自由を守ることにはつながらず、やがては表現の自由を失う道につながるのではないか。かつての戦争の歴史はそれを教えているのではないかと感じる。

「会見でも謝罪が先行

 ジャーナリスト・大谷昭宏さんの話

 精神的に家族が追い込まれ、会見でも謝罪が先行している。家族に「今でも自衛隊撤退を求めるか」と尋ねたが、以前と違い、明確に答えない。撤退要請を圧殺しようと、組織的な嫌がらせがあったのではないか。これでは民主主義国家とはいえない。」

大谷さんの意見に全く同感だ。今の報道の状況は、民主主義国家のものとは言えないのではないかと、僕も思う。民主主義国家なら、自衛隊撤退という意見も、言論の自由として、表明することは許されるはずだ。それに対して論理的に反論し、真っ当な批判をするのなら、同じ言論の自由だ。しかし、悪口雑言でそのことを口にすることを非難するのは、言論の封殺に他ならないと思う。

「いじめやすい人狙う

 評論家・樋口恵子さんの話

 憂さ晴らしをしたい人がいじめやすい人を狙っている。目立つこと、自分にできないことへの一種のねたみだろう。苦しんでいる被害者をいじめるとは本当にひどい。」

樋口さんの感想は、日本の教育のゆがみがこんな形で出てきているのかなと、教育という仕事に携わっている人間としてはそんな感想を持つ。ねたみというのは、いつも競争相手を意識していなければ生まれてこない感情だ。勝ったとか負けたと言うことを気にしないのなら、誰が、どれだけ素晴らしいことをしようともねたみということを感じない。素晴らしいことをそのまま素直に素晴らしいと思うだけだ。ゆがんだ競争原理に毒された日本の教育が、このような社会の雰囲気を生み出してしまうのではないかというような感想を僕は持つ。

表現の自由という問題では、多くの人の日記でも指摘されていたことだが、人質事件の最初のテレビ報道の映像が、アルジャジーラで流されたものの一部をカットしていたという問題がある。神保哲生・宮台真司の「マル激トーク・オン・デマンド」でもそのおかしさを指摘していた。映像そのものが、一般に知らせるにはあまりにも残虐で目を背けたくなるものだったら、それなりの自己規制をするのも分かるが、あの映像に関しては、カットしたと言うことには他の意図が感じられるというのだ。

それは、ナイフをのど元に突きつけられている緊迫した場面の映像だった。彼ら3人が、いかにイラクの人道復興支援に努力した人間であっても、すべてのイラク人がそのことを知っているわけではない。毎日大量のイラク人が殺されている中で、殺人者であるアメリカを支持している日本人として3人を見ているイラク人が、感情が高ぶって乱暴なことをするのではないかという危惧を抱かせるような映像になっている。その映像がカットされていると言うことは、事件の状況をソフトなものにするという効果を持つのではないだろうか。ソフトなイメージを与えるから、犯人グループと人質との間には何らかの馴れ合いのような感情があるのだというような憶測が生まれてくるのかもしれない。

宮台氏は、たとえ残虐な映像であっても、その残虐さの原因に我々自身がかかわって責任があるのなら、その残虐さを残虐であるという理由で目を背けるのは間違っているのではないかと言うことも語っていた。我々の責任として、その残虐さを生んでいると言うことを意識するために、残虐さを直視する必要があるだろうということだ。僕は、全くその通りだと思う。イラクで行われている大量殺人という残虐さを、我々日本人は目を背けてはならないのだと思う。日本人には、それに対する責任がある。我々は、むしろイラクで何が起こっているのか、その本当のところの報道を要求する権利があると思う。

そして、その要求に応えてくれているのが拘束されたフリーのジャーナリストを中心とする人々なのだ。彼らは、本当の意味での表現の自由のための活動をしているのだと思う。マスメディアは、ここでも表現の自由の闘いをしていないと僕は感じる。

文春は、出版差し止め問題で表現の自由と言うことを争った。では、この表現の自由に関しても闘ってくれるだろうか。それとも、このようなものは表現の自由の範疇に入らないという判断をするだろうか。メディアの側が、イラク戦争に関して、どれくらい表現の自由をもとにした報道を考えているか、その面からもこれからの事件の行方を見守っていきたいと思う。




自作自演説批判 (6) 04月14日(水)

ちまたでは、政府批判を強める人質の家族に対するバッシングがかなり出ているというニュースがあるようだ。政府に反対する人間は未だに「非国民」という非難を浴びなければならないのだろうか。その中でも、最も卑劣な誹謗中傷は、「自作自演説」で語られているものではないだろうか。これは、まともな場所ではいっさい語られていないようだ。さすがにヤフーのニュースでも一度も目にしたことはない。

