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久恒啓一

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仙台から、平泉、花巻、盛岡、弘前と東北自動車道を延々と走り、津軽の中心である五所川原からさらに北にのぼってやっと太宰治(1909年ー1948年)の生れ故郷の金木に着いた。本州の北の果てだ。太宰治記念館「斜陽館」は悠然とした大きな姿を現した。太宰の父・津島源右衛門が建築した入母屋造りの建物で、1階11室278坪、2階8室116坪、付属の建物や庭園などを合わせると680坪の豪邸である。青森ではリンゴが有名だが歴史は浅い。昔から名物は青森ヒバである。明治40年(99年前)のお金で4万円というから、今の値段では7-8億円に相当する。この青森ヒバをふんだんに使った建物は造った人の豪気さがうかがえる。
この建物はいったん人手に渡った後、昭和25年から旅館「斜陽館」となって太宰のファンが全国から訪れた。旅人が陽が傾いた頃にやってくることからつけたという説もあるが、太宰の名著の斜陽の舞台として人々の旅情を誘ったに違いないネーミングである。30人の大所帯がここで暮らしていたが、太宰は11人兄弟の10番目だった。
館内には銀行、郵便局、喫茶室まであり、ふすまを取り払うと64畳の大広間に変身する4つの座敷、見事な欄間の彫り、物凄く立派な浄土真宗の大きな仏壇などがあり、驚く。2階は手すりのついた階段から主として洋風に変わる。ため息が出るような家である。

2250俵も入ったという米蔵の中を使って太宰治の企画展をやっていた。この米蔵は太宰が遊んでいて父から叱られた曰くつきの場所である。
県内屈指の素封家に生れた津島修治(太宰治の本名)は、小学校時代は首席・総代の秀才だったが、修身と操行は乙だった。意表をつく作文などが目だったという。青森中学では1年次2学期から卒業までずっと級長をつとめていたが、茶目っ気も多かった。4修(5年の年限のところを4年で修了する)で弘前高校へ入学する。芥川龍之介の講演を聞き尊敬をするが、一方で社会主義思想に共感を寄せたり、遊郭で遊ぶなど方向がぶれてくる。21歳で東京帝大仏文科に入学する。この頃から小説修行として井伏鱒二に師事する。26才で授業料滞納により大学を除籍されるが、この頃芥川賞次席となる。この年は石川達三の「蒼茫」が受賞。30歳では「走れメロス」を書く。北村透谷賞次席。一席は萩原朔太郎。32歳、新ハムレット。34歳頃から他人の日記や史実、伝説などを取材した作品が多くなる。35歳、魯迅調査のため仙台医専を取材し「惜別」を書く。38歳、「斜陽」がベストセラーに。39歳、「グッド・バイ」、「人間失格」。そして玉川上水で山崎富栄と心中。
この作家の作品年譜を眺めてみて、なんと多作で精力的な仕事振りだろうと感心する。毎年、物凄い量の作品を生み出している。この作家が長生きして書き続けていたら、とほうもない存在になっただろう。

高等学校時代から、兄文治のカネで芸者遊びをしながら社会主義を論じる太宰は、兄の頭痛の種であった。「金ですむ芸者遊びならば、まだいい。が、アカ(共産主義)だけは絶対困る」と町長、県議、衆議院議員、県知事を歴任した文治は語っている。困った弟だったのだ。終戦間近に文治が空を見上げながら太宰に向かって「早く焼けないかな、この家」と語りかけたそうだ。家を守るという難行に兄も苦しんでいた。この人物にも興味が湧く。
しかし、「小説家という冠をいただいた極道者」「女狂いしたヤマゲンの悪たれ者」は、その後天才作家として世の耳目を集めていく。

太宰は天才肌のように思えるが、意外なことに弟子の小野正文が船橋の自宅に訪ねたとき「作家にとって大切なのは勉強すること、つまり本を読むことだ」「横光利一が行詰っているのは不勉強のためだ」と言われたという。

帰りに地元の新聞に太宰が弘前高校時代に下宿した旧藤田家住宅が「太宰治まなびの家」としてオープンして、太宰の小説の朗読会をやっている記事がでていた。
との記事があったので、弘前に寄る。午後4時までの開館だったが、3時45分に着き15分だけ見学できた。中廊下型住宅という新様式の住宅で、大正時代の住宅として貴重なものである。2階に二部屋あり、奥の6畳間と板の間が太宰の住んでいたところだ。畳には座り杖、板の間には立ち机が残っている。手前の8畳間に暮らしていた藤田本太郎氏の6月3日の日記に「修治さんが作った小説、原稿用紙に三十枚をよんできかされた」とある。

私自身振り返ってみると、太宰の作品を読んだのは「人間失格」くらいだったろうか。堕落、退廃、というイメージがあり、親しむことは少なかった。今回、「津軽」という名作を読んでみた。亀井勝一郎が「全作品の中から何か一篇だけ選べと云われるなら、この作品を挙げたい」と言っている佳品である。故郷の津軽を3週間にわたって旅をした記録であるが、太宰の人柄、感性、がよく出ていると感じた。津軽の歴史と風土の説明、友人や出会った人達の生き生きした描写、クライマックスの育ての親・たけと会う場面、など途中で中断することができないくらい引き込まれていく。
「たけは、お前に本を読む事だば教えたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきゃのう」と言うたけは「強くて無遠慮な愛情のあらわし方」をする。「ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったということに気付いた」とある。
これは紀行文学の傑作である。司馬遼太郎の「街道を行く」も同様な手法を用いているが、個人の感情をあからさまに明らかにはしない。偉い先生から教えを受けているという感触が確かにある。太宰は、弱さや自分の感情をユーモアを交えてさらけ出しながら書いていくから、読者は強い共感を感じるに違いない。谷崎潤一郎や三島由紀夫、川端康成などの文豪の文庫はどんどん減っていく傾向にあるそうだが、太宰の文庫本はむしろ増えつつあるとも聞く。若い人のファンが多いらしい。

兄・津島文治は政治の道で成功したが、政治家は50年も経てば忘れられる。作家は書いたものが残るからいい作品を書けば寿命は長い。しかし文豪と呼ばれる人も次第に書いた作品そのものは忘れられていく。太宰治は、生後100年近くになって、政治家の兄や自身があこがれた文豪たちを超えつつのかもしれない。






Last updated  2006/05/04 07:51:52 AM
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