2020/08/27(木)21:23
「38度線、私が引いた。」デーン・ラスク
文明子は韓国出身ジャーナリスト。朴正熙政権時(1963-79 大統領)に批判的立場であったために、アメリカへ追いやられ、主にワシントンでホワイトハウスに食い込んだ活動をなした。キッシンジャー国務長官の外遊専用機にも記者として搭乗、インタビューできる位置を獲得していたジャーナリストである。
文明子『ヘンリー、あなたが田中角栄を抹殺したという噂があるが、本当
ですか?』
キッシンジャー『 " of course !" 』・・・
以下、『朴正熙と金大中』(文明子著1999 、 訳文2001)より一部概要
≪38度線は私が引いた≫ / デイーン・ラスクが文明子に語った内容(David Dean Rusk, 1909年2月9日 - 1994年12月20日)は、アメリカ合衆国の官僚。ケネディ及びジョンソン政権で国務長官(1961年 - 1969年)を務めた。国務長官の在任期間はコーデル・ハルに次いで歴代2位の長さである。ラスクは1931年に英国のオックスフォード大学のセント・ジョンズ・カレッジへ、ローズ奨学生として留学した。【デイーン・ラスクが文明子に語った内容】 1945年、米陸軍省作戦局戦略政策団政策課の大佐として勤務して いた。
8月10日、日本側がポツダム宣言を受け入れると発表した日、 夜遅く政策課に緊急課題が課せられた。日本軍に提示する降伏文書 のうち朝鮮半島と極東地域に対する草案を作成し、30分以内に提出 せよ、と。 考慮すべき優先事項は、ソ連が受け入れ可能な線を引き、その南へ のソ連の進駐を阻止すること。 北緯40度で分割すると、あまりに北へ偏り、ソ連側が受け入れそう になく、38度線程度なら、半分を公平に分割するように見える上、38 度線以南に首都京城と米軍捕虜収容所、主要港湾施設などがあると いう点が我々に有利だった。我々3人は38度線を引き、日本軍の武 装解除と降伏を受け入れる内容の草案を30分で作成し、戦略政策 団に送った。 ソ連がそれを受け入れ、後日の38度線になった。 デイーン・ラスクの略歴 1946: 国務省入り。 1947:国連部長 1950~51:国務省、極東アジア担当国務次官補 朝鮮戦争に関するアメリカの決定に影響力を及ぼした。 1950:ロックフェラー財団理事 1952~61:国務省を辞し、ロックフェラー財団理事長 1961.1月:ケネデイ政権の国務長官 1963.11.22:ケネデイ大統領暗殺事件 1963,11月~69:ジョンソン政権の国務長官 インドシナ(ベトナム)介入に積極的立場 1970:ジョージア大学 / ロースクール国際法教授に。