今日も生涯の一日なり

2005/07/24(日)06:24

尾道市。志賀直哉・林芙美子・小津安二郎

17日に訪ねた尾道での人物記念館巡りの詳報。 ------------------------------------------------------- 東海道新幹線の福山で降りて山陽本線に乗り換え、尾道に向かう。海と山のはざまの町である。駅前には数人の高齢者ボランティアがいて尾道で訪れるべき場所を熱心に語りかけてくれる。教えられたとおり駅から伊予銀行尾道支店を目指して歩くと、支店の前に旅行鞄と傘を携えた林芙美子像が立っている。その先のアーケード商店街にNHKの連続ドラマにちなんで「うず潮小路」と命名されたまことに小さな小道があり、海側に少し下ると芙美子の自宅跡と書いた石碑が目に入った。 瀬戸内海の沿いの海岸通りを歩き、直角に折れて千光寺新道の急坂を登る。まず山の中腹に立つ3軒長屋の一角を占める志賀直哉旧居を訪問。小説の神様として知られる志賀直哉は、1883年(明治16年)に宮城県石巻の家老職だった名家に生まれている。1912年29歳の時に半年あまり尾道で借家住まいをしていた時の家である。1917年「城崎にて」を発表、代表作「暗夜行路」は1921年から1937年まで実に26年間をかけて書いた大作である。1949年文化勲章、そして1971年88歳で没している。 旧居にある写真で見た志賀直哉は、俳優と見まがうほど凛々しい男前だった。和室には「清兵衛と瓢箪」から題材をとった大きな瓢箪が飾られている。この和室には以前、林芙美子の書斎の様子が再現されていたが、志賀直哉のファンから「格が違う」とのクレームがあり、この書斎は引っ越さざるを得なかったそうだ。ファンによれば、文豪たちが小説の先生として尊敬していた神様・志賀直哉と流行作家・林芙美子とでは格が違うとの主張である。ファンの心理はわかる面もあるが、そうかなあと疑問も湧く。奥には6畳間と3畳間がある。部屋からは美しい尾道水道と向島などの島々が一望できる。この景色はお気に入りだったようで、小説の中に寝そべった姿で眺めている風景の描写がでてくる。志賀はこの家で「暗夜行路」の構想を練った。 さらに坂道を登ると尾道文学記念室に着く。建物はもともと大手の会社の重役の家で現在は有形文化財となっている。 尾道は商いの町である。江戸時代に蝦夷地や越後と、江戸や大阪との間を行き来した北前船の西回り航路の中継地として栄えた歴史を持っている。このため富裕な商人が生まれ、数多くの文人墨客招き、後援をした。この気風は近代においても受け継がれ、志賀直哉、中村憲吉、吉井勇、山口誓子なども来遊し尾道をうたった作品を残している。 山にはお寺が多いのも尾道の特徴である。現世の幸福を実現した尾道の豪商らは来世が恐かった。そのため、お寺を数多くつくり死後に備えた。 林芙美子は1903年生まれ。1916年(大正5年)に12歳で北九州から尾道に移り住んでいる。この6年の間に作家の基礎を築いた。貧乏であった芙美子は「偉くならねばならない。一流になるために一級に学ぶ」という言葉を残しているように上昇志向の強い女性だった。この記念室には芙美子の自筆の額が飾ってあった。   花のいのちは   みじかくて   苦しきことのみ     多かりき 森光子の連続公演記録とでんぐり返しで有名な「放浪記」が出版されたのは、1930年(昭和5年)で、この作品で27歳の芙美子は一躍、流行作家となった。大学卒の初任給が1万円程度だった昭和26年に芙美子の月収は120万円だったという証言がある。現在の初任給は20万円だから、月収2400万円という計算だ。年収では約3億円である。芙美子は恋多き女で生涯6人の恋人を持った。 1951年に48歳で心臓麻痺で亡くなるが、その数時間前に撮った写真が飾ってあった。雑誌の食べ歩きの取材の時の写真だが、顔にむくみが現われていた。 暑い中、千光寺の階段を汗をかきながら登りきったところに吉井勇の碑があった。 「千光寺の御堂へのぼる石段は  わが旅よりも長かりしかな」 吉井勇が51歳のときに詠んだユーモアと実感のこもった歌であるが、50代の私も共感した。 山の頂上付近に安藤忠夫設計の尾道市立美術館がある。ベルギーの作家の展示をやっていたが、展示室から見える瀬戸内海の風景は絶品である。最近、「自分の家に飾りたいか」という基準で絵を見るとよいと教えてもらったが、いいアドバイスだと毎回思う。 ロープーウエイでたった3分で山麓に着いて拍子抜けする。 明治時代に建てられた白壁を利用した「おのみち映画資料館」を訪問。尾道ゆかりの映画作品の資料を展示する資料館だ。 小津安二郎監督(1903年――1963年。60歳で永眠)。家族をテーマとしたこの監督には今もファンが多い。名作「東京物語」で冒頭と最後に尾道が出てくる。老夫婦が息子や娘のいる東京を見学するという物語だが、笠智衆の名演技もいい。「秋刀魚味」「蓼科日記」「麦秋」など小津監督は生涯で54本の映画を撮っている。 「一番苦労するのが脚本」という完全主義者であった監督は、シナリオ、ロケハン、撮影、美術、衣装、証明。編集、音楽とあらゆる部分にこだわっている。14歳でアメリカ映画「シヴィライゼーション」を見て、映画監督になる決心をする。20歳で松竹キネマ蒲田撮影所助手、23歳助監督、24歳監督。 映画作品の印象深いシーンを解説した映像をしばらく鑑賞した。 90歳を超えてなお現役の新藤兼人監督と、尾道出身の大林監督の展示もあった。 山陽本線で三原に出て、新幹線で広島へ。

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