2102682 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【お気に入りブログ登録】 【ログイン】

今日も生涯の一日なり

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile


久恒啓一

Comments

http://buycialisky.com/@ Re:「アンビエント・ドライヴァー」(細野晴臣)--危機と曼荼羅(06/04) cialis 2005viagra vs cialis levitradiff…
http://buycialisky.com/@ Re:「二流の志士、最後の志士」の人生観--田中光顕(04/14) enter site natural cialisdoes viagra wo…
http://buycialisonli.com/@ Re:「アンビエント・ドライヴァー」(細野晴臣)--危機と曼荼羅(06/04) cialis jamfort med viagraovernight cial…

Freepage List

Category

Archives

2018/11
2018/10
2018/09
2018/08
2018/07
2005/01/04
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
正月休暇を延長して、旅にでています。

朝倉文夫記念館(大分県大野郡朝地)
 「一日土をいじらざれば 一日の退歩である」という言葉を残した彫刻家朝倉文夫は、1883年に生まれ、1964年に没した。私の母の父と同世代ということになるから、私にとってはおじいさんの世代。朝倉文夫記念館は記念公園の中にあり、斜めの屋根が印象的な建物だが、設計は清家清だ。明治41年「闇」の文展に入選から活躍が始まる。母校東京美術学校(現東京芸大)の教授をつとめる。昭和23年文化勲章、
 儒教の精神を大切にした姿勢の厳しい人で彫刻のみならず家や庭づくりにもこだわりをみせる。芸術家の街上野の谷中に住み多くの人と交友を深めた。
 明治40年の卒業制作「進化」、41年「闇」では第二回文展最高賞の二等賞を受賞。第3回文展では「山から来た男」、第4回文展では「墓守」などで賞を次々に受ける。「自然な姿を自然なままに」という写実主義で、一度もヨーロッパに行かなかったため、独自の作風が生まれた。
 肖像彫刻に豊富な作品を残した。初代左団次、五代目菊五郎、大隅重信、加納治五郎、瀧廉太郎など膨大な数の肖像をつくった。書画、俳句、茶道、釣りなどどの分野にも一流の才能を示した多芸多才の人。
 記念館で最初に目がつくのが二人の裸婦像だ。このモデルは娘の朝倉摂と朝倉響子で、当時モデルになってくれる女性はなかなか見つからなかったため娘をモデルにしたという。摂は舞台芸術家で著名な方で、妹の響子は彫刻家。朝倉摂さんとはビジネスマン時代に一度仕事で縁があった記憶がある。大分県出身の大横綱双葉山の胸像も見事な彫刻である。求道者のような顔、厚く見事な胸。
 女性群像の第二展示室、動物彫刻の第三展示室、男性彫刻の第四展示室は、斜めの土地をうまく生かして、階段を登っていく構造になっていて、新鮮な配置に感銘を受ける。
 第二展示室には、「涙っぽい人」、「いずみ」、「のどか」、上を向いた「明」と下を向いた「暗」、「時の流れ」「松井須磨子」などが明るい日差しを受けながら群立している。裸婦の腰の張りなど実に写実的な作風。
 第三展示室は、猫を中心とした動物彫刻の間。自宅に十数匹飼っていた猫の一挙手一投足を観察した作品が多い。昔教科書かなにかで見た記憶のある「つるされた猫」、「よく穫えたり」「ジュピター」そして「豊後牛」。多くの猿がひとつの方向に向かって雲に乗っている姿を描いた「雲」、話題を呼んだ人間への進化を扱った「進化」。
 第四展示室は若い男性の裸の彫刻。右手を少しあげた「平和来」(1952)、左手で右腕をつかんだ「競技前」(、左手を上に上げた「生誕」、二人で肩を組む「友」、砲丸投げの選手を描いた「砲丸」など。若者らしさのみなぎる小さな顔。精悍な男、張りつめた筋肉、動きのある姿などすばらしい作品群だ。
 コンクリと木を用いた明るい展示室には、生涯にわたって驚異的な量と質の高い作品の一部が展示されている。
不便な山の中にある記念館なので、私と母の一組だけだった。


瀧廉太郎記念館(竹田市)
 竹田は、小京都や遊芸の町と呼ばれている。
直入郡の郡長であった父が住んだ町の中の屋敷が記念館となっている。父吉弘は日出藩家老を経て、維新後は内務省で大久保利通や伊藤博文に仕えている。廉太郎は東京、横浜、富山、東京、大分、竹田と父にしたがって動いている。ここで12歳からの2年半を過ごしている。1879年生まれで、朝倉文夫と同じ小学校の3年上で、朝倉文夫の肖像彫刻も残っている。東京音楽学校(現東京芸大)研究科卒業後、母校の教師となる。歌曲集「四季」、中学唱歌「荒城の月」「箱根八里」などを作曲。明治34年ドイツに留学したが結核にかかり帰国。
 父から「将来、何になりたいのか」と問われた廉太郎は「音楽家になりたい」と答え、なりそこねたら「おしろい(歌舞伎役者)になります」と答えたという。東京音楽学校は首席で卒業している。
 「四季」の緒言では、日本の音楽はせいぜい学校唱歌程度であって、今回の作品のような程度のものは極めて少ないと自信のほどをうかがわせている。西洋の物まねばかりの状態を残念がったそうだ。新しい音楽を目指したのだろう。またわかりやすく、楽しい音楽を目指した。
 ドイツ留学でライプティッヒ音楽学校に入学するが結核にかかり帰国する。帰りのロンドンで土井晩翠が会いにくる。「荒城の月」は、土井晩翠の詩に曲をつける募集があり、廉太郎が応募し一位になったという経緯があり、晩翠が会いにきた。仙台の城や会津の城をイメージした「荒城の月」の詩をよんだ廉太郎は、竹田の岡城のことだと思ったという。この作詞・作曲コンビは生涯一度しか会えなかった。「人生は短し 芸術は長し」はこの廉太郎のためにあるような言葉だ。23年の短い人生を疾風のように駆け抜けた。
 この記念館の名誉館長はジャーナリストの筑紫哲也だった。彼が大分県出身ということは知っていたが、錬太郎の妹の安部トミの孫にあたるということだ。「大音必稀」と書いた筑紫哲也の書が掲げてあった。  
ドイツ留学の船旅の日程が地図にプロットされていた。4月7日に神戸、9日の長崎、13日上海、16日香港、21日シンガポール、ペナン、26日コロンボ、5月5日アデン、9日スエズ、10日ポートサイド、13日ナポリ、14日ジェノバ、ミラノ、18日ベルリン、6月7日ライプティッヒ。ヨーロッパ到着まで1か月以上かかっている。


