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October 2, 2015
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「軍隊なき占領 (An Occupation without Troops)」 1996
By Glenn Davis & John G.Roberts 森山尚美訳
を読む。敗戦後米従属化日本の根幹が詳細に述べられた、志ある人には必読の書、否、全国民が知らなければならない、隠された真実が、米歴史学者によって示された極めてシリアスな書です。

ウオール街がロシア革命を支援コントロール。
ウオール街(プレスコット・ブッシュ、エイブリル・ハリマンはユニオン・バンキング・co-opを通じて。他)がナチス、ヒトラーを支援コントロール。

   【参考:1933.1.4  ナチス党首ヒトラーが、ケルンのクルト・フォン・シュレーダー男爵邸(ハンブルクの銀行家ファミリー当主)に招かれ、保守派パーペン元首相と会談。 → ダレス兄弟もいた。→ クーン・ロエブ商会の法律代理人の資格で。また、兄弟は英米のJ・ヘンリー・シュローダー商会の役員であると同時に、 サリバン・アンド・クロムウェル法律事務所の弁護士として同銀行の代理人も兼ねていた。ジョン・F・ダレスは妻を通じてロックフェラー家の一員。  → ヒトラーを首相に就任させるために必要な資金を確実に提供することを確認。 → J・ヘンリー・シュローダー商会は、独から移住したブルーノ・フォン・シュレーダーが1904年ロンドンで、1914年ニューヨークで夫々設立した金融商会。 → ブルーノ・フォン・シュレーダーはクルト・フォン・シュレーダーの従弟。1933.1.30 独大統領ヒンデンブルグが新内閣発表(ヒトラー首相、パーペン副首相) 】

これらのことは、スタンフォード大、フーバー研究所教授でもあった、アントニー・サットン氏がその詳細を調査し、公書として発行されている。日本語訳もいくつか出ている。(サットン氏は調査論文発表後には、様々な圧力を受け続けたが信念を曲げることはなかった)

仮説:ウオール街とロンドンシテイが明治維新を支援コントロール。
事実:ウオール街が昭和期以後の日本をコントロール。
   このことは、トーマス・ラモントやジョセフ・グルー等が昭和初期から日本の中枢人物ににcontactしてきた事実が明瞭に示している。戦後については、上記の書の著者米人(59年以降東京日本居住、1993年6月没)が日米の内部資料等を綿密調査の上、1996年に発行されている。(当ブロガーは最近知った)

 現在日本の、安保戦争法案、沖縄米軍基地(本州の米軍基地も含め)等の極めて重大な問題の根源が、如何にして操作、誰によって、導かれてきたのかが、米人歴史家によって分析されている。
 私たちは、他国の軍隊が自国の要所、要所に当然のごとく駐在し、その家族まで住み着いている、ということにオカシサ・異和感すら感じないほどに、家畜化されています世界唯一の主権を持たない経済大国「不思議の国」に住んでいるというわけです。(単なるATM国家?・・・)
参考写真。週刊現代2015.9.19号より。
岸と児玉誉士夫の蜜月
在日朝鮮人の東声会会長町井久之と山口組三代目組長田岡一雄の兄弟杯
 (注:町井久之(鄭建永)は在日朝鮮人の戦後期の裏世界の帝王といわれた男。東声会会長)

 以下、かいつまんで、岸信介に関係する記述を引用します。

「1940年代から60年代にかけて、カーンは日本で最も有名な戦後の首相、吉田茂と、いわゆる保守本流のその後継者達を訪問するのを常としていた。後継者の中には、アメリカ対日協議会のおかげで栄達を果たした人が何人かいた。なかでも特に知られているのが、戦前の傀儡国家「満州国」の産業界のボスで、東條内閣の商工相(後に軍需次官兼務の国務相)をつとめた岸信介だった。岸は重大な戦争犯罪の容疑を問われ、戦後三年間を巣鴨拘置所で過ごした。(今、その跡地には、「サンシャイン・シテイが立つ)しかし、アメリカ対日協議会ACJが設立された1948年にはどういう訳か釈放されているその後、岸が東條内閣の他の閣僚達を含めた戦前の軍国主義者や帝国主義者らを従えて保守党総裁の地位までのし上がったのは、カーンとACJの仲間たちの力があったからだという説があり、また、これを裏付ける証拠は充分に存在する。
」(P.16)

