199933 ランダム
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           2.

     


       ~snowflake~  2.




窓から差し込む朝の光は
春のように暖かだった。

バルコニーから木立越しに見える
湖面のきらめきがまぶしい。

ゆうべは、ロビーのライブラリーから借りた本を
読んでいるうちに眠ってしまった。
いつもよりかなり早い時間に。

眠たくなったら寝て、自然に、早い時間に目が覚める。
イチバン正当な、そして贅沢な生活だ。


あのあと、レストランでひとりでのフルコースを楽しんだ。
ひとりの食事は慣れていたが、フルコースは初めてで、
直前まで不安な気持ちが消えることはなかったが、
席に着いた途端、ひとりの心地いい空間ができあがった。

30代くらいに見える、品のいいギャルソンが給仕をしてくれた。
見られていないように感じていても、
ちょうどいいタイミングでテーブルにやってきては皿を下げてくれる。
こちらを気にかけているはずなのに、そんな気配を感じさせないことに
またプロの仕事を見せてもらった気がした。



コンシェルジュの青年とは、あれから話すことはなかった。

レストランに行く時は、他の客がデスクに来ていた。
にこやかに話をしながら、パソコンを見たり、
どこかに手配のような電話をして忙しそうだった。

そして帰るときには、彼は席をはずしていた。
コートがなかったから、外に行っているようだった。
本降りになった雪のなか、どこに行っていたんだろう・・・。



まったく予定のない朝。
どこかに出かけようにも、特別な場所はなさそうだった。

他の滞在客は、どんな過ごし方をしているんだろうか・・・。

でも、暖かい日差しを浴びながら、
ベッドの上でゴロゴロする・・・。
なんて贅沢な朝なんだろう。

こんなに優雅にのんびり過ごしていられる立場じゃないのに。

ふと現実を思い出してしまう。
でも、もうどうでもいいような気もしてくる。
無理して、イヤな仕事を続ける必要もないような・・・。
投げやりな気持ちで、あえてのんびり過ごそうと思った。