「狂言誘拐説の検討:週刊アカシックレコード040412」というメールマガジンで、これが論じられている。この著者は、かなり怪しいうさんくさいイメージを持っている人だと僕は感じる。この少し前の号では、朝青龍の引退のスクープを知らせている。これは、完全なガセネタだった。もしこのスクープが本当だったら、信用もしたのだが、これだけの大きなスクープだったら、マスコミが放っておかないはずなので、僕は最初からガセネタではないかと思っていた。

このように怪しい媒体の「自作自演説」だが、そもそも「自作自演説」自体がうさんくさいものなのだから、まともな媒体で論じている人間はいないのだろうと思う。どのようにうさんくさいかというものを見てみたいと思う。

まず朝青龍引退のガセネタの時と同じように、信頼できる報道メディアからの記事が、「自作自演」に関するものが何もないということに疑問を感じる。もちろん、他の媒体のニュースがないからといって、それを理由にその記事が間違っていると結論づけるのではない。

たとえば、田中宇さんは、アメリカのイラク統治がうまくいっていないことを、「わざとうまくいかないようにしている」という仮説を立てている。この仮説も、大手メディアでは全く語られない仮説だ。しかし、これが語られないことは、論理的に整合性のある解釈をすることが出来る。もし、これが事実だとしても、それを知らせることは今のブッシュ政権にとっては、国民に不信を生み政権の信用を落とすことになる。メディアにその論調が出てくることを阻止しようとするだろう。そして、阻止するだけの力が権力にあれば、それはメディアには登場してこない仮説になる。

メディアで語られない仮説の中で、権力の側に都合の悪い仮説は、よほどのことがない限り表には出てこないだろうと思う。ところで、イラクで人質になった3人は、メディアを押さえるだけの権力を持っているだろうか。もちろん、そんなものはない。そうであれば、メディアがこの仮説を語らないのは、それの信憑性がきわめて疑わしいからだと僕には考えられる。このような疑わしい仮説を提出すれば、メディアそのものの信用を落としてしまう。だから、確実な証拠が見つからない限りメディアにこの仮説が登場することはないのではないかと思う。逆に言えば、今の段階では、確実な証拠は何もないのだとも感じる。すべては憶測から生まれた仮説なのだろう。

世論の反発が恐くて仮説が出せないということを言う人がいるかもしれない。しかし、それが確証のある仮説なら、世論が気づく前にこそ提出する価値があるのだ。世論の大部分がそのように考えるからと言って、その時に提出するようでは、報道機関としての能力が疑われる。僕が宮台氏と神保氏の「マル激トーク・オン・デマンド」を信頼するのは、その時の世論に反していようとも、彼らが確証を得たことは、たとえ少数派であっても明言するところにある。それが論理的に納得できるからなおさらだ。

この「自作自演説」には、このような納得が全くない。これが第一の疑問だ。

自然科学においては、まず現象のデータを幅広く集め、そのデータをすべて解釈できる整合性のあるものを仮説として設定する。そして、その仮説が科学としての真理であるかどうかを、実験によって確かめる。仮説が予想するような結果を実験で確かめられたら、その仮説が提出している部分に関しては、自然の法則が成り立っていると解釈できるわけだ。

社会に対する真理は、やはり今までに知られている事実からある種の仮説を設定するのだが、それは事実から論理的に整合性のある形で導かれなければならない。そこに強引な論理があれば、それだけで仮説の信用は落ちることになる。そして、実験と言うことはたいへん難しいのだが、今まで知られていない新しい事実が見つかったときに、その事実が仮説と整合性があると証明されれば、自然科学の実験と同等な真理性の証明に近いものが得られると思う。

まず、「自作自演説」が生まれてきた事実を調べてみよう。その事実と「自作自演説」との論理的つながりが、果たして整合性のあるものなのか。それが納得できないものであれば、やはりこの仮説は信用の薄いものであると僕は思う。

「週刊アカシックレコード」の筆者はこの人質事件を、「最大の特徴は、犯人の「ふまじめさ」だ」と語っている。これは、すべての人を納得させる解釈だろうか。この解釈からスタートするこの事件の受け止め方に僕はまず疑問を感じる。「ふまじめ」というのは、受け取り方によって違ってくる。人間を観察しているとひとくくりに「ふまじめ」というのを決められるものではないということが分かるのではないか。

このあとに筆者が論じているのは、犯人側の「雑」という面だ。次のようなものを挙げている。

・「余計なものが映りすぎている」
・「背景の壁や、窓の外の景色、犯人自身の姿などは、犯人たちの隠れ家や背後関係を特定するヒントになるので、映さないのが常識だ」
・「犯人たちの体格がよいことから、イラクと違って食糧事情のよい外国の出身者ではないかと推理」
・「ほとんど使われてない新品の武器を自慢げに持っていること指して、犯人たちの未熟ぶりを嘲笑した」
・「軍事評論家の宇垣大成は、室内で対戦車ロケットを撃てば発射時に出るガスで大火傷を負うことや、ライフルを撃っても銃弾が壁ではねて撃った者も負傷することなどを、犯人たちが理解していないと指摘した」
。「さらに宇垣は「武器を持って人質のそばに立つと、人質ともみ合いになったとき暴発の危険がある(人質がライフルを棍棒のように振り回して殴ることもできる)」ので、そんなことも知らないこの犯人たちは、兵士として十分に訓練されていない、と結論付けた」

