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久恒啓一

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文京区立鴎外記念本郷図書館を訪ねた。子供連れのお母さんや、子供一人で来ているケースも多い。また区民サービスセンターも併設されている。また印鑑登録や住民票や戸籍のサービスが行われていたり、本のリサイクルコーナーもあり、住民が持ち帰れるようにもなっているなど、区民に密接な図書館だとの好印象を持った。ちょうど職員が子供に説明する内容が聞こえてきたが、あたたかい感じがした。

明治の文豪・森鴎外を記念した記念室の入り口には、遺書が飾ってある。東大の同期生で生涯の友人である賀古鶴所に口頭で説明しまとめてもらったもので「余は石見人 森林太郎として死せんと欲す。墓は森林太郎之墓と書き、書は中村不折に依託。宮内省や陸軍の栄典は絶対に取り止めを請う」とある。

(鴎外の漢字はこのブログではきちんと出ないでのこの文字を使っている)

千住にある「かもめの渡し」という地名をもじったものとする説が有力だ。「かもめの渡し」は吾妻橋の上流にあり、歓楽街の吉原を指す名称だった。遊興の地に近寄らず、遠く離れて千住に在るという意味が込められている。

鴎外は1862年に津和野町の典医の長男として生まれ、10歳で上京し、西周邸から進文学社でドイツ語を学んだ。2歳ほど年齢を詐称したようで、12歳で東京医学校予科に入学、最年少記録の19歳で東大医学部を卒業する。卒業時の席次が8番であったので、海外留学の夢をあきらめて、陸軍に入る。

その後、衛生学研究・衛生制度調査を目的に4年間のドイツ留学をするライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで生活する。滞在中は西欧の文学・哲学・美学にも関心を払う。ミュンヘンでの「うたかたの記」の主人公・巨勢のモデルである画家の原田直次郎らと友人との写真がある。洋服、帽子、ステッキ、そして腰に手をあててきどった若い鴎外の姿が微笑ましい。

帰国後は、赤松則良男爵の長女・赤松登志子と結婚し、赤坂の上野花園町に住むが離婚する。最後に、見晴らしのよい千駄木に両親・祖母を呼び寄せ320坪の広い土地に1階77坪・2階10.25坪と5坪の家を建て、観潮楼と名づける。陸軍軍人として勤務しながら文学活動に力を注ぐ35歳の鴎外は露伴、緑雨と三人冗語という新作合評を行い、樋口一葉の「たけくらべ」を評価している。またドイツ三部作として舞姫(有望な留学青年の異国の恋、挫折と再生)を書いたり、慶應技術大学の美学の講師も兼ねる。慶應の福沢と写った写真もある。

勤め人としての鴎外は、必ずしも順風満帆ではなかった。軍医監・第12師団軍医部長という職位で九州の小倉に左遷される。「小倉日記」には雌伏の時代の公私の生活や心情が記されている。1902年には大審院判事・荒木博臣の長女・荒木しげと再婚するが、これも短い期間で終わっている。小倉時代は文学、美術、評論活動を一切中断するが、第一師団軍医部長として東京に戻る。

東京では、原作以上と言われた9年かかった即興詩人の翻訳などを著した。途中、日露戦争に第二軍(黒木大将)軍医部長出征し、奉天に進軍する。この時も、戦地から詩や短歌を書いた手紙を家族に出し、それが「うた日記」となる。観潮楼の歌会には、与謝野寛、伊藤左千夫、佐々木信綱らと歌会を行っており、石川啄木も寛の紹介で参加している。本職では軍医総監・陸軍医務局長に栄進している。
1909年から1915年は文学活動がもっとも盛んな時期である。「青年」「雁」「イタ・セクスアリス」乃木将軍の殉死に衝撃を受け一夜で書き上げた歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」などを書いている。西園寺公望候から贈られた「才 学 識」という見事な書もある。

昼は陸軍軍医、夜は文学・歴史・哲学の研究という二足のわらじを履いていた鴎外は、渋江抽斎という人物に興味をひかれる。抽斎は昼は津軽藩御典医、夜は中国古典の考証学者であった。自身の境遇との関係で共感を持った鴎外は「渋江抽斎」も書く。

陸軍を定年退官した鴎外は、帝室博物館総長・宮内省図書頭としても活躍する。
鴎外の55歳の写真では、まばらな髪、こけた頬などもう老人の風貌である。

鴎外は1922年に60歳で没するが、与謝野寛は死の枕元で「鴎外の顔クリストに似たり」と記している。

年表を見ると大正4年(53歳)には7冊の本を出版しており、その前後が創造のピークだったということがわかる。貞献院殿文○思斎大居士。

「歴史小説にゆかりの地を歩く」という企画展をやっていた。鴎外は史伝という独特の文学の形を模索している。史実に忠実であると同時に一族や同時代にまで及ぶというスタイルでらう。忙しい軍務の傍ら、多くの人々に会ったり、故人の墓を訪ね、その記録をもとに史伝を執筆している。

鴎外に関する書物を200冊ほど集めた書棚があった。「鴎外と漱石」「芭蕉・鴎外・漱石」「森鴎外 不遇への共感」「仮面の人 森鴎外」「両像・森&鴎外」(松本清張)「美神と軍神」「不遇の人 鴎外」「逍遥・鴎外・漱石」「鴎外 小倉左遷の謎」「新説 鴎外の恋人エリス」「小説 鴎外の恋」「鴎外 逆境の人間学」(吉野俊彦)「鴎外語録」(吉野俊彦)「鴎外百話」(吉野俊彦)、、、。

これらの本を、本棚のまえに座り込んで、いくつも読んでみた。

・鴎外は夕食後、暗い部屋で横のなり12時に起き、午前2時まで、創作や翻訳に励む。
・56歳の時に、「生きている限り考えるという作用を続けるに違いない」「そこで残る問題は、私がその考えるという作用の対象として何を選んでいるかということである」「主として書物、創造的な側面(詩歌・伝記)」
・私は毎月毎日自分に与えられた義務を果たしてゆけばそれで十分だという、、」。何かほんとうの生き甲斐のある生活が他にあるはずだという思い思いしつつ、もうかなりの年になってしまった」
・私は長いこと、本職の余暇にいろいろな文学活動もやってきたが、それをほめてくれる人はいなかった」

日銀の理事から山一證券経済研究所理事長として活躍して、最近亡くなった吉野俊彦氏(1915年生まれ)の鴎外本は13冊もあった。サラリーマンと執筆活動の両立という境遇を生きた鴎外に関心を持って研究した人物だ。吉野氏が活躍していたひと時代前には鴎外の行き方も脚光を浴びたが今の時代ももっと陽があたってもいいと思う。一般に自分と似たところのある人を研究する人が多いのもうなづける。

離婚するなど家庭面でもいろいろな障害があったが、鴎外は、軍人としての本職をゆるがせにすることなく、文学活動として数多くの名作を発表した人物である。知っているつもりだったが、鴎外の作品は何一つまともに読んでいないことにも気がついて恥ずかしくなった。。何を読もうかな。








Last updated  2005/11/27 01:43:27 PM
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