とりあえず、朝食の前に散歩に出かけることにした。
散歩なんて、普段は考えたこともない。
子どもの頃の記憶の中だけだった。

ロビーに下りると、
スキー板を抱えた大学生らしいグループがいた。

ゆうべの、落ち着いた色のロビーと違って、
外の日差しが差し込み、明るい雰囲気を作っている。

コンシェルジュデスクを見ると、
昨日の彼ではなく、年配の男性が接客をしていた。

賑やかなロビーを抜けて、エントランスへと向かう。
コンシェルジュの青年より若く見えるドアマンがにこやかに応対する。

  「おはようございます。 お出かけでいらっしゃいますか?」

  「はい、ちょっと・・・散歩に・・・。」

  「さようでございますか・・・。
   湖にいらっしゃるんでしたら、どうぞ、お気をつけください。
   岸辺には、お近づきになりませんように・・・。」

  「はい。フロントの方からも聞いてます。 ありがとうございます。」

  「では、いってらっしゃいませ・・・。」

丁重にドアを開けて通してくれる。


遊歩道沿いに歩いていくと、湖が見えてくる。
家族連れや、カップルが先に歩いていた。

長い距離を保ったまま歩くつもりだったが、
すぐに追いついてしまいそうで、
途中、遊歩道を抜けて別棟の建物のほうへと向かった。

離れのような、2階建ての小さなロッジ風の建物。
ここも、ホテルの別棟なんだろうか・・・。

玄関の脇で、ひとりの男性が雪かきをしていた。

表の仕事だけじゃない、こうやって地味な仕事をしている人もいるんだ・・・。
職業柄か、つい興味が湧く場所に足を踏み入れてしまう。

細身のジーンズにスウェットのパーカーという、
この真冬に似つかわしくない軽装で、慣れた動きで道を作っていく。

 
背中を向けて作業していたその人が振り返った。

  「西山様、おはようございます!」

  「えっ?・・・高島さん・・・?」

目の前にいるのは、ゆうべのコンシェルジュの青年だった。
でも、その雰囲気はまったく違っていた。

洗練された所作と言葉づかいで接客をしていた姿と違って
目の前に立っている彼は、息をはずませ、うっすら額に汗している。

コンシェルジュのロングジャケットのスーツも似合っていたが、
そのスタイルのよさは、シンプルな服装で更に際立っていた。

  「こんなお仕事もされるんですか・・・?」

思わず尋ねてしまう。

  「仕事では、ないんですよ。」

仕事の時の微笑みとは違う、屈託のない笑顔で答えた。

  「えっ・・・じゃあ・・・ボランティア?」

  「ここは、私たちスタッフの住まいなんです。」

  「あ、そうだったんですか・・・。
   ごめんなさい・・・、勝手に入り込んでしまって。」

  「いいえ、お気になさらないで下さい・・・。 
   離れだと思われるお客さまもたくさんいらっしゃいますから。」

話し方も仕事の時とは違って、敬語ではあっても、より親しみを感じられた。


それにしても・・・。
ゆうべは22時まで、いやもっと遅くまで仕事をしていたのかもしれない。
それなのに朝早くから、こんなに大変な作業をしているなんて・・・。
そう考えながら、素直に思ったことを口に出してみた。

  「なんだか・・・雰囲気、違いますね。」

  「えっ・・・?」

  「お仕事されてるときと、全然違う・・・。」

  「・・・あ~・・・そう、ですよね・・・。」

決まり悪そうに笑いながら、洗いっぱなしのような髪をあわてて撫でつける。
普段はどこででも見かける、こんな自然な仕草も新鮮に映った。

  「あ、ごめんなさい! もちろん、いい意味で。」

  「・・・ありがとうございます・・・って、言っていいのかな・・・?」

ふたりで明るく笑いあった。

  「もう1泊されるとお伺いしておりましたが・・・。」

  「はい・・・。 でももう退屈になってきました・・・。」

  「何かされるとしたら・・・スキーくらいですし・・・。
   退屈な1日を楽しまれてもいいと思いますよ・・・。」

  「はぁ・・・・・。」

退屈な1日を楽しむ・・・。

そういえば、こんなに何も予定のない日って、何年ぶりだろう。
出かけることもない休みの日も、何かしら用事はあるし、
溜まっていた洗濯をしたり、何日かぶりに掃除をしたりで、
いつの間にか1日が終わっていた。

  「ここは、スキー場以外に何もないですし・・・。
   それも、そう近くはないんですよ。
   何もないホテルなんです・・・。」

言葉の意味とは裏腹に、彼は楽しそうに話した。

  「何もない・・・って、ホントはすごく魅力的なんですよね・・・。」

すると、彼は本当に嬉しそうに、満面の笑みを返した。

  「はい・・・。
   そう言っていただけると、嬉しいです・・・。
   日常を忘れていただくのが、本来の目的ですから・・・。」

日差しはあっても、真冬の冷たい空気のなか、
彼の首筋に光る汗がまぶしすぎて・・・
これ以上ここにいると、本当の目的を見失いそうな気がした。

  「・・・じゃあ、もう行きますね・・・。
   退屈を楽しまなくっちゃ・・・。」

  「はい。 ごゆっくりお楽しみください・・・。
   あ、それから・・・。」

  「えっ?」

  「今夜、小さなイベントがありますから・・・
   よろしかったらご参加ください・・・。」

  「え? イベント?」

  「はい。 ときどきは、何かあるんですよ。」

人懐っこい笑顔。
ゆうべのレストランでの笑顔とおなじだ・・・。

  「そうですか・・・。 じゃあ“ときどき”に当たってラッキーですね。」

  「はい。 どうぞ、お楽しみに・・・。」

笑顔でお互いに会釈をして、湖のほうへと向かう。

振り返ると、彼はまた雪かきを始めていた。
制服のジャケットに隠れて気づくことのなかった、
力強い肩の動きに、思わず足を止めてしまう・・・。

遊歩道から人の話し声が聞こえてきた。

あわてて歩き始める自分がおかしくて、

  「なにやってんだろ・・・。」

思わずひとりごとをつぶやいていた・・・。



朝の日差しにキラキラと輝く湖面を眺めながら、
足元の雪の感触を楽しんではみたものの・・・。

ひとりになると、ひとりだからこそ、余計なことばかり思い浮かべる。
現実を忘れることなんてできない。
永遠に、ここにいることもできないんだから・・・。
東京に戻れば、環境が大きく変わるんだ・・・。