これは、犯人側へのアドバイスと語っているなら理解できないでもないが、これらの事実を次のような結論に結びつけることにどれだけの説得性を感じるだろうか。

「が、犯人が武器を持って「安心して」人質のそばに立つことができる理由は、ほかにもある。宇垣のような、大手マスコミに出演する専門家は言いにくいだろうから、代わりに筆者が言おう。それは、人質と犯人の間に「信頼関係」がある場合だ。」

上の事実からこのような結論を導き、だから「自作自演」なのだ、犯人側との共同の狂言なのだという主張に結びつけている。しかし、これは強引な論理だ。上の事実は、他の解釈が十分成り立ち得るものであるにもかかわらず、その解釈を捨てる理由を説明することなく、自分に都合の良い結論を提出するその論理は、とても説得性を感じるものではない。

人質と犯人の間の「信頼関係」というのは、彼ら3人が今までどのような活動をしていたかを見れば、彼らがイラクの人々に対して「信頼関係」を感じていても不思議はない。自分たちが理解されれば、彼らの敵ではないということを伝えられると思う信頼感だ。「信頼関係」というものも、ここでほのめかされている「自作自演」に協力する「信頼関係」ばかりでなくいろいろなものが想定されるのだと思う。

犯人の側の兵士としての未熟さは、イラクの現状を見れば十分理解できるものだと思う。イラクには正規の軍隊は抵抗勢力の側に存在しないので、兵士としての訓練が充分には行われていないだろうと言うことは考え方としては自然だ。同胞が理不尽に殺されている毎日の中で、冷静にメッセージを伝えられるとしたら、その経験を積んだ専門家ででもなければ出来ないだろう。未熟だということが、彼らが一般市民の中から出てきたかもしれないと言うことを想像させるものにもなっている。

筆者は、軍事には詳しいのだろうが、すべての事実を軍事的にしか解釈できないのではないかと感じる。軍事的にしか解釈できないので、軍事的におかしいと感じるものはすべて疑ってかかるという姿勢が、「自作自演説」を、他の面を検討することなく、上の事実だけから短絡的に結論したのではないかと僕は感じる。

筆者は、このあと犯行声明文を、「高橋和夫・放送大学教授も「イスラムの知識に乏しい者が書いたのではないか」と指摘」しているのを引いて、だからこれは「自作自演」として書かれたのだと論理を展開している。しかし、「イスラムの知識に乏しい者」というのは、イラク人の中には一人もいないのだろうか。これも、事実を短絡的に自分の都合のいい結論に結びつけているようにしか僕には思えない。

このあと筆者は、延々とビジネスレターを翻訳することを頼む際の事実を書き連ねているのだが、これは本質とは全く関係のない事実のように僕は思う。もしも、この犯行声明文が、筆者の言うように「自作自演」の結果として作られたものだということが事実であった場合に、筆者が論じていることも関係してくるのだが、その前提が確かめられないときは、単に物知りの知識を披露しているだけのことに過ぎない。

筆者は、声明文の内容批判として次のようなものも挙げている。

「この犯人たちは異常なほど「日本」にこだわっており、韓国についてはなんの非難もしない(4月10日の共同通信Web版によれば、ほぼ同時機に韓国人の牧師7人を拘束した犯人グループは日本人人質事件の犯人と同じである可能性が高いのに、韓国軍の撤退は要求せずに短時間で牧師7人を釈放した、という)。これは不自然だ。」

これも、僕などは必ずしも不自然だとは感じない。違う解釈も十分成り立つことだと思っている。だから、この批判から「自作自演説」が導かれるとは思えない。

韓国に関しては、日本ほど突出したアメリカ支持をしているとは思えないし、むしろこのことを一つのメッセージとして受け止めるべきではないのか。韓国の姿勢と日本の姿勢にはどういう違いがあったのかと。それから、もう一つ解釈に付け加えるべき事は、韓国で拘束されたのが牧師という聖職者であったということも関係があるのではないかと僕は想像している。イスラム教は、キリスト教と違って異教徒を絶滅させようとするような侵略的な宗教ではないということを聞いている。聖職者という地位にある人間は、たとえ異教徒であっても尊敬の念を抱くのではないだろうか。これは、僕の解釈が間違っていて、イスラム教は異教徒を許さない宗教なのだとしたら、異教徒である韓国の牧師を助けたのは、よほどの理由があったということなので、ぜひそのよほどの理由を報道してもらいたいものだと思う。

