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「詩画」という独自の表現方法を編み出した星野富弘には、ファンが多い。1946年生まれというからまだ50代である。群馬県勢多郡東村に生まれた富弘は群馬大学を卒業後、中学校の体育教師になるが、新任で赴任した直後の6月17日に器械体操のクラブ活動を指導中に首から落下し頚椎を損傷、手足の自由を失う。大学時代に登山やスポーツに明け暮れたように、体を使う仕事をしたいとの想いを抱いた富弘は、体を使えなくなるという悲劇に見舞われる。
体も首も動かせない、言葉も使えない富弘は2年後、筆を口に加えて母が動かしてくれて「お富」という文字を書く。横向きになって口で絵筆を噛みながら文字を書くという表現手段を得た富弘は、「あ」という文字を書くのに5秒かかった喜びをビデオの中で語っている。そうすると今まで見てきた作品の味のある達筆は、その後の練習によって勝ち得たのかと胸が詰まった。ビデオの中の富弘は、ゆっくりかみ締めるように話す姿は、やさしく誠実な人柄を感じさせる。5年後、スケッチブックをベッドの横に固定する工夫ができて、今まで手で持っていた母の両手が空いた。母がパレットを持てるようになり、絵に色がつけられるようになり、絵に言葉を添えて手紙を描き始める。富弘美術館の作品には花をモチーフにしたものが多い。お見舞いの花が唯一の接することができる自然であり、花が友達だったという言葉に納得する。毎日花を見つめる富弘は、その色と形に驚く。自然の姿をそのまま写しとればいいと思い、絵とそれに言葉を添えた作品をつくり続ける。9年目、思いがけず展覧会を開くことになる。それまでにかきためた10冊のスケッチブックは、1979年5月15日に展覧会で多くの人の目に触れ、深い感動を与える。その年に退院した富弘は詩画作家としての道を歩む。入院中に聖書を読みキリスト教の洗礼を受けた富弘は、1981年には伴侶も得ている。 下記の絵と詩に興味を持った。 「いのち」 「盛夏」 「絞り染め」 「夏の陽射し 大地に染みて 太陽の 絞り染め」 「さくら」 「すかしゆり」 花に教えてもらって その言葉をつむぐ 花に描かせてもらおう 「夏」 アキノキリンソウを描いた絵には、「緑色の炎が 村を焼いて 夏が 帰っていった」 「すいせん」 「幸せという花があるとすれば その花の つぼみのようなものだろう 辛いという字がある もう少しで 幸せに なれそうな字である」 毎年全国各地で展覧会を開催している。出版された著作に感動した人々が集まって主催者となり、詩画展を行うというスタイル。 助詞が小さく右下に少しずらしながら書くクセがある。 草木湖に面したロケーションと同時に、四角の変哲の無い建物の内部の空間のつくりが独特で素晴らしい。これは誰がつくったのかと思ったら、同行した息子も同じ疑問を持ったらしい。1211案の応募があったコンペで最優秀賞をとったのは、1962年生まれの「ヨコミゾ マコト」という人だった。審査委員長は仙台メディアテークという素晴らしい作品をつくった伊藤豊雄さん。この美術館は、村立だった。 「4つのコンセプト。非中心性、非全体性、相対性、非均質性」「環境全体が一つの展示空間」「大小の円の集合によるネットワーク」「年間40万人が訪れる星野富弘さんのポピュラリティと特殊性をどう建築化するか」。 建物の内部は、広場も、展示空間もすべて円形である。壁が円形に湾曲しているので、展示空間が平板とならない。展示する作品も多くなる。星野富弘の作品が醸し出すやさしい雰囲気とマッチした空間になっている。 十周年記念誌には多くの人からのメッセージが載っている。 三浦綾子「大いなる仕事の陰に」 俵萌子「星野さんへのファンレター」 山根基世「風の旅に導かれて」 篠田三郎「富弘さん役を演じて」 相田一人「『憂い』の人」 この美術館には、幅広い年齢層の訪問者が多い。このような絵と言葉に共感する人が多いことに、感動を覚える。 ------------------------------------------ 童謡ふるさと館 同じく東村の村立館で、花輪小学校校長だった石原和三郎を顕彰した記念館。1865年―1955年。大槻三好という人物が「童謡の父」という本を書く。 言文一致唱歌の創始者 童謡は子供の気分で、、 「、、ける」「、、かも」 田村虎蔵と組んで小学校唱歌の革新を目指した。 石原和三郎の童謡の代表作はよく知っているものばかりだった。 「うさぎとかめ」 「だいこくさま」 「はなさかじじい」 「金太郎」 ----------------------------------------------------------------- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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