すべてから逃げ出したかった。
現実の厳しさから。

ずっとここにいられたら・・・。
さっきみたいに、彼とときどき話ができればいい・・・。

でも、自分の生きていく場所ではないとわかっていた。

そうだ・・・あの雰囲気で話ができれば、
取材のことも切り出しやすいかもしれない・・・。

元来た道を引き返す。

さっき、彼と話した場所に戻ってきた。
が、もうすっかり雪は整えられていて、すでに彼の姿もなかった・・・。



       *  *  *



部屋に戻ってからは、ずっとパソコンに向かっていた。
昨日からのことを書き綴っていても、
取材が成立しないと意味がないのはわかっている。

それでも、書き残しておきたかった。

退屈な時間が続くと本当にやりたいことが見えてくる。
“退屈を楽しむ”というのは、
そう気づくことも含まれているのかもしれない。


ひと息ついた時にはランチタイムはとっくに過ぎていた。
お茶だけするつもりで、ラウンジに向かう。


コンシェルジュデスクには、ゆうべと同じ、仕事の顔の彼がいた。
朝の体育会系の雰囲気はすっかり取り払われて、
洗いっぱなしに見えた髪も整えられていた。

どちらが本当の彼なのか、わからなくなる。
プライベートでの彼が本来の姿だとは思ってみても、
センスのいいロングジャケットを着こなす彼も、
また本当の姿だと思えた。

こちらに気づいて、優しい笑顔で会釈をする。
席を立って歩いてくる姿は本当に美しく思えた。

  「西山様、先ほどは失礼いたしました・・・。」
 
  「こちらこそ、プライベートなお時間にごめんなさい・・・。」

  「いいえ、ちょうど休憩するところでしたから・・・。」
   ・・・退屈を、お楽しみでいらっしゃいますか?」

  「・・・はい。 とーっても・・・。」


ふたりで笑いあう、心やすらぐひとときだった。
本当に、普通の客として来ていたら、どんなに心地よかっただろう。
でも・・・。
いつかは切り出さないといけない。
不意に決心がついた。

  「あの・・・高島さん・・・?」

  「はい・・・。」

その時、彼の足元に何かがぶつかってきた気配がした。

見ると、ちいさな男の子が、彼にしがみついている。

ここで子どもを見たのは初めてだった。
ゆうべから、そんな気配も感じなかった。

男の子を受け止めて、彼は一瞬遠慮がちにこちらを見た。
話の途中だったのを気にしているかのように。

それがわかってすぐに笑顔でうなずくと、
微笑みで返して、彼はかがんで男の子に向き合った。

  「すごいなぁ翔くん、すっかりゲンキになったね!」

また聞いたことのない口調で、男の子に話しかける。

  「うん!」

  「じゃあ、もうだいじょうぶだね!」

母親らしき若い女性が笑顔で近づいてきて、
こちらに向かって申し訳なさそうに会釈をする。

  「高島さん、本当にお世話になりました・・・。」

彼は立ち上がって頭を下げた。

  「いえ・・・、私は何も・・・。
   お元気になられてよかったです・・・。」

  「ゆっくりお休みになれなかったのではないでしょうか・・・?」

  「櫻井様、お気遣い恐れ入ります・・・。 
   充分休ませていただきましたので・・・。」

男の子が割り込む。

  「雪だるまとサヨナラしてきたよ。」

  「そっかぁ・・・。 でもまた会えるよ。」

  「うん、また来るからね、雪だるまに会いにくるからね!」

  「そうだね、またおいでね。
   きっとベランダで待ってるから
   今度は雪だるまのお友だちつくってあげようよ。」

  「うん!」


雪だるま・・・ゆうべの銀のトレーの雪だるまだ・・・。
すぐに思い出した。
この男の子の部屋に持っていったんだ・・・。

  「きてきてー!」

男の子が彼の手を引いて、暖炉のほうへと走っていく。

それを見送って、母親がこちらに向き直った。

  「すみませんでした・・・。 お話し中に割り込んでしまって・・・。」

  「あ、いいえ・・・ただの世間話ですから・・・。
   あの・・・、雪だるまって・・・?」

  「あの子のために、高島さんが作って持ってきてくださったんです・・・。」

母親の視線を追うと、男の子は彼に抱きかかえられて、
ライブラリーの本を取ろうとしていた。

  「雪だるまを作るって、楽しみにしていたんですが・・・。
   到着早々熱を出してしまって・・・。」

  「それは・・・お気の毒でしたね・・・。」

  「はい・・・。
   結局、ずっと部屋で寝てるだけになってしまって・・・。
   高島さんがときどき様子を見に来てくださっていたんですが、
   息子が雪だるまのことをあきらめきれずにいるのを聞かれて、
   わざわざ作って持ってきてくださったんです・・・。」
 