筆者は、「狂言である場合、その動機や背景については、次回以降にさらに検討したい。」と語っている。僕も、これが「自作自演」であるという可能性を語るのなら、その動機を論じなければならないと思っている。僕には、その動機が感じられないので、「自作自演説」を信用できないのだ。いったい何のために、命がけでイラクまで行って、そんなことをする必要があるのだろう。有名になりたいから?それだけの理由で命をかけるだろうか。

普通は、そういう姑息なやり方を考える人間は、命がけでやろうとは思わないだろう。人が犠牲になっても、自分は安全な場所でなんとか有名になりたいと考える人間だったら、「狂言」という可能性も考えられる。しかし、彼らはそういう人間なんだろうか。

筆者の語る動機がどういうものになるか、大いに関心を持って待つことにしよう。


もう少し続きがあったのだが、長くなったので掲示板の方へ移そう。




確かな情報のない中で (2) 04月13日(火)

イラクでの人質事件が解決したというニュースがなかなか入ってこない。確かな情報がなかなか無く、どれを信じたらいいのか、情報源のない一般市民には何とも判断が付かない状況だ。このようなときに、どのように不確かな情報を受け止めたらいいのかということを考えてみた。

基本になるのは、やはり論理的整合性というものだと思う。確かな事実が分からないときは、事実をもとにした結論というのは、ほとんどが一つの「仮説」として扱わなければならないことになる。その仮説をもとにして論理的な帰結を考えたときに、他の事実とどれだけ整合性がとれるかで、その「仮説」の信憑性がはかれるのではないだろうか。

このニュースを最初見たときに、「自衛隊撤退」というものに対して、二つの考え方のどちらに賛成するかの判断に迷った。撤退する方が他の事実との整合性がとれるのか、撤退しない方が整合性がとれるのかの判断が出来なかったからだ。

しかし、この一連の流れの中であることの判断をもとにすれば、僕の迷いも吹っ切れるのではないかと感じるようになった。それは、イラクに自衛隊がとどまることの意味がどこにあるかという問の答をどこに求めるかという問題だ。この問の答は、人質問題にかかわって撤退するべきかどうかという問いよりも、かなりはっきりした答を出すことが出来る。

政府の宣伝では、イラクでの自衛隊は「人道復興支援」を行っているのであり、そこにとどまることの意味は、イラクの人々を助けると言うことが一番のものであるということになる。単純にそれを信じている人は、人質事件をきっかけにして自衛隊が撤退すれば、それは「テロに屈して」脅しをかけられたから逃げるんだというふうに映ってしまうだろう。

しかし、僕は自衛隊が「人道復興支援」に行っているとは思っていない。これは、アメリカの支援が目的で、自衛隊という軍隊が行くことに意義があるからこそ派遣されていると僕は受け取っている。「人道復興支援」だというのなら、NGOやNPOの活動こそがそれにふさわしいはずだが、そのような方向の支援を日本政府が行っているというニュースは全く聞かない。

だいたい自衛隊の活動は「人道復興支援」になっているのだろうか。現地では、「自衛隊は何もしていない」という評判が広がっているのではないだろうか。水を配ると言うことにしても、NGOであれば遙かに安い費用で出来るものを、莫大な予算を使って自衛隊は行っている。しかも、NGOより遙かに少ない量しか供給できないという風にも書かれていたように記憶している。

自衛隊は、イラクにいるということでアメリカ支援をしているという意味しかないのではないだろうか。この意味は、実は大きな問題をはらんでいる意味なのではないかと思う。日本人が、自衛隊がいる意味は「人道復興支援」であるとだまされているだけなら、まだ国内的な問題として我々の努力の問題になる。しかし、世界の国々、とりわけイラクの人々が、自衛隊は人道復興支援に来ているのではなく、アメリカの支援をしに、アメリカの側の占領に加担するために来ているのだと受け取っていたらどうなるだろうか。

マスコミの宣伝では、サマワの地では自衛隊が歓迎されていて、自衛隊は他の国の軍隊とは違うのだと言うことが報道されていた。本当に、イラクの一般の人がそう思っているのだろうか。日本がアメリカのイラク侵略をいち早く支持した国であることは世界中が知っているのではないか。むしろ、日本には平和憲法があって、戦争には加担できない国であるというようなことの方が知られていないのではないだろうか。

今回の人質事件が、このような流れの中で起こった事件であるとすれば、日本はアメリカの側に立っているのだと宣言し続けてきたことの結果として、「テロリスト」と呼ばれている反米の側のイラク人に日本人がねらわれる原因を作ったのではないか。そうすると、この事件をきっかけにして自衛隊が撤退すると言うことの意味が、「テロに屈して」撤退したという判断とは違う意味を見つけることが出来るのではないだろうか。

