2008/04/22(火)11:59
◆追記:心の持ちよう◆
私の住んでいる周辺に、最近アジア系が多く引っ越してくるようになった。
8年位前は殆ど白人で、居心地が悪いと感じる経験は何度もした。
プエルトリコの人達みたいにジロジロ見られるのではなく、完全無視をされるのだ。
息子の通うナーサリーのお母さん達と、すれ違いざまに挨拶をしても無視。見向きもしない。
完全に透明人間状態。
中には普通に接する人も居て、全員がそうであったわけではないけれど、当時人種の坩堝のNYから引っ越して来たばかりの私には、相当ショックなことだった。
私が住んだNY(Roosevelt Island)や、ロングアイランド(Long Island)では、人種と言う言葉を感じた事は無かった。
皆が肌の色に関係なく、当たり前のように普通に接していたから、
この違和感は異様だった。
特にRoosebelt Islandは、日本人の駐在員家族や国連関係の人が多く住む場所だったので、
大抵2,3年、長くて5年ほどで入れ替わってしまうので、皆友達を作ることに飢えていたので、フレンドリーさも普通ではなかったように思う。
今思えばアメリカで暮らしていて、差別を感じなかった方が不思議だったのかもしれない。。。
今住んでいる地域に越して来て、“存在自体無視”と比べると、ジロジロ見られる方が未だ良いと思った。
ショックでナーサリーへの送り迎えが苦痛に感じたんだけど、
そんな時に、大和撫子魂が黙っちゃいなかったのか、
どんなに無視されても挨拶をし続けよう、と心に誓ったのでした。
翌日も、挨拶をしても無視されたんだけど、
もう一度大きな声でにこやかに、
「HELLO!!」
と声を掛けた。
すると相手は、
「あら私、今気が付いたのよ!」
と言わんばかりの演技で、
急に人が変わったように、とってもフレンドリーに、
「Oh,Hi!」
等と言って、バツが悪いのかベラベラ喋り出す人も居た。
自分自身、ちょっとしつこいかな?とか、嫌味な女だな、とか
アジア人が嫌いなんだから放って置けば良いじゃん、何て色んな事を思ったけど、
このまま黙って、悔しい思いをして引き下がるのが嫌だった。
日本人としてのプライドもあったし、
人種差別に押し潰されてたまるか! って思いもあった。
でも、何よりも子供達の為に踏ん張ろうって思った。
というのは、
引っ越して間もない頃に、とても嫌な思いをした事があったからなんです。
夏休みに入り、隣近所合同のBBQパーティーが催された。
道路を塞いで、椅子やテーブルをセッティングし、大きなスピーカーまで持ち込まれ、皆手に手に料理を持ち合い楽しそうにしていた。
勿論私達家族は、そんな催しがあろう事など知りもしなかったし、
当然お呼びも掛からなかった。
私達の家は、パーティーが行われている区域のちょうど真ん中にあるので、音楽はガンガンで話もろくに出来ない。
パーティーのど真ん中に位置しているので、窓越しに皆の様子が見えるのだ。
子供達は恨めしそうに、玄関の脇のガラス越しに外の様子を眺めていた。
「マミー、私達もあそこに行っていい?」
「皆楽しそうだよ~、僕も行きたい!」
「これはファミリーパーティーかなんかで、私たちには関係ないから、勝手に参加は出来ないのよ。。。」
こう説明する事しか出来なかった。
うち等家族だけ呼ばれなかったなんて、言えるわけもないし、
そんな事実を認めたくも無かった。
「ふ~~ん。。。。」
子供達は納得が行かない風で、窓越しから外を眺めていた。
子供達の後姿を、悲しい気持ちで見つめると同時に、
なにくそ!っていう思いも込み上げて来た。
パーティーは深夜まで及び、窓に恨めしそうに張り付いている子供達に、
「見るんじゃないの!」
と注意をしながらも、内心泣きたい気持ちだった。
ふと別の窓を見ると、
何と、我が夫(プエルトリカン)まで、恨めしそうに窓に張り付くようにして外を眺めていた。
「いいなぁ~、飲んで騒いで楽しそうだな~。
今だったら皆酔っ払っているだろうから、何気に参加しちゃおうかな。
ねぇ、マジで参加しちゃおうよ。」
「はぁ~~!?」
冗談なのか本気なのか、この旦那の一言に救われた気がした。
その後、家の斜め向かいに住んでいる老夫婦が、
外で芝の手入れをしている旦那に話し掛けてきた。
暫く話をしてから、旦那が家に入って来て、
「近所の人達、どうやら僕はメキシカンで、君はフィリピーナだと思っていたらしいよ。」
「は!?」
どっからそんな話が出て来たのか知らないけど、思わず笑ってしまった。
「妻は日本人だといったら、びっくりして喜んで、家の息子は日本人と結婚したんですよ、と言ってたよ。1週間後に息子夫婦が家に遊びに来るとも言ってた。」
それでその時に知り合ったのが、今でも交流のある日本人妻のMちゃん。
彼女はアリゾナ在住なんだけど、時々旦那さんの実家に遊びに来るので、日本語でお喋りしたい彼女は、可愛い娘を連れて我が家に入り浸りになる。