「アメリカによる占領期間中、カーンは『ニューズウイーク』の本社外信部長の職にあった。」(P23)

「・・・それでもカーンは満足しなかった。彼の師匠、ジョン・フォスター・ダレスもやはり同じだった。共和党上院議員あったダレスは、その時点で国務省特別顧問も務めていた。1950年6月、ダレスは、マッカーサー及び・・・ホイットニ准将と対日平和条約の条件を協議していた。・・・ダレスは日本の再軍備を説いていたが、それに拒否権を発動したのがマッカーサーだった。6月18日から21日まで、ダレスは韓国を訪れ、38度線の防衛施設を視察した。(ブログ注;児玉誉士夫・町井久之が同行していたとの説がある)東京へ戻ると、直ちにマッカーサーと協議した。その直後にAP通信に、「米国は、極東における平和維持のために積極的行動を起こすだろう」と予言めいた発言をしている朝鮮戦争勃発(6月25日)後、わずか4か月という時期に、ダレスは、「日本を自由世界圏内にとどめておくという問題は朝鮮のおかげで・・・ようやく解決可能になった」とのべた。(書の注:1950.10.23の外交問題評議会CFRの日本の平和条約問題研究グループでの議事録より)  (P26) (ブログ注:前々回までの当ブログで、アベの調教にCFRの会長が乗り出していたことを記載しました)

1950.6.22、ダレスは、カーンの招待を受けて、東京のパケンハム邸(『ニューズウイーク』東京支局長)を訪れた。この場所が選ばれたのは、人目を避けるためだったようである。『ニューズウイーク』東京支局のスタッフさえ知らされていなかったというこの会合は、後から振り返ると、日米間の非公式外交における、ひとつの意義深いエピソードであるように思われる。ダレスに同行したのは、国務省東北アジア局長のジョン・M・アリソン。グルーの右翼派閥の熱心な支持者であり、その後、駐日大使となった。カーンも出席していた。というよりも、カーン自身がこの会合のお膳立てをし、ダレスに出席するよう説得したのだった。ほかの出席者は、すべて「消息通」の日本人であり、注意深く選ばれた顔ぶれだった。一人を除き全員が流暢な英語を話した。パージされた者はひとりもいなかった。各人がそれぞれ、アメリカ対日協議会(ACJ)のひとつないし複数の主要目的の分野を代表していた。日本人客のうち最も高位にあったのが宮内庁式部官長の松平康昌だった。元侯爵で、三井本家の家長の義兄にあたり、木戸幸一内府の秘書官長をつとめたのち式部官長になった。このようなキャリアから、彼は戦時の主要な決定に参画しており、当時もなお皇室との極めて有用なパイプ役となっていた。ほかに、超国家主義の外交官、沢田廉三(ブログ注;妻は混血孤児院サンダースホームの沢田美喜で、三菱創業者岩崎弥太郎の孫)も出席していた。キリスト教に改宗した沢田は、三菱財閥の当主の娘と結婚していたダレスと引き合わせるために招かれた選り抜きの日本人客の中に、元子爵の渡辺武もいた。・・・渡辺はIMFおよび世界銀行の理事を務め、ついでアジア開発銀行の総裁に選ばれた。1977年末に、ハリー・カーンが首相を訪問した頃、渡辺は、まさに最盛期を迎えていた日米欧(三極)委員会の日本側委員長をつとめていた。この委員会は、デービット・ロックフェラーが創設したもので、・・・。
 パケンハイム邸でのこの会合には、海原治も顔を見せていた。海原は日本再軍備の第一段階である国家警察予備隊(後の自衛隊)の創設に当たった中心人物であり、その後、防衛庁防衛局長、防衛長官官房長を経て、国防会議事務局長になる。
 1950年6月のこの私的な会合の意義を評価するにあたって忘れてはならないのは、ダレスがすでに共和党の首席外交顧問であり、それから三年後にはアイゼンハワー政権のもとで国務長官になったということである。もうひとつ重要な点は、・・・弟のアレンが、丁度その時、CIAを新設するためにワシントンに着任したばかりだったことである。・・・・この会合からわずか三日後には、38度線で襲撃事件が起こり、朝鮮戦争(1950.6.25~1953)へとエスカレートしていったからであるダレスが「極東における平和維持のために」約束していた「積極的行動」とはこのことだったのだろうか? いずれにせよ、朝鮮戦争の米軍の支援基地としての日本の役割が完全に明らかになった。」(P26-28)