「テロリスト」と呼ばれているグループだけではなく、一般のイラク人も、日本はアメリカの側に立っているというのがその認識だとしたら、(これは、かなり落胆しながらも、徐々に受け入れている認識ではないだろうか)自衛隊の撤退というのは、その認識が違うのだというメッセージを届ける意味が出てくる。我々は、そのようなメッセージを届けたいと思っているだろうか。僕は届けたいと思う。

政府はアメリカに追従していて、不当な戦争であるイラク侵略を支持しているけれど、国民の中にはそれに反対しているものもいるということをイラクの人々に伝えたい。小泉政権が自衛隊撤退を決断することはないだろうが、それだからといって、自衛隊撤退をすべきだという声をあげないのは、日本人全体がアメリカを支持しているという間違ったイメージをイラクの人々(それにつながるイスラムの人々)に伝えてしまうのではないだろうか。

世論の高まりがどれくらいのものになるかは分からない。僕と同じような発想で考える人間ばかりではないだろうと思うからだ。しかし、日本人全部が、アメリカ支持をしているのでは無いというメッセージを送るという点で賛成してくれる人は、すべての人が声をあげてもらいたいものだと思う。それが、たとえ今は少数派であろうとも、声をあげることで連帯をしていきたいと思うものだ。

イラクの人々にとっては、日本人は大きく二つのグループに分かれていくのではないか。アメリカに協力する人間と、アメリカに反対する人間とに。そして、テロリストと呼ばれる側の人間は、抵抗と報復の手段として、アメリカに協力する側の人間をねらってくるのではないだろうか。もちろんそちらの道を選択して、テロリストとは断固として闘うのだと決断するのも一つの選択だ。しかし、僕は、不当な行為をしているアメリカのせいで敵にされるのはごめんだ。断固とした闘いは、どちらか一方が完全に消滅しない限り終わらない闘いになる。僕は、そういう覚悟をして闘いたくはない。むしろ、イラクの人々と理解し合って、平和に共存する道を探りたい。

イラクで拘束された3人の日本人は、アメリカに反対している人間としては、かなり鮮明にその立場を表に出しているのではないかと思う。だから、論理的に考えれば、彼らが犠牲になるはずがないと僕は思う。しかし、そうでない人間は、日本政府の出方によっては非常に危険になる。彼らのように立場を鮮明にして生活できる日本人はそれほど多くはないだろうと思うkからだ。

イラクからの自衛隊撤退は、拘束されている3人を救う一助になることはもちろんだが、それ以上に、一般の日本人のこれからの危険を減らすために大事なことなのだと思う。アメリカとの同盟関係にはひびが入るだろうが、不当な理由でねらわれるという理不尽からは解放されるのではないかと思う。アメリカとの同盟関係も、ブッシュ政権が倒れて、もっとまともな政権がアメリカに誕生すれば、そのひびが入った関係ももっと正常な関係に修復できるのではないかと思う。

ここにいたって僕の結論もはっきりした。テロに屈して、事件が起こったから自衛隊を撤退すべきだと考えるのではない。イラクの人々に日本人全部が、イラク侵略という不当な戦争を支持しているのではないと言うメッセージを送るために、自衛隊撤退すべきという主張をするのだという考えだ。そして、その主張が、世論の多数を占めるなら、その圧力で小泉政権を倒し、撤退が言える政権を樹立することを期待したい。

拘束されている3人に対しては、「自己責任」と言うことと、誹謗中傷に近い「自作自演説」などというのが駆けめぐっているらしい。これは、どちらも確かな情報がないので、一つの仮説の形として提出されているように思うが、論理的な整合性としては疑問を感じる考え方だ。

「自己責任」に関しては、どこまでが「責任」の範囲にあるのかということを深く検討しなければならない。責任があるとしても、それを無限に大きく個人に背負わせるような論理は、やはり論理としては間違いだと思う。どこまでの責任を感じるのが妥当なのかという問題は、それほど単純に言い切れる問題ではない。

また「自作自演説」については、その方がおもしろおかしく書けるのだろうが、その他の事実との整合性を考えなければならない。まず動機というものがある。そのような動機が本当に整合的に説明されるのか。だいたい、「自作自演」が本当だったら、彼らがこれまで努力して築いてきた信用がすべて失われてしまうことになる。命がけで築いた信用を失っても、なお見合うだけの大きな動機があったのかということに僕は疑問を感じてしまう。このようなことを言い立てる人間は、自分だったらしかねないと言うことを相手に投影して考えているだけなのではないか。下司の勘ぐりということを僕は感じてしまう。

この二つの事柄に関しても、確かな情報がないからこそ持ち上がってくるものではないかと思う。もう一度深く考える機会を持ちたいものだと思う。
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人質事件の展開 (2) 04月12日(月)