彼女と知り合って話の中心になったのは、やっぱりこの人種差別だった。
当時は、学校の卒業アルバムを見ても99%は白人、という位の白人居住区だったので、彼女も遊びに来る度に肩身の狭い思いをしていたらしい。
何度もくじけそうになったけど、
しつこく挨拶をして、勤めて明るく振舞う内に、
半年後には無視は殆ど無くなった。
時々一緒にエクササイズやショッピングをしたり、お茶をする友達も出来た。
でも、中には変な奴だと思った人も居たかも知れない。
それでも、
内心勝ったと思った。
未だに硬い表情のままツーンとしている人は二人居た。
そんな時は、自分達が一番とばかりに嫌な態度をとられ様が、
可哀相な人達だなと思いつつ、挨拶だけはきちんとした。
こんな人達と、同じ土俵で相撲は取りたくなかった。
心の中で、
相手をリスペクトし続ければ、
いつかは彼女も気が付き、リスペクトしてくれるだろう。と願いながら。。。
これらの経験から、
人を変えたければ、唯文句を言ったり、仕返しをしたりするのでは何も変わらない。かえって状況を悪化させてしまうだけ。
自分は、相手の態度に振り回されずに毅然として、信念を貫かなくてはならないと思った。
そして、自分がして欲しい事を相手にもすれば、いずれは通じる。と言う事も身をもって学んだ。
そうそう、こんな事もありました。
この白人だらけの地域に、メスを入れてやろう!
アジア人に免疫が無いんだったら、このツラ晒して免疫つけたろか!
ってな感じで、
子供達に浴衣や甚平を着せて、Wal★Martやドラッグストアへ買い物に行った事もあったっけ。
面白いのは、人々の反応。
大人は見ないようにして見ているんだけど、
露骨には見ないんですよ。あくまでも平静を装って見ない振り。
子供達はジロジロ見るし、不思議そうな顔をして寄って来て浴衣に触る子も居ました。
好奇心一杯で、天真爛漫な笑顔で話しかけて(質問攻め)来る子も居た。
こういう無垢な心に、大人達が悪い色を着けて行っちゃうんだよね。。
今思えば、自分でも随分大胆な事をしたなぁ。。って思うけど、
それだけ当時は、差別されるって事に対して、
“この野郎!”って思ったのかも知れない。
その時の写真。 町に繰り出す前に撮った。
プエルトリコへ駐在になって、3年後に帰って来て驚いたのは、
家が立ち並んで、この辺の人種が多様になった事。
特にインド人やアジア系が増えた。
子供達のスクールバスへの送り迎えに、中国人のお爺ちゃんとお婆ちゃんが、孫と共に毎朝犬を連れて来る。
英語が殆ど喋れず、唯ニコニコしながら皆が固まってお喋りをしている所から、ちょっと離れた場所に立って居る。
皆から殆ど相手にされないのに毎朝来る。
これは、孫を送り迎えしなくてはならないから来るのだろうけど、
とにかくいつもニコニコしていて、誰からも相手にされないからと言った暗さも無い。
私には、そんな中国人の老夫婦が輝いて見える。
お爺ちゃんのシワとシミだらけの横顔を見ながら、
(精神が)強いな~~って思った。
そしていつの間にか、自分の両親とダブらせた気持ちで見ている自分に気が付いた。
どことなく懐かしくて、特にお爺ちゃんは私の亡き父親とダブって仕方が無い。背丈も雰囲気も何となく似ている。
老夫婦とは、コミュニケーションが殆ど出来ないのだけれど、
目が合う度に老夫婦に向かって手を振っている内に、
毎朝私と目が合うと、お互いに手を上げて挨拶をするようになった。
コミュニケーションが取りたくて、小さいノートブックを持って行き、老夫婦に漢字を書いて見せてお互い盛り上がったりした。
私もこの中国人の老夫婦のように、アメリカで強く逞しく生きて生きたい。
そして子供達にも、そうあってもらいたい。。。。
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追記:
ちょっと前に次女のNicleから、何???、と思う話を聞いた事を思い出したので付け足しておきます。
Nicole: 「マミー、“Asianphobia(エイジアンフォビア)”(これは造語です)ってあるの知ってる?」
顔をしかめている私に、
「アジア系の人達やその文化が嫌い、(苦手)な人って居て、“Asianphobia”って言葉を使っているのを聞いた事があるよ。」
嘘でしょう!?と思って調べると、
“Asianphobia”と言うのはなかったけど、
Sinophobiaというのは出て来た。
これは主に中国人やその文化、又は中国政府に対する嫌悪、差別の事をこう呼ぶらしいけれど、中には、アジア人全体を指してこの言葉を使う場合もあるようです。
一概にこの言葉がアジア人全体を指しているとは言えないけれど、
こういう差別を意味するような言葉自体、存在しているんですね。。。
ふざけんな、と思いました。