丸の内界隈そして皇居へ(その1)
「世田谷区の淨真寺」の見事な紅葉を楽しんだ後は「東京駅」に向かう。「東京駅丸の内駅前広場」に出て「東京駅」を見る。1914年(大正3年)に竣工した赤レンガ造りの丸の内口駅舎は辰野金吾らが設計した。2003年(平成15年)に丸の内駅舎は国の重要文化財に指定されており、重要文化財指定の駅建築物は当駅と門司港駅(福岡県北九州市門司区)のみである。また、「関東の駅百選」認定駅でもある と。駅舎は辰野金吾と葛西萬司が設計し、そのデザインは「辰野式ルネッサンス」と呼ばれ皇室用玄関である「天皇の駅」としてのシンボリックな意味を持たせる事になった。中央停車場建物展覧図 / 辰野金吾、葛西萬司 / 1910年(明治43年)。品川白煉瓦製の赤煉瓦を外観に使用、構造煉瓦として埼玉県深谷市から鉄道輸送されたレンガと鉄筋造り、3階建て総建坪9,545平方メートル・長さ330メートルの豪壮華麗な洋式建築である。南北にそれぞれドーム状の屋根があり、当時は丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分けて使用されていた。中央の玄関は皇室専用とされ、規模は小さいものの、細かい装飾が各所に施されていた。中央玄関と東西の一般出入り口との間に、各1つ別の出入り口があるが、これは荷物の搬入搬出口として設けられた。開業年の1914年(大正3年)は第一次世界大戦の開戦の年でもあり、青島の戦いを指揮した陸軍司令官神尾光臣中将が凱旋し、皇居に参内するイベントに合わせて開業式を行った。式典では、鉄道の草創期から建設を牽引してきた大隈重信首相が演説した。アムステルダム中央駅が当駅舎を設計する際のモデルになったという説があるが、1988年(昭和63年)以降に藤森照信らをはじめとする西洋建築研究者により設計者の系譜や建築様式の両面から、否定的な意見も出ている。辰野は英国留学の経験があり、首都ロンドンのターミナル駅を参考にした可能性もある と。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月25日、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)では丸の内駅舎の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こした。これによりレンガ造の壁やコンクリート製の床など構造体は残ったが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた。同年8月の終戦直後から修復計画を立案し、年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事を行った。3つのドーム部分の外壁は修復したが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更。中央ドームは木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームは丸型から台形に変更。軒蛇腹・パラペットや壁面、柱型、窓枠などは2階建てになっても忠実に復元した。南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したデザインに変更、といった内容だった。仮の修復だったが、当時の鉄道省や大林組の努力で日本の中央駅として恥ずかしくないデザインで修復をした逸話が伝えられている。中央部高さは28mと。軒高さ約17m、切妻部頂部高さ約23m。北ドーム高さは約35m。東京駅改装後に営業を再開した「東京ステーションホテル」は休館前に58室だった客室が150室と増え、ラグジュアリーホテルとして質も大きく向上した。改装された丸の内駅舎43,000平方メートルのうちホテルは20,800平方メートルと丸ノ内駅舎の半分近くを占め、駅舎の3階部分の大半と4階の一部はほとんどがホテルの客室で、2階にも客室の一部、1階と地下にはホテル宴会場が入っている。東京駅南北のドームの中心の空間を駆り囲むように客室が配置されたドームサイドが28室、駅舎の丸の内側に面して並ぶパレスサイド81室、他にクラシックタイプ29室や室内二階建てのメゾネット7室、スイート4室、ロイヤルスイート1室の合計150室。「新丸の内ビルディング」。「新丸の内ビルディング」は、東京都千代田区丸の内一丁目に所在する超高層ビルである。三菱地所のオフィスビルで、地下1階〜7階は商業施設となっている。略称は新丸ビル。