広瀬武夫記念館。
 軍神広瀬武夫は1868年明治元年生まれ。1904年日露戦争で旅順港口で37歳で戦死。ロシアに留学後、ロシア駐在武官となる。戦艦朝日の水雷長として日露戦争に従軍。第二回旅順港閉塞作戦で福井丸を指揮、同船の沈没間際まで行方不明の部下杉野孫七をさがしつづけ戦死。
広瀬神社の中にある記念館では、80歳の祖母に送った二つの写真が紹介されている。海軍大尉の正装とふんどし姿の写真の2枚。
 明治40年に山下公園に銅像、そして昭和10年に広瀬神社建立。

 神社の一角に「陸軍大臣 阿南惟機 顕彰碑   岸信介書」という碑が建っている。阿南は明治20年竹田に出生、第二方面司令官(ミンダナオ・セレベス)を経て、昭和20年4月7日陸軍大臣、8月15日自刃)。



旧・竹田荘
 江戸時代後期の画家。1777年―1835年。豊後岡藩医の次男。藩校由学館の頭取となる。藩内の農民一揆の際、藩政改革の建言がいれらず隠退。絵を谷文晁らに学び、繊細な筆致の独自の画風を確立。幕末文人画家の代表的な作家。頼山陽らと親交を持ち、詩や書にもすぐれた。59歳で死去。
 「筆を用いて工みならざるを患えず、精神の到らざるを患う」(山中人饒舌)
 竹田資料館から少しのぼったところにある田能村竹田の過ごした家。侍医の家だったが、隠居後南画の第一人者へ。

追加:
瀧廉太郎の「荒城の月」の舞台である。竹田は山々を描く南画の世界そのもであるといわれたが、山の上の台地を切り拓いて堅固な城をつくった、その名残りがこの岡城址である。確かに登り口以外の壁にあたる部分は、峻険で断崖絶壁で容易に人を寄せ付けない自然の城だ。大手門まで登ると後は、ほとんど台地となっていて広い。この中に三の丸や西の丸、家老の居宅、賄い方などの跡があり、本丸は一段と高くなっている。本丸に登ると360度に景色が見渡せる。北は九重・大船山の九州アルプス連邦、西は東洋一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母山(1756m)、傾山(1602m)の高峰一帯の大森林を一望のうちに収めることができる。そして下には2つの川が見える。牛が臥した形に似ていることから、臥牛城とも呼ばれている。
日本の音百選に選ばれた岡城址では、風が大木の枝や葉をかすめる音がサワサワ、サワサワと響いている。また川の瀬音も聞こえる。
「春高楼の花の宴
 めぐるさかずき 影さして
 千代の松枝 わけいでて
 昔の光 今いずこ」
という土井晩翠の「荒城の月」の歌詞が彫られた石碑が建っている。

 この城は、大野郡緒方荘の緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝えられている。1586年に島津の大軍の猛攻を18歳の志賀親次が支え、秀吉から感謝状をもらっている。その後、中川氏の居城となった。御廟の山城、本丸と二の丸・三の丸が平山城、西の丸が平城で築城史上特異な城である。

 本丸から下ったところに楽聖・瀧廉太郎の像が建っている。もしやと思って裏に回るとやはり朝倉文夫の署名があり、建立時のいきさつや友情が記されている。

 「瀧君とは竹田高等小学校の同窓であった。君は15歳、自分は11歳。この2つの教室は丁度向かい合っていたので、わずかに1年間ではあったが、印象は割合に深い。しかしそれから君の亡くなるまでの十年間はほとんど何も思い出せないのに、11歳の印象を土台に君の像を造ろうというのである。多少の不安を抱かぬではなかったが、製作に着手してみると印象派だんだん冴えてきて古い記憶は再び新しくなり、追憶は次から次へとよみがえる。学校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君。それは稲葉川の為替に印した忘れることのできない韻律であった。そして八年後には一世を画した名曲「四季」「箱根の山」「荒城の月」に不朽の名を留めたことなど、美しい思い出の中に楽しく仕事を終わった。










Last updated  2006/06/29 10:26:35 AM
コメント(2) | コメントを書く

Copyright (c) 1997-2018 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.