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久恒啓一

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郡山にある久米正雄記念館。

 郡山の文学の森にある久米正雄記念館は、鎌倉から移設した和洋折衷の74坪という大きな邸宅だ。記念館の近くにある久米の銅像は愉快そうに笑っている顔だった。銅像が呵呵大笑しているのは珍しい。「まあ、あがりたまえ」という言葉を使ったという社交好きの久米は、この家を三てい居と呼んだ。ゴルフ、スキー、社交ダンス、将棋、花札、マージャン、俳句、絵なだ趣味は極めて多く、親友の菊池寛の後を継いで日本麻雀連盟の会長もつとめっていた。酒席での得意芸は、酋長の娘、船頭小唄などだった。また鎌倉をよくしようと町議会議員を二期つとめた。ほうじ茶でウイスキーを割った番茶ウイスキーを発明したり、愉快な人だったらしい。久米が入ると座が楽しくなるという人柄だ。一高時代から菊池寛(3つ上)と芥川龍ノ介と特に親しい。この3人の先生は夏目漱石であった。久米の祖父はは朝霞疎水の開拓村をひらいた。父由太郎は校長をしていたが、御真影を校舎と共に焼失した責任を感じて自殺している。久米は漱石の長女筆子に失恋、それを「破船」などの小説にした。漱石が久米と芥川にあてた手紙がある。「牛のように図図しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思ひます。それから無闇にカタカナに平伏するくせをやめさせてやりたいと思います」とある。漱石の考え方がわかり共感を覚えた。久米正雄には友人が極めて多い。里見頓、大仏次郎、今日出海、佐藤春夫、広津和郎、、、。久米(1891-1952年)の長男昭二は昭和2年生まれだが、同年生まれの野田一夫先生の父上はゼロ戦の技術者、私の母の父は旧制中学校の校長だったというから、その時代の空気がなんとなく見える気がする。エニアグラムのタイプ7。


古関裕而記念館

 作曲家の古関裕而の記念館は、福島市にあり、音楽堂が併設されている。戦時中は勇壮な軍歌、戦後は明るいスポーツ音楽を数多く作曲する。2階の展示室では書斎が展示されている。ピアノなどの楽器はいっさい使用せず、和室の静寂の中で楽想を練った。机が3つあって、仕事が立て込んできたときなどは、この3つを行き来しながら作曲をしたらしい。床の間には「月落ちて鳥啼く、、」の寒山寺の詩が飾ってあった。呉服屋の長男だっため、福島商業をでて銀行につとめるが、英国でのコンクールに入賞し、作曲の道に入る。20歳のではコロンビアの専属作曲家契約を結ぶなど、20歳から80歳まで5000曲を作曲した。1年100曲として3日に1曲つくっていたことになる。古関裕而は、美しい旋律と格調高い響きで日本人の心を魅了した。「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」「鐘の鳴る丘」「君の名は」「六甲おろし」東京オリンピック行進曲」、、、、など耳に残る名曲ばかりだ。小学校、中学校、高等学校、県庁、県警、新聞社の歌なども多い。私の住む宮城県ではと見てみると、「ミス仙台」、宮城工業専門学校、築館高等学校、東北大学工学部鉱山学科、、。私の故郷の大分県では、大分連隊行進曲などがあった。凄まじい仕事量だ。記念館で購入した自伝「鐘よ 鳴り響け」を読むのが楽しみだ。
 

福島県立美術館

 新緑の信夫山を背景に、図書館と美術館が一体となって設計された建物は周囲の環境に映えて美しい。「近代の洋画」では、フランス印象派の作品のコーナーではモネ、ピサロ、シャガール、ワイナス、シャーンなどの作品。日本の近代洋画のコーナーでは、糸園和三郎の「夜」に強い印象を受けた。夜の深い闇のなかに光があり、人々がうごめいているという絵で、ひときわ異彩を放っている。風景画とはインパクトが違う。糸園和三郎は中津の人で、横松宗先生の畏友だったと思う。

 古関裕而と同じ時代に会津坂下生まれの斉藤清(1880-1977年)の版画展。尋常小学校を出て看板屋になり、独学。29歳のときに安井曽太郎の版画に感動し、木版画を志す。「瞳」「桂、京都70」「会津の冬」「六月、鎌倉」などがよかった。

 「熊谷守一」展をやっていた。1880年生まれで1977年に97歳で死去。東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。同期に青木繁。文化勲章などをすべて拒否。「青蠅」という随想集を買った。撮影は土門拳。「アトリエには描けても描けなくても行くことにしています。学校に行くようなものです」「自分を生かす自然な絵をかけばいい。下品な人は下品な絵、ばかな人はばかな絵、下手な人は下手な絵をかきなさい。結局、絵などは、自分を出して生かすしかないのだと思います」「絵を描くよりほかのことをしているほうが楽しいです。欲なし、計画なし、夢なし、退屈なし。それでいつまでも生きていたいのです。石ころ一つそばにあれば、それをいじって何日でも過ごせます」


 

  






Last updated  2005/05/05 12:26:24 AM
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