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久恒啓一

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正月休みを延長。

5日は、竹田市の岡城を訪問。荒城の月のモチーフとなった堅城。印象深い名城だった。
佐藤義美記念館を訪問。日本のアンデルセンと呼ばれる童謡の作詞家。

その後、国東半島の安岐町へ車を飛ばす。
まず、重光葵を記念した三渓偉人館を訪問。ミズーリ号上で日本が降伏調印した当時の外務大臣。戦犯、後に許され戦後も活躍する。

今回の旅のメインであった三浦梅園資料館を訪問。ずっと気になっていたが、予想どうり大きな収穫があった。今後の私の研究テーマに影響があるだろう。

今回は1泊2日の旅だったが、すばらしい収穫の多い旅となった。

詳細は別途報告するつもり。
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岡城址

瀧廉太郎の「荒城の月」の舞台である。竹田は山々を描く南画の世界そのもであるといわれたが、山の上の台地を切り拓いて堅固な城をつくった、その名残りがこの岡城址である。確かに登り口以外の壁にあたる部分は、峻険で断崖絶壁で容易に人を寄せ付けない自然の城だ。大手門まで登ると後は、ほとんど台地となっていて広い。この中に三の丸や西の丸、家老の居宅、賄い方などの跡があり、本丸は一段と高くなっている。本丸に登ると360度に景色が見渡せる。北は九重・大船山の九州アルプス連邦、西は東洋一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母山(1756m)、傾山(1602m)の高峰一帯の大森林を一望のうちに収めることができる。そして下には2つの川が見える。牛が臥した形に似ていることから、臥牛城とも呼ばれている。
日本の音百選に選ばれた岡城址では、風が大木の枝や葉をかすめる音がサワサワ、サワサワと響いている。また川の瀬音も聞こえる。
「春高楼の花の宴
 めぐるさかずき 影さして
 千代の松枝 わけいでて
 昔の光 今いずこ」
という土井晩翠の「荒城の月」の歌詞が彫られた石碑が建っている。

 この城は、大野郡緒方荘の緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝えられている。1586年に島津の大軍の猛攻を18歳の志賀親次が支え、秀吉から感謝状をもらっている。その後、中川氏の居城となった。御廟の山城、本丸と二の丸・三の丸が平山城、西の丸が平城で築城史上特異な城である。

 本丸から下ったところに楽聖・瀧廉太郎の像が建っている。もしやと思って裏に回るとやはり朝倉文夫の署名があり、建立時のいきさつや友情が記されている。

 「瀧君とは竹田高等小学校の同窓であった。君は15歳、自分は11歳。この2つの教室は丁度向かい合っていたので、わずかに1年間ではあったが、印象は割合に深い。しかしそれから君の亡くなるまでの十年間はほとんど何も思い出せないのに、11歳の印象を土台に君の像を造ろうというのである。多少の不安を抱かぬではなかったが、製作に着手してみると印象派だんだん冴えてきて古い記憶は再び新しくなり、追憶は次から次へとよみがえる。学校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君。それは稲葉川の為替に印した忘れることのできない韻律であった。そして八年後には一世を画した名曲「四季」「箱根の山」「荒城の月」に不朽の名を留めたことなど、美しい思い出の中に楽しく仕事を終わった。
        
            昭和25年8月15日 朝倉文夫

今、自分は50年前の童心に立ちかえり幽憶つくるところをしらず 君をしのぶれば(?)笛の音将に月を呼ぶ

 このような高台にある大きな城跡は見たことがない。瀧廉太郎が12歳から14歳の時分にこの岡城に何度も足を運び、大きな影響を受けたことが偲ばれる実に印象深い場所だった。
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佐藤義美記念館

「ニルスのふしぎな旅」「十五少年漂流記」の翻訳文の作者、「いぬのおまわりさん」などの作者である童謡詩人佐藤義美記念館。1905年竹田生まれ、1968年に63歳で没した。
 横浜の家のつくりをそのままつくった2階建ての一戸建て。書斎には、机とベッドがあったが、ランプやかたつむりのように巻いた時計、鳥の模型など楽しい人柄を偲ばせる品がある。「日本のアンデルセン」とも呼ばれている。
長身痩躯で、ヨット遊びの写真や帽子を被ったおしゃれな詩人。
逗子の自宅で、仕事とヨット以外の時間は読書にあてていたという。
最近(2004年)出た「ネバーランド」という童話の広場を目指した雑誌の創刊号は、佐藤義美特集だった。
「いぬのおまわりさん」
  まいごの まいごの こねこちゃん
  あなたの おうちは どこですか
  おうちを きいても わからない
  なまえを きいても わからない
  にゃん にゃん にゃん にゃん
  にゃん にゃん にゃん にゃん
  ないてるばかりでいる こねこちゃん
  いぬのおまわりさん こまってしまって
  わん わん わん わん
  わん わん わん わん」

グッドバイ
「グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ
 とうさん おでかけ 手をあげて
 でんしゃにのったら グッドバイバイ
 
グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ
はらっぱで あそんだ ともだちも
おひるに なったら グッドバイバイ

グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ
三びこ うまれた 犬の 子も
よそへ あげたら グッドバイバイ

グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ
まちから いらしたおばさんも
ごようが すんだら グッドバイバイ

グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ
あかい ゆうやけ お日さんも
しずんで いったら グッドバイバイ」