昨日は解放のニュースに素直に喜んだ僕だったけれど、未だに実際に解放されたというニュースが入ってこないことに不安を感じている。情報がないということがこの不安を生むのだが、今朝のテレビでもいくつかの番組でこのことを取り上げていた。中東問題の専門家の高橋和夫教授は、解放が遅れている原因として次のような可能性を挙げていた。

1 犯人の側が、人質解放と同時に逮捕される恐れがないよう、人質の解放の方法に手間取っているという技術的な問題で解放が遅れている。

2 犯行グループは人質の解放を決めたが、他のグループからの異論が出て、交渉の道具としてまだ利用するという可能性を残したい勢力が、解放を押しとどめている。

3 交渉のテクニックとして、一度は解放を約束しておきながら、それを引き延ばし、その間に何らかの見返りを得ようとして水面下で交渉している。

僕も、このどれもが可能性のあるものだと思う。最も望むのは、単なるテクニックの問題であって、少し遅れてはいるけれど、解放へ向かっているというのだ。高橋さんも言っていたが、最も好意的に受け取れる可能性だろう。

「<イラク邦人人質>「解放」声明後、交渉難航」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040412-00000082-mai-int

というニュースを見ると、単純に解放するだけではなく、何らかの交渉というものがあるような部分も伺える。日本政府が何らかの見返りを提供するという交渉なのか、引き渡し方法や場所を交渉しているのか、どのような交渉かというのは分からないが、交渉の結果がまずくて解放が遅れているのではないことを願っている。

日本人の立場としては、拘束されている3人の安否がまず第一番の関心で、その解放を願うのは当然であるが、この事件をその側面だけから見ていると判断を間違えるかもしれない。同じテレビに出演していた国際ジャーナリストの田中宇氏の指摘には、共感できるところが多かった。次のようなものだ。

一つは、この事件の発生が、ファルージャ近郊で起こっていると言うことと、そのファルージャでは今大規模なアメリカの掃討作戦が行われていると言うことが、この事件とどう関連しているかを見なければならないと言う指摘だ。ファルージャでは、一般市民を含む600人のイラク人が殺されているといわれている。この理不尽さに対しては、アメリカの傀儡といわれている統治評議会でさえも反発している。

「イラク統治評が米軍の封鎖戦で硬化、即時停戦を訴え」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040410-00000115-yom-int

統治評議会では、「米軍の行為は不当で到底受け入れられない」と語り、次のように報じられている。

「元外相で統治評議会でも親米色が最も強いアドナン・パチャチ氏は9日、かつてない厳しい口調でファルージャでの米軍を非難した。米軍は同市での米民間人惨殺もあり、「報復同然」(統治評議会筋)の容赦ない掃討作戦を展開、市民に400人以上とも言われる多大な犠牲が出ている。これに「国民の代表」を自任する統治評議会の主要メンバーとして反発したものだ。」

このような強い反米感情が渦巻いているときに、「アメリカの側に立っている」と判断された日本の国の一員として、彼らの拘束があるのだという受け取り方をしなければならない。単に日本人が拘束されたと言うことだけではなく、その対処の方向によって、自衛隊派遣が「人道復興支援」なのか、「アメリカの占領政策加担」なのかということが明らかになってしまうのではないだろうか。

福田官房長官が、いち早く「撤退する理由がない」と語ったことを見ても分かるように、自衛隊派遣は「アメリカの占領政策加担」であることは、ほぼ明らかなのだが、マスコミの宣伝では「人道復興支援」と言うことになっている。このごまかしが、この事件によって明らかになったと言うことをまた我々は受け止めなければならないだろうと思う。

そして一番大事なのは、田中さんも他の出演者の多くも指摘していたが、アメリカのイラク統治は今や完全に破綻したのだと言うことを認識しなければならないことではないかと思う。そもそものイラク侵略が不当なものであり、占領統治そのものもその不当性によって破綻してきた。そのようなアメリカをいつまでも支持し続けると言うことが何を意味するかを、日本人の多くはもっと切実に考えなければならない。

田中さんによれば、アメリカのイラク統治の失敗は、まるでわざと失敗するために行動しているようにも見えると語っている。つまり、イラクの安定を望んでいない勢力が、わざと失敗しているのではないかと疑っているのだ。そのようなアメリカをこれからも日本政府は支持し続けるのだろうか。同盟国であるのなら、そのような失敗を正していくような助言が出来てもいいのではないかと思う。

このような危険なところに、あえて行くと言うことを非難する声も挙がっているようだが、これは相対的な問題としてとらえた方がいいと思う。ちょっと前に「マル激トーク・オン・デマンド」にゲストで来ていたNGOのケン・ジョセフ氏は、その当時「イラクは安全だ」と言うことを強調していた。フセインの圧政が終わり、イラク人にとって初めて自由を味わう条件が出来てきたと語っていた。