2007年(平成19年)4月19日に竣工、4月27日に商業施設フロアがオープン。「丸の内ビルディング(丸ビル)」は、「行幸通り」を挟んで向かい側に所在する。「JPタワー(ジェイピータワー)」「JPタワー」は、東京都千代田区丸の内二丁目(東京駅前)にある超高層ビル。日本郵政グループの初の不動産事業である。建築物としては、旧東京中央郵便局舎を一部保存した低層棟と最高軒高200.0 mの高層棟から構成され、旧局舎の保存部分は免震構造で構造躯体を保存している と。「KITTE 丸の内」は昭和6年に竣工した旧東京中央郵便局の局舎を一部保存・再生した区画と新たに建築した区画からなる、過去と現在がつながる空間。地下1階から地上6階までの7つのフロアには「Feel JAPAN」をコンセプトに、日本の“心地よさ”“奥深さ”“愉しさ”を伝える98のショップ&レストランを揃えた。東京丸の内で、人と人、街と街、時代と時代を結びつけ、たくさんの「ワクワク」を提供し、いろいろなヒト・モノ・コトとの出会いをつないでいく。開業:2013年3月21日所在地:東京都千代田区丸の内2-7-2敷地面積:約11,600㎡延べ床面積:約212,000㎡(店舗面積 9,400㎡)建物構成:地下4F 地上38F(商業ゾーン 地下1F〜地上6F)施設構成:商業、オフィス商業ゾーン店舗数:総98店舗(物販 46店舗、飲食 27店舗、食物販 25店舗)と。「大名小路・都道402号線」を南に進む。江戸期の丸の内・大手町一帯は、大名屋敷が建ち並ぶ武家の町であった。この一帯は、江戸期以前には浅瀬の海(「日比谷入江」)が広がっていたが、江戸期に入り、江戸の普請を命じられた有力大名たちは、ここを干拓し広大な屋敷を構えた。図は江戸末期、1849(嘉永2)年に描かれた『御江戸大名小路絵図』の一部で、右が北、上が「江戸城」(現「皇居」)。図の中央付近に「大名小路(こうじ)」の通り名が見える。【図は1849(嘉永2)年】。「KITTE 丸の内」を左に見ながら進む。「三菱 ビルディング」前を歩く。竹林の如き内装に銀杏並みが映り込んで。その先に、「屋根が開いている赤いバス」でおなじみのスカイバス・SKY BUSの1️⃣停留所。「三菱ビルディング」を振り返って。左手に「丸の内二丁目ビル」。1974年8月30日には、本ビル正面玄関付近のフラワーポットに仕掛けられた時限爆弾が爆発し、8名が死亡、385名が重軽傷を負うテロ事件が発生した・「三菱重工爆破事件」👈️リンク。2003年に三菱重工業は品川グランドコモンズ内の三菱重工ビルに移転し、その後本建物の名称は三菱重工ビルヂングから文部科学省ビルを経て、丸の内二丁目ビルに変更されている。ビル建替え中の仮移転先として、2004年から2008年にかけて文部科学省、その後、みずほフィナンシャルグループの本社を経て、2015年から2018年11月まで東京商工会議所が使用していた。現在は一般の貸しビルとして使用されている とのこと。。そしてその先に赤レンガの「三菱一号館美術館」の北面。三菱一号館は、1894年(明治27年)、東京市麹町区八重洲一丁目(現在の東京都千代田区丸の内)に建設された洋風事務所建築で、煉瓦造の建物内に銀行や商社、郵便局が入居していた。1968年(昭和43年)老朽化のため三菱地所が解体したが、2009年(平成21年)同社により美術館として復元されたのだ。そして東面。「三菱一号館 歴史資料室営業時間 10:00~18:00休館日:毎週月曜日・年末年始」。「南側」・「都道406号線・皇居前鍛冶橋線」沿いに入口があった。「三菱一号館美術館」は、常設展はないと。「三菱一号館」が建設された19世紀末の美術品や工芸品を収蔵している。特に、ロートレックのリトグラフ・ポスターのコレクションは有名。また当時のヨーロッパで流行したジャポニスムをテーマとした陶磁器、銀器、ガラス作品なども収蔵している。年に3~4回の企画展が開かれているとのこと。2024年11月23日にリニューアルオープンした、「三菱一号館美術館Cafe 1894」。赤レンガの壁が続く南側を追う。「再開館記念『不在』―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル会期: 2024年11月23日(土)〜2025年1月26日(日)本展は、19世紀末のパリで活躍したアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)の多彩な版画・ポスターの表現にフォーカスし、当館のコレクションを中心にフランス国立図書館所蔵のロートレック作品と併せて展覧します。