  「そうなんですか・・・。」

  「主人が休な仕事で来られなくなってしまって、
   息子とふたりだけでしたので、不安だったんですが・・・。
   他のお仕事でお忙しいでしょうに、
   ゆうべからずっと、本当によくしていただいて・・・。」

ゆうべの彼の表情を思い出しても、
そんな事情を感じ取れる様子は浮かばなかった。

仕事とはいえ、24時間宿泊客を気遣うことが
どれだけ大変なことか、充分想像ができた。

街のなかのホテルとは違う
雪に閉ざされた、仕事場と住まいが一緒になっている場所で
家族同然に、宿泊客をもてなしつづけること。
シティホテルにはない親密なサービスの大切さと大変さ。


  「高島さんだけではなくて、
   このホテルのスタッフの方みなさん素晴らしいですよね。
   今まで利用したなかで、サービスは一番だと思いますよ・・・。」

  「そうですか・・・。」

見るからに“セレブ”だとわかるような雰囲気。
「今まで利用した」ホテルも高級クラスだろうと思えた。
それだけのひとが、穏やかな笑顔でいる。
子どもの熱で、寛ぐことなんかできなかったはずなのに・・・。


  「行き届いたサービスは、一流といわれるホテルでも
   充分受けることができますが・・・
   こちらのサービスは、心がこもっているんです・・・。」

  「・・・心が・・・?」

  「はい・・・。 家族のように、温かくて・・・。」

  「・・・そう、ですよね・・・。」


うなずきながら、まだ迷っていた。
このホテルの魅力をたくさんの人に知らせたいと思う気持ちと、
自分だけの取っておきの場所にしておきたい気持ち・・・。

時間はもう、あまり残されていないのに・・・。



       *  *  *



男の子と母親が出発するのを見送って、
改めて彼に話しかけた。

  「高島さん・・・お願いがあるんですけど・・・。」

  「はい、先ほどはお話の途中で失礼いたしました・・・。
   どうぞ、お掛けになってください・・・。」

穏やかな笑顔で、コンシェルジュデスクに案内すると、椅子を引いてくれた。
腰掛けると、デスクの向こうに回りこんで彼も席につく。

  「いかがなさいましたでしょうか・・・?」

真っすぐに見てくる曇りのない瞳を前にして、一瞬弱気になりそうになる。
でも、このままで帰るわけにはいかなかった。

  「あの・・・、実は私・・・こちらには仕事で来たんです・・・。」

  「さようでございましたか・・・。
   お仕事は、順調でいらっしゃいますか・・・?」

  「・・・あの・・・こちらのホテルの取材に来たんです・・・。」

彼の表情が変わってしまうことを恐れていた。
自分に対する態度も変わってしまうんではないかとも・・・。
ところが・・・
一段と優しい笑顔で頭を下げる。

  「それは、わざわざご足労いただきまして、ありがとうございます・・・。」

  「えっ・・・?」

拍子抜けして、その後の言葉が咄嗟に浮かばなかった。

  「・・・あの・・・、こちらでは、取材は一切お断りになると・・・。」

  「申し訳ございません・・・。
   私がお返事をさせていただくことではございませんので・・・、
   支配人からご説明させていただいてよろしいでしょうか・・・。」

