2007/08/15(水)11:42
終戦の日の検見川送信所
最近、検見川送信所に関する2冊の本を読むことができた。
初代所長を務めた菊谷秀雄さんの「検見川無線の思い出」と79年の閉局時にまとめられた「検見川無線史」(編・日本電信電話公社 東京無線通信部)である。この2冊は千葉市図書館で借りることができる。
検見川送信所は1930年(昭和5年)10月にはロンドン軍縮条約締結を記念した浜口雄幸首相の演説を米英に向け、放送。これが日本初の国際放送となり、「検見川」の名を世界にとどろかせた。
その技術の高さから、戦時中は軍事利用されたと推察されるが、その詳細は明らかになっていない。
「無線史」によると、各通信回線が休止となり、記録書類を焼却したとある。戦時中の送信所の役割はまさにミステリーではあるが、これこそが戦争にかかわっていたことを示す事実だろう。
回想録の中に唯一、終戦当日の様子が書かれている箇所がある。
NTさんの文
「朝出勤して間もなく、第1発振室前の広間に整列するよう指示があり、監視用受信機が持ち込まれ、全員が玉音を拝聴した。始めのうちは真意はつかめなかったが、午後になると百数拾名の軍人が入局して来て、階下の廊下で武装を解いた。その日から3日に亘り、玄関前の11号鉄塔下で書類という書類が焼却された」
局舎の正面玄関。書類が焼かれた11号鉄塔はこの右手にあったようだ
戦時中、千葉は多くの軍事施設を抱える軍都だった。
しかし、検見川送信所で働く人々は平和への思いが強かったようだ。
「検見川無線史」に載っている開局当初の局舎。まさに白亜の建物
菊谷氏は国際放送の成功したばかりの昭和5年秋以降のことについて書いている。
多くの軍人が見学に訪れたそうで、将校たちも案内した。職業軍人たちは天皇陛下のためには死ぬ覚悟という者ばかりだった。
「われわれ軍人は戦争がなければ、出世なんかできませんよ。もうすぐ昭和9年になりますが、西暦でいうと、1934年。これに昭和10年、11年と続けますと、193456になります。これをこう読むと、《イクサシゴロ》となります。われわれは今、戦争の準備をしているんです」と、ある軍人。
菊谷氏は「語呂あわせで戦争賛美とは怪しからぬと思ったが、軍人さんの前ではどうにもならなかった」と記している。
その後、平和に動いた浜口首相は東京駅で狙撃され、重傷となり、失脚。まさにイクサシゴロの時代に突入していく。
1934年3月から満州国の帝政が始まり、12月にはワシントン海軍軍縮条約を破棄、36年1月にはロンドン軍縮会議から脱退、2・26事件、日独防共協定を締結した。
職員も徴兵され、マニラなどに出兵した。
検見川送信所は前述の通り、真珠湾攻撃を告げる「ニイタカヤマノボレ1208」という暗号を発信した場所ではなかったが、植民地との連絡などの軍事利用があった。平和の声を届けた、その技術は戦争へと利用されていく。
今もぽつんと建っている局舎は、僕らに何かを告げているようでならない。
写真はCaplio GX100で撮影。
《新品》RICOH Caplio GX100 VFキット
Map価格 56,000円 (税込 58,800 円) 送料別
去年の日記は?
2006/8/15 海外での携帯電話活用術