今日も生涯の一日なり

2006/08/06(日)21:33

布施辰治(石巻文化センター)

2年ほど前に、河北新報で布施辰治という名前を見かけた。私にとっては懐かしい名前である。高校2年生のとき、岩波新書の「ある弁護士の生涯」という本を読んで、布施辰治という人物の生き方に感動した。私はこの時点で進路に決断を下した。法学部に行って弁護士になろうと決心したのである。このときの姿を母は「朝の厨に貧しき人のため弁護士になると吾子は告げに来」と短歌に詠んでくれている。私はその後法学部に進む。しかし、結果的には弁護士にはなれなかったが、この人物と書物が人生の進路に影響を与えたことは間違いない。 河北新報の記事によると、布施辰治(1880--1953)は宮城県石巻市蛇田の出身の人権派弁護士で、韓国政府から日本人初の「韓国建国勲章」(平成16年)を受けたとのことで、その後たびたび紙面にとりあげられ、ようやく布施辰治の常設コーナーがある石巻文化センターを訪問した。センターの隅に布施辰治の小さな展示コーナーがあった。石巻市は布施辰治顕彰会と家族から5000点の資料を寄付され、このコーナーをつくった。 明治法律学校を卒業した布施辰治は、農民、労働者、借家人、朝鮮人という弱者の側に立って生涯にわたって活動を行った。法律家・思想家・社会運動家として生きた布施辰治の座右の銘として次の言葉が紹介されている。   「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」   「正しくして弱き者のために余を強からしめよ」 また、「敬天愛人」の本人自筆の書もある。この言葉は、江戸時代の大儒佐藤一斎の言葉であり、西郷隆盛などが座右の銘としていたが、布施辰治もこういう心持で人生を生きていたのであろう。 布施辰治の遺品は、朝鮮建国憲法草案私稿、表札・印鑑セット・硯箱セット・法衣・写真・法帽・弔辞・松川事件訴訟趣意書、、、。 22歳:判事登用試験合格、宇都宮地裁、25歳:トルストイに傾倒、26歳:東京市電値上げ反対騒擾事件弁護、37歳:普選運動を始める、38歳:米騒動弁護、39歳:万歳事件、41歳:自由法曹団結成、42歳:借家人同盟結成、43歳:朝鮮に渡る、46歳:日本労働組合総連合会長、52歳:弁護士除名、60歳:プラカード事件、69歳:三鷹事件弁護団長、松川事件、71歳:公安条例廃止運動、72歳:血のメーデー事件、大阪吹田事件、73歳:内臓ガンにて死去。 伝記によれば間引きされる運命にあったが、早産で産婆が間に合わず、生まれてしまった布施辰治は、人生を意義あらしめることに人一倍信念を注ぐことになったのである。布施辰治は、法廷の戦士から、社会運動の闘卒へと向かう。個人の救済から社会の改造へと、弁護士活動を拡大して行った。 ・朝鮮と中国のような第一級の文化を持つ国民を武力で鎮圧してはならない。 ・徳で統治すれば栄え、力で統治すれば滅びる。 ・彼らの法律で彼らを縛れ。 ・弁護士活動を前進させ、社会運動の一兵卒となる。 ・自由を奪われた者は自由を奪い返す為、食物を奪われた者は食物を奪い返す為、闘わざるを得ない 布施辰治研究の第一人者である森正・名古屋市立大学名誉教授によれば、弁護士の使命は「人権の擁護と社会正義の実現にある」と明記されており、弁護士法第一条に一貫して忠実であろうと苦闘したと述べている。足跡の幅の広さ、重さ、権力との長きにわたる緊張関係、その密度の濃さ等から布施は弁護士群像のシンボル的存在としている。 布施の人権思想は、自由民権思想(あらゆる思想に寛容であるべきとするヴォルテール的発想)、東洋思想(論語、陽明学)キリスト教(キリスト教的人道主義)、初期社会主義思想、トルストイ思想(人間の価値と尊厳性を重んじ、良心を信じる)の5つの思想によってなりたっている。 石巻文化センター調査研究報告の「奥の入会紀行」を読む。 ・空想や妄想に放散することを戒める思索訓練法 ・今度の旅行は、そういう入会権事件の研究を徹底して、私の残生を捧ぐべく決心した ・四時起床、、、、六時まで日記を書く、 ・昨晩はどうしたものか、大杉栄氏の夢を見た。 ・床上運動を一時間ばかりやってから起きた ・私はどんな所にも、何時でも眠られる、、、 関わった事件の概要 ・プラカード事件   1946年5月19日の食糧メーデー   「朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね」という プラカード文面が不敬罪起訴 ・三鷹事件   1949年7月15日   無人電車が暴走、駅前の民家に突入、通行人6人が即死、20余人が重軽傷   吉田茂首相は、共産党の行為と断定   国鉄労組9人逮捕 ・松川事件   1949年   脱線転覆で乗務員3人が即死   最高裁差し戻し判決で全員無罪 ・血のメーデー事件   1952年5月1日   死者2名、負傷者1500名。1232名が逮捕。   最高裁で全員無罪 -------------------------------------------------------- 私が写真を撮ったり、メモをとったりしていると、受付の女性が詳しく知りたければ学芸員を呼びましょうかと提案してくれた。学芸員は資料を見せてくれて説明をしてくれた。 布施辰治は、日本による植民地統治下の朝鮮で数多くの独立運動家の弁護活動を無償で引き受けている。第二次大戦中、ユダヤ人難民を多数救った外交官杉原千畝になぞらえて「日本人のシンドラー」とも呼ばれる。しかし母校の明治大学法学部の韓国「建国勲章」受章記念シンポジウムで、布施辰治先生人権平和記念事業会代表者は、ドイツ人・シンドラーには布施辰治のような深い哲学とこれを実践するだけの勇気がなかったと語って、シンドラーは布施の足元にも及ばないと述べている。 また、日本人でありながら、日帝の監獄で闘い、弁護士資格まで剥奪され、三男・杜生(京都大学生)を獄中で失うという辛酸を舐めたと韓国側からの評価を述べてもいる。 2003年7月に叙勲が決まったが、日韓関係の政治的配慮から、政府通商外交部の2度にわたる保留措置がとられた。関係者の努力により2004年10月15日にようやく、「韓国の自主独立と国家発展に資したところが大きいので」盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領から受賞した。 この代表者は、大局的見地から日韓両国の教科書に布施辰治の偉業を載せるべきだとも提言している。東アジアの緊張緩和のためにも、この布施辰治という人物の行った業績をもっと多くの人に知ってもらうべきだと感じた。日韓関係が必ずしもよくない中、この布施辰治の功績はもっと輝かせるべきだろう。

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