やっぱり・・・断られるんだ・・・。
でも、ほんの少しでも期待が持てれば・・・。

  「はい・・・、お話しさせてください・・・。」

席を立って、名刺を差し出す。
すぐに彼も席を立ち、内ポケットから名刺を取り出した。
一瞬で、ビジネスの雰囲気になる。

  「・・・西山と申します・・・。」

  「ありがとうございます・・・。
   改めまして、高島と申します・・・。」

お互いに頭を上げると、親しみのある微笑みを交わした。

  「支配人をお呼びいたしますので、しばらくお待ち下さいませ・・・。」

そのまま、彼は急ぎ足でフロントの女性に声をかけると
通路の奥へと消えた・・・。

内線で呼び出さないのかと不思議に思ったが、
すぐに気づいた。
自分の目の前で事情を話すと、こちらも気まずく感じるだろうことに。
ほんの少しの気遣いも、緊張する場面ではありがたかった。


ほどなく、支配人がやってきた。 後ろに彼もついている。

ゆうべ、ここで話したときとおなじ笑顔で、少し緊張も和らぐ。

  「西山様、取材のお話をいただきましたそうで・・・恐れ入ります・・・。」

  「あ、いえ・・・こちらこそ、失礼なこととは存じておりますが・・・。」

  「いいえ、お声をかけていただけるのはありがたいことですので・・・。」

  「・・・・・。」

断ってくるのなら、もうこの場でハッキリしてくれたほうがいいとも思った。
でも、ここで途切れてしまうより、少しでも話を聞けるだけでもいい・・・。

  「西山様・・・、恐れ入りますが、
   場所を変えさせていただいてもよろしいでしょうか・・・?」

  「あ、はい・・・。」

  「どうぞ、こちらでございます・・・。」

支配人の後を、フロントの奥の通路へとついていく。
彼も後につづく。

重厚なドアの前に着くと、彼が素早く前に回りこんでドアを開ける。
支配人も入り口の横に立ち、先に通してくれた。


部屋に入るなり、思わずため息をついて見渡してしまった。
応接室にふさわしい、古美術品や重厚な家具。
この部屋は、一段と歴史を感じさせるものだった。
ここに入ることができるだけでも、得をした気分になる。



  「どうぞ、お掛けになってください・・・。」

支配人が案内する。
彼は閉めたドアの前に、穏やかな笑顔で立っている。

客を案内するふたりの連動した流れに、思わずため息をつきそうになる。

名刺のやり取りを済ませると、

  「何かお飲み物をお持ちいたしましょうか・・・?」

支配人が、笑顔で話しかける。

  「あ、いえ、どうぞお気遣いなく・・・。」

  「せっかくですので、どうぞ、ご遠慮なく・・・。
   ちょうど、アフタヌーンティーのお時間でございますから。」

一段と優しい笑顔で・・・。
断るのがヤボに思えてくる。

  「はい、では、いただきます・・・。」

  「お好みのものをお持ちいたしますが・・・?」

  「それでは・・・温かい紅茶を、いただいてよろしいでしょうか?」

  「かしこまりました・・・。
   ちょうどよかったです・・・。」

  「えっ?」

  「彼が淹れる紅茶は、このホテルで一番ですから・・・。」

見ると、一瞬彼が少し驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔で頭を下げた。

  「かしこまりました・・・。」

静かにドアを開けて、彼が出ていった。

ドアが閉まると、また緊張が押し寄せてくる・・・。

  「それでは早速、ご依頼の件ですが・・・。」

もう答えはわかっていた。 静かな気持ちで受け入れられる。

  「西山様には、こんなところまでわざわざご足労いただきましたのに
   申し訳ございませんが・・・、
   私どもでは、どちら様からの取材も一切お断りさせていただいております・・・。」

  「・・・はい・・・、承知しておりました・・・。」
 
  「さようでございましたか・・・。
   それでも、こちらまでお越しいただいたのですね・・・。
   本当に、申し訳ございません・・・。」

  「いえ、こちらのサービスは素晴らしいと知人からも聞いておりまして、
   いちどお伺いしたかったんです・・・。」

  「それはありがとうございます・・・。」

  「あの・・・、取材もですが・・・、
   宣伝やホームページの運営もされていないですよね・・・。」

  「はい・・・。」

  「それは、どういったことで・・・。」

  「・・・ただ、創業当時からの状態を続けているだけでございます・・・。」

  「・・・・・。」

  「おわかりの通り、客室数もわずかの、小さなホテルでございます。
   スキー場からも離れておりますし、満室にならない日も少なくはありません。
   広報を充実させれば、おいでになるお客さまも増えるかもしれません・・・。」

