愛の鞭、暴行…その境界
大阪の高校バスケットボール部での、教師による暴行が原因で生徒が自殺したとされる問題は、市長が亡くなった生徒宅に直接出向き、全面的に非を認めて謝罪する事態に発展した。実はワタシも、中学ではバスケ部に所属し、厳しい指導を受けたことがある。日々の練習では常にピリピリした空気が充満し、今なら体罰に相当するであろう平手打ち、のち鼻から流血なんてことも日常チャメシゴトに行われていた。校内では、男女ともバスケ部の厳しさは群を抜いていて、飛んでくるのは顧問の平手打ちのみならず、ボールを力いっぱい(時に顔面目がけて)投げつけられたり、磁石のコマを動かしてフォーメーションを指示する『作戦板』なる鉄製のボードが練習の最中にコートへ投げ込まれるなんてこともあった。試合には生徒の父兄も応援に来ていたが、そんなことお構い無しで動きの悪い生徒は公然と先生の平手打ちで吹っ飛ばされていた。しかし、我がバスケ部においては殴られた生徒の親が先生の“暴力行為”を糾弾することなど一切なく、むしろ「殴られてこそ一人前」とするような風潮すらあった。“暴力行為”が黙認された背景には、ある程度結果が伴っていた(市内では強豪の部類だった)こともあったのかもしれないが、先生と生徒にもある程度の信頼関係が築かれていたことも大きかった。練習や試合で怒られることは多くても、時に【フリースロー対決】などの息抜きのようなミニゲームで緊張をほぐしたり、誉めるところはキチンと誉めることで生徒のやる気を掻き立ててくれた。個人的にも、盲腸で入院した時に全部員が見舞いに来てくれたのは、練習を中止してまで先生が行くように命じたのだと聞いて、退院後の練習に一層身が入った記憶がある。今度の事件が起きてしまった原因を、体罰そのものや生徒の精神の弱さによるものと決めつけるのは、いささか性急すぎる気がする。生徒に甘く、授業中騒いでも怒らなかった先生って、実はあまり記憶に残らないものだ。ワタシたちの記憶に焼き付き、人生における指針のひとつやふたつ示してくれたのは、時に体罰も辞さなかった厳しい先生だったりするのではないか?しかし、教師にとって愛の鞭のつもりでも受ける生徒がそこに愛情や熱意を感じなければ、それはやはり暴力でしかなくなる。受け手である生徒が、人格形成の途上にある未成年ならなおさらのことだ。今回の件では教師のみならず、家庭における親の立場からも、子供に対する姿勢を考え直すいい機会ともなるのではないだろうか?ぎっちょ