また、フランスを代表する現代アーティストのソフィ・カル(1953- )が当館のコレクションの中からディロン・ルドンの《グラン・ブーケ(大きな花束)》に着想を得て制作、当館に新たに寄贈された作品を世界初公開します。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《メイ・ミルトン》、1895年、リトグラフ/紙、館の中核をなすコレクションであるロートレックの展示に、時代を映す鋭敏なアーティストの視点を取り込むために招聘されたのが、現代フランスを代表するアーティストのソフィ・カルさん。「不在」という主題を提案して自らの作品とロートレックの作品を協働させる展覧会を作りあげたソフィ・カルさんのトークイベントが、リニューアルオープン当日に開催された と「」。「三菱一号館美術館」の「入口」、「一号館広場」への南側入口。「三菱一号館美術館」の「入口」。さらに「馬場先門」交差点に向かって進む。「丸の内仲通り」を見る。重要文化財「明治生命館」が右手に。「明治生命館 重要文化財竣工 1934年(昭和9年)指定 1997年(平成9年)」アーチ型の窓枠そして見事な「外周の窓」。重要文化財「明治生命館」を見上げて。優雅なアカンサスの葉飾りが印象的な柱頭部。「日比谷通り」側に回り込んで。「日比谷通り」側から「明治生命館」の内部に入り、美術館「静嘉堂@丸の内」を訪ねた。左手に「曜変天目茶碗」、右手に「重要文化財 明治生命館」案内板。「重要文化財 明治生命館昭和初期、岡田信一郎が設計した明治生命館【下写真、竹中工務店所蔵】が二号館【左上図】跡地に建設され、平成に重要文化財に指定、令和4年10月、岩崎彌之助(三菱2代社長》・小彌太(三菱4代社長)親子の美術品コレクションが静嘉堂@丸の内として世田谷から、明治生命館に移転(明治半ば、彌之助が構想して、コンドルに設計された美術館 Art GalleriesMaru no Uch Tokio【右上図】は未完に終わり、彌之助・小彌太親子のコレクションは世田谷の静嘉堂に所蔵されていた。」目的は「曜変天目茶碗」を見ること。「静嘉堂@丸の内」入口。しかし「本日は店休です」との案内板が。この日は観ることが出来なかった「曜変天目茶碗」をネットから。「曜変天目茶碗」は、天目茶碗のうち、最上級とされるもの。曜変天目と略称され、「曜変」は「耀変」と書かれることもある。焼き上げる過程で黒釉が変化して斑紋が生じているのが特色。漆黒の器で内側には星のようにもみえる大小の斑文が散らばり、斑文の周囲は暈状の青色や青紫色で、角度によって玉虫色に光彩が輝き移動する。「器の中に宇宙が見える」とも評される。曜変天目茶碗は、現在の中国福建省南平市建陽区にあった建窯(中国語版)で作られたとされる。現存するものは世界でわずか3点(または4点)しかなく、その全てが日本にあり、3点が国宝、1点が重要文化財に指定されている。いずれも南宋時代の作とされるが、作者は不詳である。日本では室町時代から唐物の天目茶碗の最高峰として位置付けられている。この紋様が意図的に作り出されたものか、偶然によるものかは議論が分かれている。「曜変」とは「天目」という言葉と同じく日本で作られた言葉で、中国の文献には出てこない。南宋時代の作品だが、日本で曜変という言葉が使われた最も古い文献は室町時代の『能阿相伝集』であり、次の使用例は『君台観左右帳記』である と。「平安文学、いとおかし国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ11月16日【土】~1月13日【月・祝】」と。その先にあったのが「明治安田ヴィレッジ丸の内 2024 Christmas Tree (明治安田ヴィレッジ丸の内 2024 クリスマスツリー)」。時計や歯車のオーナメントで彩られたツリー。ツリー中央の時計は時計が一周するごとにイルミネーションが変化する特別仕様 と。時計に近づいて。見上げて。重要文化財である明治生命館が竣工90周年を迎えることとあわせ、今年のコンセプトは「時を奏でる」。時計・歯車をモチーフにしたオーナメントや螺旋状のリングで、これまでの時の流れを煌びやかに演出するのであった。明治安田イメージキャラクター「めいやす ペンタン」。「丸の内仲通り」にあったイルミネーションモニュメント「Tiffany Holiday 2024 Bird on a Box」夜になると。この後、再び訪ねた時の写真。「馬場先門」交差点を渡った現在地はここ。近づいて。振り返って「日比谷通り」の先の「明治生命館」を。 ・・・つづく・・・