しかし、そのイラクに自衛隊が行くことによって、安全だったイラクの地域が、逆に危険地域に変わっていくという指摘をしていた。サマワは、自衛隊が行く前までは安全だっただろうが、自衛隊が行けば危険になるということを強調していた。

今回も、自衛隊が行ったことによって日本人が反米勢力にねらわれたという要素があることは否定できないと思う。だから、危険なのだから行くべきではないということを言う人もいるだろう。しかし、彼らは困っている人の力になりたいという、「人道復興支援」が目的で、危険があってもあえてその活動のためにイラク入りを願った人々だ。その行為を、危険があるのだからと非難することが出来るだろうか。非難すべきは、むしろそのような危険を作り上げた方の責任なのではないだろうか。

彼らに訪れた危険は、彼らに責任があって起こった危険ではないということを見なければならない。むしろ、彼らは、命がけの行為で、日本がさらされている危険を日本人に知らせてくれているのだと僕は思う。今回は、危険がはっきりと見えるイラクの地での事件だったが、このような危険は、日本がアメリカ支持という姿勢を持ち続ける限り、世界中のどこでも生まれる危険なのだと言うことを我々に知らせてくれているのだと僕は思う。

そのような警告を与えてくれる彼らに対して、我々は感謝をすることはあっても、「自己責任」というような非難をすべきではないと思う。決して見捨てるようなことがあってはならないと思う。彼らを見捨てることは、同じように危険が訪れる可能性を持っているすべての日本人も、いざというときには見捨てられることを意味するのではないかと思う。

この事件の最初の段階では、日本政府が自衛隊の撤退を決断することはあり得ないだろうという認識を僕は持っていた。その認識は今でも持っているが、今は、たとえそういう政府の姿勢であろうとも、我々は、自衛隊撤退しか彼らを助ける道がないのなら、それを政府に要求し続けるべきではないかと思うようになった。イラク特措法適用の道でもかまわないから、とにかく自衛隊撤退の方向を要求すべきではないかと思う。それは小泉政権には出来ないと言うことであれば、政権交代を望む声を世論の声としてあげていかなければならないだろう。僕は、今は、自衛隊は撤退すべきという主張を強く言いたいと思う。世論もそちらの方を選んで欲しいと思う。




人質解放のニュースを素直に喜びたい (2) 04月11日(日)

今朝ヤフーのニュースを確かめたら、次のニュースが飛び込んできた。

「日本人人質3人、24時間以内に解放…中東TV」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040411-00000003-yom-int

どのような理由があるにせよ、犯人の側が正しい政治的判断を持ったことを素直に喜びたいと思う。報道では、彼らのことを「テロリスト」と呼んでいて、僕もそう書いてきたが、「テロリスト」という言葉の響きに、単なる凶悪な犯罪者ということだけではなく、政治的な意志を持った人々というニュアンスが入ってきたのではないかと感じる。

彼らが単に凶悪な犯罪者であるのなら、多くの日本人の願いも、イラクの善良な意志を持った人々の声にも耳を貸さずに、最悪の結果を生んだかもしれない。しかし、彼らは、イラクのイスラム教スンニ派法学者組織「イラク・ムスリム・ウラマー協会」が国内の反米勢力に送った「米国に協力していない外国人の拘束者を解放するように」とのメッセージに対し、「イスラム法学者団体の要請に応じ、人質を24時間以内に解放することを決めた」とメッセージを返してきた。

「テロリスト」は単なる凶悪な犯罪者ではなかった。政治的意志を持った人々だった。彼らは「レジスタンス」でもあるという面を我々は受け止めなければならないだろう。日本政府は何も出来なかったが、彼らは正しく政治的判断を下した。この声明が確かに実現されて、24時間以内に人質が解放される姿を見たいと思う。

今週の「マル激トーク・オン・デマンド」では、この問題にも少し触れており、危険地域へ自らの意志で行ったことに対する「自己責任」の問題にも触れていた。宮台氏の論理は、さすがに意味の深いもので、僕が考えていたものよりも遙かに整合性のとれているものだった。

宮台氏は、物見遊山でイラクに行ったバック・パッカーと、今回人質になった「人道復興支援」に携わっていた人たちとは区別して考えるべきだという論理を提出していた。物見遊山で行って、今回のような事件に巻き込まれた場合は、その人間の無知というものに一番の責任があるという論理も正当性を持つ。自己責任の追及も一定の理があると言える。

しかし、今回の3人は、政府が何回も宣言している「人道復興支援」を、民間の立場で行っていた人たちだ。宮台氏によれば、日本以外の国では、民間の活動は、NPOやNGOの活動として組織的にやられていて、それが足りない日本の現状を、彼らが個人で補っているような形だったのではないかと言っていた。