  「はい・・・。」

  「保守的すぎると仰られると、返す言葉もございませんが・・・。」

  「いえ・・・。」

  「この状態を続けていくこと、守っていくことが、
   お客さまへ、滞りなくサービスをさせていただくために
   一番大切なものだと、スタッフ一同考えております・・・。」

  「・・・そう、ですね・・・。」

  「どのようなサービスも、生き物でございます。
   同じことをさせていただいたつもりでも、お客さまのご事情や
   いろいろな状況で、受け止め方も違ってまいるのが当然です・・・。」

  「はい・・・。」
 
  「活字になることも、ホームページを作ることも、
   実際にご宿泊いただいてお感じになられることとは、
   少なからず、距離ができてしまうものでございます・・・。」

  「・・・・・。」

  「それ以上でも、それ以下でもない、 
   このホテルの中でしか、おわかりいただけないことを、
   大切に守っていくだけでございます・・・。」

難しい言葉ではなく、素直な気持ちがよくわかった。

これくらいの肩書きのある人なら、
権力を誇示したり、難しい言葉を並べ立てたりする人も少なくはない。
自分みたいな、人生経験もほとんど積んでいない人間が相手だとなおさら・・・。

常に穏やかな笑顔で、まっすぐに語りかけてくる支配人と、
コンシェルジュの彼がダブって見えた。

ふたりで静かに微笑み合う。
何も、言うことはなかった。

しばらく、当たり障りのない会話が続いた。
支配人は父親と同じくらいの年齢だろうか・・・。
もうずっと実家に帰っていない。
母親とは電話でよく話しても、
父親とはずっと、ゆっくり話すこともなかった。

そんなことも、不意に考えてしまうような
穏やかで優しい、真冬の午後だった・・・。



ドアのノック音がした。

  「どうぞ・・・。」

支配人の声に、静かにドアが開く。
 
  「失礼いたします・・・。」

木製のワゴンを押した彼がゆっくり入ってくる。

ワゴンの上には、白い磁器のシンプルなティーセットと
ティーコジーを被せたポットがふたつ。
木枠の小さな砂時計は、砂が落ちている途中だった。


  「ここだけの話ですが・・・。」

支配人が、声をひそめて話しかける。

  「彼が紅茶をサービスさせていただくことは、めったにないんですよ。
   当ホテルの裏メニューでございます・・・。」

  「えっ? そうなんですか・・・?」

彼は、困ったように微笑んでいた。

  「いえ、そんなにたいそうなものではございません。
   まかないみたいなものです・・・。」
 
砂時計の砂が落ちきると、ひとつのポットの蓋を取り、
柄の長いスプーンでひとかきし、カップに紅茶を注いだ。

  「失礼いたします・・・。」

白いカップに、濃いオレンジの水色。
温かい湯気と一緒に、さわやかな香りが上ってくる。

続けてテーブルに置かれたのは、

  「・・・これは・・・、和菓子ですか?」

小さな花の形に抜かれた、見るからに和風の干菓子だった。
同じ皿の上に、シンプルなクッキーも盛られている。

  「はい、和三盆と、レモンのクッキーでございます・・・。」

  「紅茶に・・・和三盆ですか?」

  「はい。 こちらで選ばせていただきましたダージリンと
   相性のいいお菓子をお持ちいたしました・・・。」

  「そうなんですか・・・。
   和菓子を合わせるなんて、初めてです・・・。」

  「どうぞ、お試しくださいませ・・・。」

  「いただきます・・・。」

カップとソーサーを手に取り、香りを楽しむ。
爽やかな果物のような、花のような香り。
思わず深呼吸すると、その芳香が全身に満ちるようだった。

口に含むと、鼻に抜けるその香りそのままに
まろやかで深い、穏やかな味を楽しめた。

  「ほんとに・・・ほんとにおいしいです!」

それしか言えなかった。
余計な言葉は必要ない。

  「ありがとうございます・・・。」

また人懐っこい笑顔を見ることができた・・・。


和三盆は、口に入れるとスッと溶ける上品な甘さが
気品のあるダージリンの香りを邪魔しないし、
レモンの香りのクッキーも、また違った爽やかさで
より紅茶の風味を楽しませてくれた。