「ダレスは1951年に再び訪日した。このとき同行していたのが、ジョン・D・ロックフェラー3世だった。このときの訪日の目的は、対日平和条約の地ならしをするためだったが、・・・以来、中国との関係を厳しく阻害する結果となった
1951年9月、米国など連合国の大部分(中国とソ連を除く)との平和条約がサンフランシスコで調印されたが、かっての同盟国、中ソの不参加が目立った。
 このように早急で「寛大な」平和に対して米国が要求した代償は、日米安全保障条約への吉田茂首相の調印であった。これによって、SCAP(連合国軍最高司令部)による占領が終わったにもかかわらず、その後の在日米軍の駐留が確保されたのであるしかしながら、この条約の期限切れの前に再確認され、更新されねばならなかった。アメリカ対日協議会(ACJ)としては、それまでに、安保条約、在日米軍基地、そして日本の再軍備に対する国民の反対を克服できるような、右翼的で、軍事的志向をもった政府をつくりあげておく必要があった。 
この役割を担うために、カーンが目をかけていた旧友の岸信介が、注意深く仕込まれた。(前々回までの当ブログがアベについて言いたかったのはこのやりかたです。孫も同じように仕込まれたと言うわけです)岸は1960年、政治家としてのキャリアを犠牲にして日米安保条約改定の批准を通過させた。警察を呼んで野党を追い出し、大乱闘の末に成し遂げた岸の強硬採決は、戦後民主主義政府の暗黒時代のひとつに数えられている。岸の実弟であるタカ派の佐藤栄作は、1964年に首相になるとほどなく、アメリカ対日協議会(AIJ)が構想していた、軍事力増強を完成させるという仕事に着手した。」(p.30)

残念ながら、戦後の米(ウオール街)の日本支配構造は、アメリカ対日協議会(ACJ)から、CSIS等の組織に変わっただけで、必要に応じて発動される構造が固定化されているようです。エリートの傀儡もいつの世にも不自由しないようで・・・。
 以上の流れは日本の近い過去の話であり、今回の安保法案強硬成立は、その延長戦線上にあることが見えてくる。その傀儡育成の構造もまた同様に・・・。

グローバルな総需要が行き詰まり、供給過剰となったとき、供給側は如何なる犠牲を伴おうとも総需要を増やす方策をとる。POWERを備えているのは供給サイドであるから。

総需要を増やすためのイベント広場、それが中東であり南西アジアであり、時には極東アジアFar Eastが・・・
 
 ウオール街は、secret sosiety をその尖鋭部隊として抱えているのかもしれません。
 バチカンがイエズス会を抱えているように。(逆かも知れませんが・・・現フランシスコ法王はイエズス会士)
 では、ウオール街の主人は一体誰であるというのか・・・これは口に出すことが憚れるが・・・






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Last updated  November 6, 2016 08:57:04 PM
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