本来は、日本政府が有効なものとしてやるべきだった「人道復興支援」を、現実にかなり有効な形で成果を上げている人たちを、日本政府が見捨てたという形になったら、それは何を意味するかを考えなければならない。政府の言う「人道復興支援」は、形だけのもので、自衛隊の派遣も、それが本来の目的ではなく「人道復興支援」なんてのはごまかすための建前にしか過ぎないんだと言うことがはっきりしてしまうのではないか。今回の事件は、それがよく分かる事件だったと宮台氏は語っていた。僕もその通りだなと思った。

この宮台氏の論理で考えると、日本政府の判断としては、本当の「人道復興支援」をしている彼らを犠牲にしてはいけないということで、テロリストの要求に屈するのではなく、救うための手段が撤退しかないのであるから、まず彼らを救うために撤退を判断するというのが、本当は正しい道だったかもしれないと思った。彼らが、本当の「人道復興支援」をしているからこそ、そのような判断が正しいと思う。

しかし、不当なアメリカのイラク攻撃を支持して、ずるずると今日まで来てしまった日本政府にとっては、今回だけ正当な判断をするということは出来なかったのだろう。今回正当な判断をすれば、それまではすべて不当だということを認めなければならなくなるだろうから。

日本政府は、またしても政治的判断を間違えた。宮台氏は、最初のボタンの掛け違いというようなことを言っていたが、全くその通りだなと思った。人質が解放されてきたら、今回の事件に限っては、「テロリスト」と呼ばれる側の人が、正しく政治的判断をしたと僕は思った。

あとは日本の世論の問題だ。今回の3人は、その行動から、イラクの人々のための「人道復興支援」に携わっていたことは確かだ。米国に協力していないと言うことがはっきりしている。しかし、一般の日本人はどうだろうか。彼ら個人は、米国への協力者ではないが、日本の世論が、不当な占領をしているアメリカを容認しているのであれば、大多数の日本人はアメリカへの協力者として彼らに映るのではないか。

我々は、彼らの敵として対峙するのか、そうではないのかの意思表示をしなければならない時を迎えているのではないか。その意思表示が、今度は自衛隊の撤退になるのではないかと思う。

イラクの地が、戦闘地帯化した今の段階でも自衛隊を撤退できないとしたら、それは「人道復興支援」のために行った派遣ではなく、アメリカの支援をしに行った派遣であると宣言するようなものだ。テロリストの要求に屈して自衛隊を撤退させるのではなく、正しい政治的判断によって撤退する道を選べるかどうかが、今後にかかっているのではないか。

撤退は、おそらく小泉内閣には出来ない。世論が、イラクの人々の敵ではないという意思表示をするためには、小泉政権にノーをいうことが必要だろうと思う。それは、これからの一つ一つの選挙において、我々がどんな意思表示をするかにかかっているのではないだろうか。スペインは、テロに屈したのではなく、不当な戦争を支持しないのだという意志を表すために、前政権を倒すという選挙結果で世論を示したのではないだろうか。

「撤退せずに不支持45% 支持43%を上回る」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040410-00000167-kyodo-pol

という記事で報道されている世論の動向は、解放のニュースがでる以前のものだ。この問題では、世論は大きく分かれるだろうと思ったが、「イラクで日本人の死傷者が出るなど不測の事態が起きた場合の小泉純一郎首相の政治責任については、80%以上の人が責任があると答えており」と報道されているように、小泉首相の責任については、圧倒的多数の世論が「責任あり」と答えている。

「撤退せず」と回答した人は、「テロに屈した」形での撤退に反対している人が多いのではないかと思う。しかし、何も出来なかった政府の姿を見て、「テロに屈した」という形がなくなった今は、むしろ自衛隊は「撤退すべき」というふうに考える人が多くならないだろうかと僕は期待している。世論が、そちらの方向を選択することを僕は期待している。

「マル激トーク・オン・デマンド」では、「劣化ウラン弾」について特集を組んで専門家をゲストに語り合っていた。これも非常に興味深い問題だと思った。このほか、今僕の関心を占めているのは、まだまだ文春の問題に絡めて「表現の自由」というものにも論じていないことがたくさんあることだ。

「週刊金曜日」には、防衛庁官舎にビラを入れて逮捕された問題をルポしていた。これなどは、「表現の自由」に対する弾圧ではないのだろうかと僕は感じる。文春が、「表現の自由」に対して闘うのなら、この件に関してはどういう態度を取るのだろうか。黙殺するのだろうか。それは、「表現の自由」に対する闘いではないという判断を意味するのだろうか。

憲法の問題もまだ途中だ。イラク基本法との関連で考えてみたいとも思っている。冤罪の行方も気になる。ハイチの問題も気になる。そして、僕の日記の傾向が全く変わってしまったきっかけになったアメリカのイラク侵略についても、まだ一応の決着がついたとは言えない。日記のネタに困らないどころか、一日に一回しか書けないことがもどかしいくらいだ。





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