しばらくテーブルの横で会話に加わっていた彼が
またワゴンのそばに向かった。

気になっていた、もうひとつのポットを
磁器のジャグに向かって傾ける。
注がれたのは無色透明の液体だった。
すぐに、ポットを温めていたお湯だと気づいた。

空のポットに、最初のポットの紅茶を移しかえ、
テーブルの上に置いた。

ひと息置くと、

  「それでは、失礼いたします・・・。
   どうぞ、ごゆっくり・・・。」

一礼すると、ワゴンを押して外に出た。

このまま、ここにいてくれたらいいのに・・・。

他にも仕事があることは充分わかっているつもりでも、
本音が顔に出てしまっている気がした。

静かにドアが閉まる・・・。

支配人が切り出す。

  「彼はとっておきの茶葉を出して来ましたよ・・・。」 

  「えっ?」

  「ダージリンといいましても、
   収穫の季節によって、種類が異なりまして・・・。」

  「あ、聞いたことがあります。」

  「これは夏摘みの、香りも味も、一番のものなんです・・・。」

  「そうなんですか・・・。」

  「西山様のイメージそのものだと思いますよ・・・。」
   
  「そう、でしょうか・・・。」

  「はい・・・。
   今回は彼と私の意見が一致したようです・・・。」

支配人の冗談に、一緒に笑いあった。
父親ほど年齢が離れていても、
友だちのような雰囲気にしてくれる・・・。

この人がいる限り、このホテルの温かい雰囲気は守られていくだろうと思えた。
そしてそれは、きっとずっと、
若いスタッフにも受け継がれていくのだろうと・・・。



  「あの・・・。」

  「はい・・・。」

  「私、それほどたくさんのホテルを見てきたわけではないんですが・・・。
   なんて言ったらいいのか・・・、
   初めて、ほんとうに贅沢な時間を過ごしているような気がします・・・。」

  「さようでございますか・・・。 それは嬉しゅうございます。」

  「先ほど、雪だるまのお話をお伺いしました。
   あの・・・男の子のお母さんに・・・。」

  「はい・・・。」

  「そんなことまでされるんですね・・・。」

支配人は微笑みながら、穏やかに、

  「コンシェルジュに限らず、スタッフの仕事の範囲は、特に決められてはおりません。」

  「・・・・・。」

  「お客様のお気持ちを一番に考えさせていただいたうえで、
   スタッフひとりひとりが、テリトリーを越えてでも、
   心からそうしたいと思うことを任せておりますので・・・。」

  「では、上司の方にお伺いを立てることもされないんですか?」

  「もちろん、独断ではお返事できないこともございます。
   ですが・・・、ほとんどの場合、それぞれの感性に任せております・・・。」

  「そうですか・・・。 では、雪だるまも・・?」

  「はい。 あの時、私は彼が外にいることだけを聞いておりました。」

  「じゃあ・・・。」

  「はい。 彼が雪だるまを持って入ってきたときは、内心びっくりいたしましたよ。」

一緒に笑いあう。

  「しかし、熱で寝込んでいらっしゃる小さなお客さまのことは
   伺っておりましたので、
   すぐに理解することができました・・・。」

  「そうですか・・・。」

  「彼は、特別なことをしたわけではありません・・・。」

  「えっ・・・。」

  「私どものような小さなホテルならではの基本的な感情だけです。」

  「それは・・・。」
 
  「単純なことです。 
   お客さまもスタッフも、
   この小さなホテルの屋根の下にいるすべての人々に、
   家族のような気持ちで接する、それだけでございます・・・。」

  「家族・・・。」
 
  「はい・・・。」
  
  「そうですよね・・・。」

  「例えば、雪だるまの件は、かわいい甥っ子のために、
   はたまた、若い頃にできた、息子のために・・・といったところでしょうか?」

  「あはは!」


支配人の、場を和ませる言葉も楽しめるくらいにリラックスしていた。

  「そうですよね・・・。
   大きなホテルでは、充分なサービスも受けられますけど・・・、
   なんというか・・・、いい意味でも悪い意味でも、完璧なんです・・・。」

  「ほぉ・・・。」

  「あ、もちろんこちらのサービスも素晴らしいですけど・・・、
   おっしゃるとおり、とても心が通っていて・・・。
   仕事としてではなく、家族のことを思いやるような、
   自然なあたたかさを感じられるんです。」