この二つの童謡は、今でも歌うことができる。本当に久しぶりに思い出した。この人の作品だったのか。歌の力は大きい。いつまでも残っている。
「一本の指が痛いとき」は原爆否定の長編童話。
「ともだちシンフォニー」は、反戦のうた。
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山渓偉人館(重光葵)

 国東半島の安岐町の道路沿いにある太平洋戦争で降伏調印(ミズーリ艦上)をした日本全権の外務大臣重光葵を記念した山渓偉人館の前に立つ。立派な胸像が建っている。もしかしてと作者名を見ると朝倉文夫とある。朝倉は、同県人の瀧廉太郎も、重光葵も、そして角聖双葉山も手がけていたのだ。
 瀧廉太郎の父は直入郡の群長だったが、重光葵は三重町群長の次男。東大をでて外交官になった。ドイツ、英国、ポートランド、ベルサイユ、中国、ドイツ、上海、中国全権公使、天長節の満州での式典中に爆弾テロにあい、右足を失う。満州事変から大東亜戦争にかけて、外務次官、駐ソ連大使、駐映国大使、駐華大使。昭和18年東条内閣の外相、小磯内閣外相兼大東亜大臣、主戦後東久爾内閣の外相県大東亜相、ミズーリ号上での降伏調印、A級戦犯として巣鴨へ。
昭和23年極東軍事裁判にて禁固7年、27年仮出所後、改進党総裁。29年第三次鳩山内閣では副総理・外相、日ソ交渉全権大使。
 1887年生まれで1957年に69歳で世を去っている。文藝春秋社から「巣鴨日記」を出版している。偉人館には、チャーチルと2人で写った写真や爆弾テロにあう直前の写真などが印象に残った。役場の担当者がつきあってくれたが、この偉人館を訪れるのは年に4-5人ということだった。重光葵記念館と明確にするともっと人は訪れると思う。
重光葵が太平洋戦争をどうみていたか、巣鴨日記を読んでみたいと思う。

降伏調印に向かう心情
 「ながらえて 甲斐ある命  ○○ しも
  しこの御盾ならましを」

昭和25年
「魂のよみがえる くにに幸のあれ
 国の起こらで なぞ止むべきや」


「国連の○に掲げし日の丸の
  旗は朝日の輝きし見ゆ」

娘・華子
「不自由な足を引きずり 進み行く
  壇上の父 我わすられじ」

昭和32年杵築高等学校での揮毫
 「志四海」
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三浦梅園資料館

 1723年生まれで67歳で没した。杵築藩の黒岩往還と中津藩の藤田敬所に師事。医者をしつつ宇宙の仕組み、自然の摂理などを研究した思想家。遊学は生涯3回のみ。23歳の時の長崎では、天文学に触発され宇宙の原理を学び、その後天球儀も自力で作成している。30歳近くのお伊勢参りでは、天地の条理を発見、それが「玄論」となった。この書には宝の引用は一切ない。56歳で長崎に再び遊学。梅園塾には17カ国200人以上が学んでいた。
 あらゆるものを円と直で説明できるという説を唱えた。円は直からできている。私の図解の理論と同じだ。そういえば、梅園の研究家が私の講演を聞いて同じだと言っていたことに納得がいった。
陰と陽、は平等で相対的。一即一・一。一・一即一。反観合一は反対からみる方法。
「自然が先生だ。自然の仕組みを活用すると大いなる成果があがる。人間は分と限度をわきまえよ。他の生物と共存せよ」
同時代のカントや百科全書派のディドローと同じ考えだったそうだ。
梅園は儒教を否定して、人を利すことが内を利すことになる。情欲が満たされてこそ社会は安定すると唱えた。著書「価原」は通貨はそのものに科地があるのではなく、交換が役割と定義。エンデの思想とも通じる。条理とは対の構造の確信。
玄語図は円と直で構成されている。大直、大円。玄語図は湯川秀樹や古在由?が高く評価。

 三浦梅園は、科学者、教育者、政治経済学者、文学者、医学者と万能の大きな学者だった。1975年には梅園学会ができ活発に活動している。

 「人生恨むなかれ 人の識るなきを
  幽谷深山 自らなき?なり」(辞世の句:中国の対句)

「希う所は 後世作者興ることあらば 則ち顧を万分の一に得んことを。
 死すとも且つ朽ちざるなり」(「敢語」序)

 教育方針
  「おのおの、その長ずる所にしたがい 好む所に向かわしめる」
(「塾制――行状)

門人師弟を教育するに各其の長ずる所に随い 其の好む所に適す」(行状9

  それぞれの長所を伸ばし、好みに合うものをさがして。

三浦梅園―亀井南明―広瀬淡窓

梅園三語

 玄語:天地を条理的に叙述した自然哲学書。他人の引用が一切ない。
    「故人古書を一言も引かず我見る所にまかせて書きつらぬ」

 贅語:従来の学説を天地の条理の観点から吟味した学術史。
    「天地に合ふ所は拾い 天地に合わざる所はすつる故
     諸家の説を取捨して贅語を書きたり」

 敢語:人間の道を条理でとらえ儒教的政治学説をも大胆に批評した政治論


三浦梅園の考え方を、図解コミュニケーションの先達として研究してみよう。梅園研究の資料や梅園学会の出版物などをたくさん買った。
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Last updated  2006/05/04 09:05:04 AM
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