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久恒啓一

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土曜日に米沢市で講演があるので、早めにでかける。
午後、山形県の上山市の斉藤茂吉記念館を訪問。上山は茂吉の生まれ故郷。仙山線の斉藤茂吉記念館前という駅がある。新潟から来たという老人と話しを交わす。茂吉56歳の時の自作短歌朗詠コーナーがあり、茂吉の生前の声を聴いた。最後の歌は「いつしかも日がしづみゆき うつせみの われもおのづからきはまるらしも」。茂吉の名前は、長男茂太、次男宗吉(北杜夫)に分けられたのだろう。昭和26年に文化勲章受賞、28年に70歳で死亡、ということは私が生まれた年にはまだ存命だったということだ。
テレビの番組で茂太、北杜夫が父茂吉を語るコーナーがあり、茂太は「蔵王のイメージが頭の中にあった」、北杜夫は「一生懸命生きた男だった。解剖したときには体はボロボロだった」。蔵王の頂上には茂吉の歌碑がある。茂吉の故郷を想うイメージには蔵王、最上川、出羽三山があった。
日本初の脳病院であった青山脳病院の跡継ぎ探しで、目にとまった少年茂吉は徒歩で仙台に行き、そこから東京に向かったとのことだ。32歳の時に19歳の輝子と結婚。この輝子は猛妻として有名で南極探検旅行、エベレスト登山などを敢行。北杜夫に「楡家の人々」という長編小説があり、読んだ記憶があるがこれはこの脳病院の物語。
東京では、伊藤左千夫に短歌の師事。医学と文学との長い葛藤が始まる。「赤光」という名前の処女歌集が高く評価された。芥川龍之介が茂吉の評価者だった。
暮らしがあれば歌が生まれる。アララギを継げ編集発行人に。歌集を並べてみたり、年表を眺めてみると創作意欲の大きさに感嘆せざるを得ない。「ぼうぼうとしたるこころの中にいて 、、、、」。一高では漱石に英語を習う。友人が多いのが印象的だった。
柿本人麻呂の研究に没頭し、昭和8年秋から始め、9年11月に総論編、15年12月に雑纂編、全15巻4千ページ。
原稿用紙の文字は几帳面な性格が現れている。書が優れており近代文人の中でも有名、絵もうまい。
茂吉は歌集と歌論と随筆を書いた。
遺品としてカンカン帽子、ムギワラ帽、リュックサック、メガネがあったが、このカンカン帽は最上川のほとりに座る茂吉がかぶっていたものだろう。
茂吉の後を継いだ代表的歌人の中に、柴生田稔という名前があった。この人は日航時代の上司の父親で、葬儀に行ったことを想い出した。
斉藤茂吉文学賞があり、馬場あき子や佐々木幸綱の名前があった。
面白いのは、茂吉は次男北杜夫が昆虫などの動物学や文学活動は認めず、医学の道を勧めたことだ。しかし杜夫もまた文学の道へいくことになる。


南陽市の結城豊太郎記念館。
江戸の旧薩摩藩邸を移築した門をくぐる。
大蔵大臣、拓務大臣、日銀総裁をつとめた。「ふるさとは国の本なり」といい、人づくりに力を注ぐ。中学時代に家族銀行を提案し、話題になるなど早くから金融に興味を持っていた。採用が無いのに当時の高橋是清副総裁に直談判して入行。経世済民が原義の経済に関心を持つ人物だった。
請われて安田財閥に入り、大安田銀行の創建。興銀総裁、商工中金創立なども行った。高等文官試験に通っていたが、経済金融を学ぶため日銀を選ぶ。実務よりも諸学国の視察に重点を置き、現状把握を通して未来に向かって想像性を養ったとある。山形中学、二高、東大。
故郷の赤湯には、上下水道を引き、風也塾を設立し若者を運指導、臨雲文庫を設立し万巻の書を寄付し図書館とした。
修身・斉家・治郷という言葉を用い、郷学という言葉も使った。吉田松陰を尊敬。20歳年下の東洋学・人間学の権威である安岡正篤を亡年の交わりと称して師事したという。安岡先生の本は私もたくさん読んでいるので親しみを感じた。
1951年に75歳で死去。

宿泊は赤湯温泉の瀧波という老舗旅館。庄屋の建物を再興。石をくり抜いた風呂。この旅館の朝食が凄かった。大きな部屋に6代続く大きな臼と釜を使った勇壮なもちつきを従業員が行い、つきたての6種類のもちを宿泊者全員が揃っていただく。雑煮、きなこ、じんだ、、、。このときにかかっていた花笠音頭を聞いていると、会津若松、尾花沢、、などの山形の地名が順番に出てくる。

追加:
山形県の上山市の斉藤茂吉記念館を訪問。上山は茂吉の生まれ故郷。
仙山線の斉藤茂吉記念館前という駅がある。新潟から来たという老人と
話しを交わす。
茂吉56歳の時の自作短歌朗詠コーナーがあり、茂吉の生前の声を聴いた。
最後の歌は「いつしかも日がしづみゆき うつせみの われもおのづから
きはまるらしも」。
茂吉の名前は、長男茂太、次男宗吉(北杜夫)に分けられたのだろう。
昭和26年に文化勲章受賞、28年に70歳で死亡、ということは私が生まれた年には
まだ存命だったということになる。
テレビの番組で茂太、北杜夫が父茂吉を語るコーナーがあり、茂太は
「蔵王のイメージが頭の中にあった」、北杜夫は「一生懸命生きた男だった。
解剖したときには体はボロボロだった」。蔵王の頂上には茂吉の歌碑がある。
茂吉の故郷を想うイメージには蔵王、最上川、出羽三山があった。

日本初の脳病院であった青山脳病院の跡継ぎ探しで、目にとまった少年茂吉は
徒歩で仙台に行き、そこから東京に向かったとのことだ。
32歳の時に19歳の輝子と結婚。
この輝子は猛妻として有名で南極探検旅行、エベレスト登山などを敢行。
北杜夫に「楡家の人々」という長編小説があり、読んだ記憶があるが
これはこの脳病院の物語。
東京では、伊藤左千夫に短歌の師事。医学と文学との長い葛藤が始まる。
「赤光」という名前の処女歌集が高く評価された。芥川龍之介が茂吉の評価者だった。
暮らしがあれば歌が生まれる。アララギを継げ編集発行人に。歌集を並べてみたり、年表を眺めてみると創作意欲の大きさに感嘆せざるを得ない。
「ぼうぼうとしたるこころの中にいて 、、、、」。一高では漱石に英語を習う。
友人が多いのが印象的だった。
柿本人麻呂の研究に没頭し、昭和8年秋から始め、9年11月に総論編、1
5年12月に雑纂編、全15巻4千ページ。
原稿用紙の文字は几帳面な性格が現れている。書が優れており近代文人の中
でも有名、絵もうまい。
茂吉は歌集と歌論と随筆を書いた。







Last updated  2006/06/29 10:47:48 AM
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