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関が原の戦いで破れた西軍の大将だった120万石の長州藩の藩庁は広島にあったが、36.9万石に減ぜられ萩へ移った。そして266年間にわたり栄えた。
今回の旅は明治維新の旅だった。 -------------------------------- 吉田松陰 松下村塾 8畳(講義室)と後に増築した10畳半(宿舎)という狭い空間で一年間の教育だった。 最盛期は70-80人。時に松蔭は27歳。塾生が多くなり場所が無くなると松陰先生は中二階の狭いところで本を読んでいたそうだ。 親思う心にまさる親ごころ 今日のおとずれ何ときくらん 吉田松陰歴史館 松蔭は日本中を歩いて学んだ。長崎、平戸、北九州各地、東北諸国。東北では藩の通行証の発行を待ちきれず、脱藩する。平戸では橋本佐内、熊本では宮部鼎三と会う。 「読書しつつ、要点を一々抄録する」という勉強法で、平戸では80冊、長崎では26冊を読んだ。「必ず要点を書き取ることが不可欠の勉強法である」 学殖は当代随一といわれた佐久間象山は「今や、日本に必要なのは西洋学である」といい、松蔭は入門し、海外視察を計画する。ペリー艦艇に入り込むがかなわず送り返され罪に問われる。獄中も経学と史学に没頭1年2ヶ月で492冊を読破している。 ぼくは忠義をするつもり、諸友は功業をなすつもり 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちるとも留め置かまし大和魂 松下村塾で学んだ人物たち。 久坂玄瑞(1840-64年) 高杉晋作(1839-67年) 木戸孝充(1833-77年) 前原一誠(1834-76年) 伊藤博文(1841-1909年) 山県有朋(1838-1922年) 品川弥二郎(1843-1900年) 山田顕義(1844-1892年) --------------------------------------- 伊藤博文旧居・伊藤博文別邸 旧居は伊藤は14歳から28歳までの14年間を本拠とした家。萱葺きで7室。89.52へーべ。典型的な下級武士の家。出生石。 別邸。土地1309.76へーべ。荏原郡大井村、今の品川区にあった家を移築したもの。 伊藤が明治天皇から下賜された恩賜館が憲法記念館となり、現在の明治記念館となった。 ------------------------- 桂太郎旧居 総理をつとめた拓殖大学の創始者。 「里仁為美」(おるじんとしてびとなす) 自らの身を仁という場所におくにが美しく結構なことだ 生まれたところに自宅が欲しいという本人の希望で建てた家。 土地905.77ヘーベ、建物69.5ヘーベ。 ------------------------ 木戸孝充旧居 桂小五郎としての名前の方が馴染みがある。「知」の木戸。 土地829.75ヘーベ 主屋216.48ヘーベ --------------------------- 青木周弼旧宅(1803-1863年) 医者 青木研蔵(実弟)が継いだ青木家は養子の青木周蔵外務大臣が継いだ。 --------------------------- 高杉晋作旧居 名は春風 あざ名はよう夫 通称は晋作 東行 西海一狂生 東生一狂生 --------------------------------------------------------- 今度の旅で使った交通機関は、船、タクシー、鉄道、バス、新幹線、飛行機。 門司港から渡船で関門海峡を超えて下関、 下関からタクシーで厚狭(あさ) 厚狭から鉄道。JR美祢線で中国山地を横切り日本海沿岸の長門、山陰本線で東萩、 東萩からバスで内陸の新山口、 新山口から山陽新幹線で福岡、 福岡から空路仙台へ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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