  「それは、ありがとうございます・・・。
   しかし、高島もコンシェルジュとしましては、まだまだでございますから・・・。」

  「いいえ、そんなことありません・・・。」

トツゼン、ゆうべのレストランでの情景を思い出した。
席を見に行くために、レストランの入り口を通るとき、
マネージャーとのアイコンタクトだけで通してもらったことを・・・。
普通なら、どういった用件か、ひと言だけでも交わすはずなのに。

  「私、ホテルの取材が目的ではありましたが、
   高島さんにすごく興味を持ってしまいました・・・。」
 
  「さようでございますか・・・。 ありがたく存じます。」
 
  「本当に、スタッフの方とも信頼関係ができてらして、
   うわべだけでない、お人柄が滲み出るようなサービスをなさいますね。」

  「そうお感じになっていただけましたら、幸いでございます。
   コンシェルジュとしては、まだまだ駆け出しでございますし、
   スムーズに仕事が運べるようになりましたのも、ごく最近でございますので。」

  「でも・・・あの若さでコンシェルジュを任されたのは
   やはり、それなりの理由があるからこそ・・・ですよね?」

  「さようでございますね・・・。
   確かに、おっしゃるとおりです。
   まだまだ荒削りなところがございますが・・・。」

人によっては堅苦しく感じさせる、洗練された所作や言葉づかいも、
彼の素直で優しい雰囲気のフィルターを通すと、
誰にでも、自然な温かさとなって伝わってくるはず・・・。

ベテランのスタッフとアイコンタクトが交わせるようになるまで
いろんなことがあったに違いない。

そして今は、まわりのスタッフに見守られて育っている途中なんだ・・・。


彼がうらやましかった。
今の自分と比べていた。

ひとりで何でもできると思い込んで、
空回りばかりだった。
弱さを見せるなんてできなかった。

最先端のファッションばかり追いかけて、
本質を見る目が曇っていっても、
立ち止まろうと思ったこともなかった。

レールからはずれて、初めて気づく・・・。

もう、遅いのに・・・。




彼がときどき不意に見せる、人懐っこい笑顔が浮かぶ。
それが“荒削り”なところだとしたら、
変わらず、そのままでいてほしいと思った。 

あまりに慇懃な態度が身についてしまうと、
どこにでもいる、無難で個性のないホテルマンになってしまう。

  「私は・・・。」

  「はい・・・。」

  「すべて完璧にこなされるより、人間味のあるほうがいいと思います。
   家族だったら、なおさら・・・。」

  「・・・さようでございますね・・・、ありがとうございます。」

  「あ、すみません、こんな何もわかってない人間が偉そうに・・・。」

  「いいえ、お客さまのお言葉は、私どもの財産となりますので・・・。」

  「はぁ・・・。」

  「さぁ、おかわりはいかがですか?
   彼の紅茶を、最後の一滴まで楽しみましょう・・・。」

1杯目より、少し深い色の紅茶が注がれる。
その味も、より深く落ち着いたものに変わっていた。


もうすぐ、早い夕暮れがやってくる。
この夢のような時間も、やがて終わる。
明日には、また現実に戻されるんだ・・・。

名残惜しくて、涙がこぼれそうだった。


  「2杯目で、本来の色と味が楽しめるんですよ・・・。
   必ずしも、1杯目が一番だとは限らないんです・・・。」
 

その言葉が、なぜか深く心に沁みた。
紅茶のことを言っているだけなはずなのに・・・。


1杯目が一番上質だと思い込んでいた。
もちろん、爽やかに香り立つ芳香には華やかさがある。

でも、2杯目を味わうと、その深みの魅力がよくわかった・・・。



くちびるを噛み締めて支配人を見ると、
なにもかもわかっているかのような、
優しいねぎらいのような微笑でうなずいてくれた。




この場所があれば、がんばれる。 きっと。

いつかまた帰ってこよう。

まだ、答えは見つかってないけど・・・。



紅茶の香りは、優しく包み込むように身体を温かくしてくれた。

その感覚は、彼の存在そのものと重なっていくようだった・・・。



                    つづく。                            


                              25,Oct.2009




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